物語の結末は 2
「……僕の聞き間違いでしょうか。今、婚約破棄をしたいと言われた気がするのですが」
「間違っていないわよ。婚約破棄しましょう、カシアン。こちらの有責で構わないわ」
オリビアは淡々と答えるも、カシアンのことを真っ直ぐ見ることができずに顔を逸らす。オリビアが言うことには何でも頷くカシアンのことだ。今回も「オリビアがそうしたいのでしたら」とあっさり同意されるだろうと予想した。
「……嫌です」
しかしそんな予想とは違い、戻ってきたのは拒否の言葉だった。カシアンはオリビアが逃げないように、彼女の手首を掴む。
「僕は、婚約破棄なんてしたくありません」
「っ、なら、私が他の人と何をしようが、文句は言わないで」
「……まさか、またさっきのようなことをするつもりですか?他の男に触れさせて、腰を抱かせて――唇まで許すのですか?」
「……ッ」
(まさか、最初から全部見られていただなんて)
オリビアは、羞恥に顔を赤くさせる。その反応が気に食わないカシアンは、目を細めながら奥歯を噛み締め、慎重に彼女の唇に指を押し当てた。
「他の男が許されるなら、俺がするのも構いませんよね」
するりと唇を撫でられ、まるで息の仕方を忘れたかのように、オリビアの呼吸が止まった。聖下に触れられた時はただの作業に過ぎなかったのに、カシアンに触られた瞬間、触れた箇所が熱を帯び、全ての神経がそこに集中する。心臓の音がカシアンに聞こえてしまうのではないかと思うほど、大きく脈を打っていた。
「カシアン、待って……一度話し合いましょう。だから少し離れてちょうだい……!」
「手を離したらオリビアは逃げるでしょう」
「逃げないから!」
(この力は一体どこから出てきてるのよ!)
手を振りほどこうとすればするほど、カシアンの力は強まっていくから、オリビアは余計に混乱してしまう。オリビアの知っているカシアンはもっと非力で、か弱かったから。
「あの男とはもっと近づいていたではありませんか。なぜアイツはよくて、僕は駄目なんですか?婚約者は僕の方なのに」
「だから、その婚約を破棄しようって言ってるんじゃない」
「どうして急にそんなことを言うのですか?ついこの間、婚約解消はしないと言ってくださったばかりではないですか」
「……事情が変わったのよ」
曖昧に言葉を濁すオリビアに、カシアンはむっと顔を顰めた。
「そんな説明で納得なんてできません。まさかアイツのことが好きになったわけではありませんよね?――だから会わせたくなかったのに」
(会わせたくなかったって、どういう意味かしら。今までわざと聖下を遠ざけていたとでもいうの?)
言われてみれば、祝福祭では毎年聖下が近づく度にカシアンが反対方向に手を引っ張ってくるから、オリビアは聖下の顔を見ることはいつも出来ずにいた。
(どうしてわざわざそんなことを……?)
まさかオリビアが聖下に一目惚れするとでも思っていたのだろうか。透き通るような銀の長髪に、神秘的な黄金の瞳。聖下は確かにオリビアから見ても綺麗な人に見える。でも、ただそれだけだったのに。
「オリビア、早く答えてください。アイツのことを、好きになったわけではありませんよね?」
「……もしそうだと言えば、婚約破棄をしてくれるのかしら?」
「……」
その瞬間、泣きそうな表情で瞳を揺らしたカシアンに、オリビアの胸はずきりと痛んだ。彼を傷つけたくなんてないのに、一度口から出てしまった言葉を今更取り消すこともできなくて、オリビアは思ってもいない言葉ばかりを次々に吐き出してしまう。
「ああ、そうね。もしかしたら、聖下のことを好きになってしまったのかもしれないわ。私、あんな風に力強く抱き寄せられたのは初めてだったもの。カシアンが来なければ、きっとあのまま――きゃっ!」
「もう黙ってください」
冷たい石壁に背中を打ちつけ、オリビアは微かに悲鳴をあげた。自分を壁に押し付けたカシアンに文句を言おうと顔を上げ――口をつぐむ。オリビアを見下ろすカシアンの瞳は、ゾッとするほど冷たく、感情のない眼差しだった。猫の時すらも、まだ優しかったと感じるほどに。
唇を噛み締め自分から目を逸らそうとするオリビアの顎をカシアンは掬い、上向きに固定した。
「急に何するのよ。離して……んっ!んん……っ!?」
文句を言おうとしたオリビアの言葉は、声にならなかった。代わりに、不意に重ねられた唇に瞳を見開く。カシアンを止めようと反射的にあげた手は、すぐに捕らえられてしまう。
「ふぅ……っ、んん、んっ………」
壁に押し付けられている身体では拒否することもできず、オリビアはただカシアンのキスを受け止めることしかできなかった。次第に息苦しくなり、空気を求めて口を開くとその隙を見計らったかのように、ぬるりと生暖かなものが入り込んできて、オリビアの身体が跳ねる。
「逃げないでください」
「……っ」
捻った腰は、簡単にカシアンによって引き戻された。触れられているところが痺れるように熱を持ち、オリビアの身体が震えていく。
「んっ、ふ……んぅ、ぅ……っ」
上手く思考が働かず意識がぼんやりしてきた頃、突然オリビアの足から力が抜けてしまう。ガクンっと落下しそうになった身体をカシアンは慌てて抱き寄せてから、息を切らしたオリビアを心配そうに覗き込んだ。
「オリビア、大丈夫ですか……?」
「大丈夫ですか、じゃないわよっ!相手の意志を確認しないでこんな、く、く、くち……をするだなんて!もし私が本気で嫌がっていたら、どうするつもりだったのよ!!」
「それはつまり、嫌ではなかったということですか?」
オリビアの失言にカシアンが目を瞬いた後、嬉しそうに目元を緩めて、こてんと可愛らしく首を傾けた。
「なら、もう一回してもいいですか?」
「っ、いいわけないでしょ!」
バチンッ!大きな音がその場に響いたと同時に、オリビアからの鋭い一撃がカシアンの頬に加えられた。腕の力が緩んだ一瞬の隙を狙い、オリビアはカシアンの懐から飛び出して距離をとる。
「っこれは許可なく私のくちづ……を奪ったお返しよ!きちんと反省しなさい!」
「はい」
たった今、平手打ちをされたばかりとは思えない軽やかな声で、カシアンはにっこり頷いた。
(少しも悪いと思っていない顔じゃないの!)
色々言ってやりたいことはあるのに、オリビアの頭はもうパンク寸前だった。ただでさえずっと心臓が速く走って爆発しそうなのに、カシアンは更に追い討ちをかけるようにオリビアの指を絡め取り、手の甲に唇を寄せてくる。
「――僕は婚約破棄なんて、絶対にしてあげませんから」
その一言でついにキャパオーバーになったオリビアはカシアンを押し退け、そのまま逃走した。




