56話 シェパード Part.3
――キリが部屋から出ようとドアノブに手をかけた時。
再び、あの地鳴りのような音が響く。
「なっ、なに?」
今回は音が大きく、建物自体が震えているようにも感じた。
「もしかしたら、また何か崩れたのかも知れないさね。二人に連絡して、早めに外へ出ておこうか」
「う、うん」
「なんだかえらい寒気もするし。外壁でも崩れて、風が入り込んでしまってるのかねぇ……」
「寒気?」
キリが腕をさすりながら部屋を出て、出入り口を探そうと見回した時、廊下に瓦礫と共に黒い大きな塊が落ちているのを発見する。
その塊が、白っぽいコンクリートの破片を纏わりつかせながら、ゆらりと立ち上がる。
それは、呪化だった。
しかし、ヤギのような頭を持ち、二本足で立つ、明らかに人間の形ではない異様な姿の。
「……は」
「……メエえぇェェぇぇえ!!!」
キリと目が合った途端、呪化――“ケモノガタ”が吠えた。
人とヤギの声が混ざったような、不気味な声で。
「なっ、あ」
キリの顔が青ざめていく。
彼女達、エクスナーだけが捕らわれるケモノガタへの“恐怖”。
その恐怖に、キリの体は完全に支配されていた。
全身がガタガタと震え足は完全に凍り付き、目の前に危険が迫るにも関わらず、まるでマネキンのようにその場に立ち尽くしてしまう。
そんなキリを見て、二足歩行の黒いヤギは口元を持ち上げた。
ヤギが近づいてくる。
手が届く距離まで来ると、まるで両手で蚊を潰そうとしているかのような動作で、ゆっくりと鋭い蹄のついた腕を広げた。
「キリちゃん!!!!」
飛び出してきたシウがキリを押し倒す。
彼女のすぐ上の空間を、その頭を叩き潰そうとしていた蹄がすり抜けた。
蹄同士が当たり、『がちん!』と大きな音を立てる。
「立って! はやくっ!!」
キリが立ち上がると、シウは彼女の手を引いて走り出した。
「シ、シウ、助かったよ……!」
「ううん!」
キリの手を引きながらも、シウは駆けていく。
「(“ケモノガタ”だなんて……あたし何も感じなかったのに……!?)」
キリの顔は青く、その手は震えており、薙刀を落とさないように持っているのが精一杯のようだった。
シウはキリへ心配そうな視線を向ける。
「キリちゃん、大丈夫!?」
「なんとかねぇ。これが例のケモノガタへの恐怖心さね。体が、全く動かなかったよ……」
「とにかく、逃げなきゃ!」
背後からは不気味な笑い声と、蹄が床を引っ掻く音が聞こえる。
シウの目が、廊下の突き当たりにある『非常扉』と書かれたドアを捉えた。しかし、そこでキリの足がもつれ、転倒してしまう。
「いっ……た……」
「キリちゃん!」
「ごめん、シウ。足が、うまく……」
黒いヤギはすぐそこまで近付いてきていた。
口元をこれでもかと釣り上げた不気味な笑みを浮かべながら、まるで二人の反応を楽しむように、わざとゆっくり歩を進めているようにも見える。
「こないで!」
シウがキリを背に庇い、ナイフを抜いて突きつけるが、黒いヤギはまったく怯む様子は無い。
ヤギは笑い声をあげると、大きく一歩を踏み出し、駆けだした。
「っ……!」
シウが、倒れたキリを守るように彼女に覆い被さった。
振り上げられた鋭い蹄が、シウに迫る。
その時。
彼女達の脇を、2つの影が駆け抜けた。
「うおぉりゃぁぁぁああ!!!!」
雄叫びを上げながら突っ込むイクスの刃がケモノガタの腕を切断し、ほぼ同時にディオの銀色の拳が頭部にめり込んだ。
二人の攻撃を受けたケモノガタは、容易く吹っ飛んでいく。
「っしゃあ! 今回のは斬れるぜ!!」
「イクス! ディオ!!」
「おう! 間に合ったなー!!」
「怪我は無いか!?」
「う、うん」
イクスとディオが、シウとキリの二人を背に立ち、それぞれがヤギに向けて構える。
ヤギのケモノガタは立ち上がり、あの笑い声を上げながら、瞳無き目でこちらをじっと見ていた。
イクスに斬られた腕は、既に元通りになりつつある。
「S班を待つ余裕は無い。俺達で対処するぞ」
「やれるのか!?」
「そこまで厄介なヤツじゃなさそうだ。それに、今はケモノガタに慣れたエクスナーもいる」
ディオはそう言ってシウをまっすぐに見つめる。
「シウ。動けるな? お前だけが頼りだ。いけるか?」
「……うん!」
シウが力強く頷く。
何度かケモノガタに遭遇したお陰か、シウはある程度自由に動けるようになっていた。
彼女はキリを起こすと、壁に寄りかからせた。
「キリちゃん、休んでて! あたし、頑張ってくるから!」
キリは辛そうな表情を浮かべつつ、シウに笑みを見せ頷いた。
「俺がヤツの気を引く。イクスは削りながら、シウのサポートを」
「まかせろ!」
「シウ、“赤い実”の位置は分かるか?」
“赤い実”の位置を探るべく、じっとケモノガタを見た途端、シウがなんとも言えない顔をする。
「あの、分かるんだけどっ、あの……えーと……」
「どうした?」
「えと、場所が、両足の付け根の間というか、真ん中と言うかー」
「つまり……股間、か?」
微妙な表情を浮かべ、シウが頷く。
「いつもの腹部や胸部では無いだと? これもケモノガタだからか?」
「それは良いんだけど、ねえ、ディオ」
「なんだ?」
「あたし、あそこに手を突っ込まなきゃならないの……?」
「……」
思わず吹き出したイクスが、変な咳払いをしてごまかした。
「……シウ」
ディオがキリッと眉を持ち上げ、真剣な顔でシウを見つめる。
「お前だけが頼りだ、やれるな?」
「それさっきも聞いた!!」
「大丈夫だぜシウちゃん! 人体と同じ構造とは限らないからな! きっと何もないさ! うん!」
「よく分からない慰め方やめてくれる!?」
「そうだ。それに、俺達はお前が股間に手を突っ込もうが別に気にしない」
「そういうことを真面目な顔で言うのもやめて!! もー、やる! ちゃんとやるからぁ!!」
シウが両手のプロテクターを付け直し、ナイフを手にして二人と並ぶ。
「行くぞ!」
「おー!!」
「もおおお!! どうにでもなっちゃえーー!!!」
ディオを筆頭に、三人がヤギに向けて駆け出した。
◇
廃ビルの出入り口付近を警備する先行部の二人が、時折心配そうにビルを見上げる。
そこへ――。
「うひー、まいったまいった」
ビルの中から、イクスがキリを支えながら出てくる。
二人とも埃まみれになっており、キリに至っては顔が青白く、足元も覚束ない様子だった。
「だ、大丈夫ですか!? 一体どうなされたんです!?」
「あー平気平気! ケモノガタがでたんだよ!」
「ケモノガタ!?」
慌てて本部に連絡を取ろうと、先行部のアテンダントは白いスマートフォンを取り出した。
「大丈夫だ」
そんな彼らに、後から出てきたディオが言った。
「無事に討伐した」
驚く先行部に対し、彼の後ろにいたシウが、なんとも言えない表情で“赤い実”を掲げて見せた。
◇
その後、装備を調えた先行部が、入れ替わりで廃ビルの調査に入った。
彼らの後処理が終わるのを待つ中、シウはディオに話しかける。
「あの、ディオ。ごめんね。こないだ、ディオの言うこと聞かなくて、子供みたいに駄々こねちゃって……」
『構わない』
いつも通りであれば、彼からはそれだけ言われて終わる筈だった。
しかし、彼は口に手を当て何かを考え込んでいる。
「それで、その……あれ、ディオ?」
「…………俺こそ、すまない」
「へあ?」
「何故そんな顔をするんだ」
「いや、いつものディオなら『かまわない』って言われるだけかと思ってて」
「イクスに、ちゃんとお前も話せと言われたんだ。しっかりと話さないからから誤解を生むんだと。だから、説明させてくれないか」
シウは驚きを隠せない表情で、こくこくと頷いた。
「まず、あの時、治療する事を断ったのは、シキに接触したらお前が危ない目に合うと思っていたからだ。結果的に、キツい言い方になってしまって……だが、お前が心配だったんだ。分かって欲しい」
「……うん」
「後、あの最初のワガママだと言った件だが……あれは言葉のあやで……別に、パートナーとされたのは、迷惑じゃないんだ。むしろ……」
ディオが前髪を掻き上げ、シウから目をそらして横を向く。
初めて見るその仕草に、シウが首を傾げた。
「…………嬉し、かったんだ。お前に、パートナーになってくれと、言われた事が」
シウの瞳が、こぼれ落ちんばかりに見開かれる。
「……へ? うれしかった?」
「……ああ」
「あんなに、しつこくしたのに?」
「そうだ」
「迷惑じゃないの?」
「迷惑じゃない。その……これからも、宜しく頼む」
シウの顔が晴れていく。
「ディオ! ありがとう!! あたしも、そう言ってもらえてすんごく嬉しい!!」
「……そうか」
ディオはそれだけ言うと、シウから目を逸らしたまま、顔を伏せてしまった。
「ちょっと待って。ねえディオ、もしかしてそれ、照れてるの?」
「……」
「照れてる? 照れてるよね? めっずらしー!!」
「照れてない。おい。止めろ。写真を撮るな。おい、消せ! シウ!!」
ディオがシウのルナガル(ファースト社専用スマホ)を奪おうとするも、シウはひょいと逃げてしまう。
そんな二人を、イクスとキリが見ていた。
「どーやら、一件落着したみたいだな?」
「そうだねぇ」
にやりと笑うイクスに、キリも同じように笑って見せた。
「なあキリ、今更だけどさ」
「なんだい」
「キリはオレがパートナーで良かったか?」
「さあね。でも、うちは嫌いなヤツとは一緒にいないさね」
「素直じゃないなぁ!」
「それもうちらしいだろう?」
キリがイクスに微笑んだ。




