34話 ラフィング・ボア Part.1
ディオと、イノシシのような異形の呪化――“ケモノガタ”が睨み合う。
ケモノガタの体は大きく、その体高は180cmを超えるディオの身長の半分ほどもあった。
ディオの背に庇われたシウは助けを呼ぶべく、震える手でルナガルを操作し始める。
「あっ……!」
――が、震える手を制御出来ずに落としてしまい、ルナガルは地面で跳ね上がって離れた場所に落ちていった。
シウはそれを追いかけ、ふらつきながらもディオの背から飛び出していく。
「シウ!?」
ディオが振り向いた、その時。
イノシシが走り出した。
振りかざされる黒い牙に狙われたのは――シウだ。
「しまっ……!」
鋭い牙がシウに迫る。
シウは短く悲鳴をあげ、その緋色の瞳が恐怖に震えた。
その刹那――ディオが、シウとケモノガタの間に割り込み、全力でその黒い頭を抑え込んだ。
黒い牙がシウに届く寸前、ケモノガタの足は止まる。
だが、代わりにその牙は、ディオの体に深々と突き刺さっていた。
「ディオ!!!!」
悲鳴に近い声でシウが叫ぶ。
ディオは苦悶の表情を浮かべながらも、イノシシの顔を正面から蹴り飛ばして無理矢理離れさせる。
その衝撃で彼の血が飛び散り、地面やシウに降りかかる。
「く、そっ……!」
「やだ、ディオ!!」
傷を押さえ膝をつくディオに、シウがすがりつく。
「俺はいい、早く、逃げろ……!」
「いや! しんじゃやだ!」
「死にはしないっ……早く……!」
イノシシは、血まみれの牙を振りかざし、再び駆け出した。
ディオにすがりつく、シウに向かって。
「っ!!」
二人がそれに気づく前に、少女の華奢な身体はボールのように突き飛ばされていた。
声も上げられない内に弾き飛ばされた彼女の身体は、木に激突し、地面へずり落ちる。
「シウ!!!!」
慌ててディオが駆け寄り、シウを抱き上げた。
「シウ! おい、シウ!!!」
シウの体はぐったりとし、呼び掛けにも一切反応は無い。彼女の腹部には牙で刺された穴が開き、そこから溢れる血が服を染めていく。
イノシシが顔を左右に振るわせると、ぶちぶちと根が切られる音と共に口が大きく裂けた。
そして、大きく裂け開いた口から豚と人間の笑い声が混ざったような不気味な笑い声を響かせ、くるくると楽しそうに跳ねまわる。
まるで、二人を馬鹿にするかのように。
その様子を見た、ディオの瞳孔が開いた。
「……俺は良い。だが、こいつは違う」
血で塗れた腕に少女を抱いたまま、ディオは目の前で嘲笑う敵を刺すように睨んだ。
「お前は、塵すら残さない」
彼の口元からは牙が覗き、喉の奥から獣のような低い唸り声を響かせた。
辺りがざわめく。
少女を抱くその褐色の腕に、ヒビのような傷が入り始めた。
――その時だった。
ディオの耳が、近付いてくるサイレンの音を捉える。
それは狼の遠吠えのような……ファースト社のサイレンだ。
その音が止まり、程なくして声が聞こえてくる。
「――イクス! あっちだ!」
「おうよ!」
聞いた事のある声。そして、見知った二人が駆け寄ってくる。
「セイヤ……イクス……!」
「居た、あそこだ!! 襲われてる!」
「うおおおおおお!!!」
イクスが雄叫びを上げつつ呪化へと突っ込んでいき、自身の刀を黒い牙へ向けて振り下ろした。
――が、半分ほど切れただけで刃が止まり、そのまま弾き返される。
「うおっ、かってぇ……!」
イクスが刀を構えたままで後退し、セイヤに呼び掛ける。
「セイヤ! “赤い実”の位置は分かるか!?」
「……下だ、お腹の方! 前足の、間……!」
「下!?」
「うん、転ばせるか、脇腹を思いっきり裂くしかないよ!」
イノシシの呪化が笑い声を上げ、地面を蹴る。
そして、新たなる獲物に向け、牙を振り上げながら駆け出した。
「やっば!」
「セイヤ!」
狼狽えるセイヤを狙い、黒いイノシシが駆けていく。
「アルテェ!! やっちまえぇ!!」
突然、男の声が響く。
その声とほぼ同時に、小さな影が飛び出した。
影の主……ワインレッド色の髪の少女が、その手に持った大きな斧を振り回し、セイヤに向かう黒いイノシシの腹を横から思い切り斬り裂いた。
イノシシは甲高い悲鳴を上げて転倒し、地面でもがきながらばっくりと割れた自らの腹を修復し始める。
が、斧の少女はそれを妨害するように、容赦なく攻撃を加えていく。
「良いぞぉ、アルテ」
長めの茶髪の男が、姿を現す。
垂れがちな灰色の瞳にその光景を映し、男はニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
黒い制服の上に、オリーブ色のモッズコートを羽織り、その腕にはエクスナーである事を示す白の腕章と、“S”と書かれた赤の腕章がはめられていた。
「……アレは……S班!?」
セイヤが呟く。
アルテと呼ばれた少女は、今度は首を狙い、イクスの刃が通らなかった牙すらも粉砕しつつ、何度も何度も斧を振り下ろし始める。
「シキ様ぁ、そろそろいきますよー!!」
「うーい」
シキと呼ばれた男が、腰のホルダーから大振りのナイフを抜くと同時に、アルテの斧がイノシシの首を跳ねた。
後退するアルテと入れ替わるようにシキはイノシシに接近すると、ナイフを前足の間に突き刺す。
引きちぎるように力強く切り開くと、無理矢理腕を差し込み、あっと言う間に“赤い実”を引き抜いた。
シキが腕を引き抜いた瞬間、イノシシは頭部の無い体をびくんと跳ねさせ、やがてさらさらと塵となっていった。
「こいつぁ楽勝だなあ」
シキは瓶の白い蓋をあけると、中に“赤い実”を落とし入れ、「持っとけぇ」と、アルテに手渡した。
「すげぇ……」
イクスが思わず言葉を漏らす。
流れるように討伐を終えた後、シキは大振りの白い柄のナイフをホルダーに納め、二人の方へ向き直った。
「よお、平気かぁおめぇら」
「あ、ありがとう、ございます! 助かりました!」
「構わねぇよ」
長い茶髪の男の横に、斧を抱えた少女が得意げな笑みを浮かべながら並ぶ。
二人の腕には、同じ赤い腕章が煌めいていた。
「その腕章……もしかして、S班の?」
「そうだぁ。オレぁ対策部S班のエクスナー、シキだ」
「初めまして、シキ様のアテンダントのアルテです! よろしくお願いします!」
ワインレッドの髪の少女が勢いよく頭を下げた。
金色の瞳はらんらんと輝き、外ハネのショートヘアーが、動きにあわせてぴょこんと躍動する。
「俺は、A班のエクスナーのセイヤ。こっちはアテンダントのイクス」
「助太刀ありがとうな! あんなの、オレらだけじゃどうにもならなかったぜ……」
「いえいえ。こちらに来たのは偶然だったんです。近くに用事があって来ていたら、シキ様が『ケモノガタの気配がする』と走り出したもので……」
「気配……? 俺達も近くを見回ってたら、なんか嫌な予感がして駆けつけてきたんだ。そうしたら、うちの班員が襲われててさ」
シキが煙草に火をつけながら「あー」と言った。
「こいつらなぁ、“ヒトガタ”と違って、近くにいるとそういう予感がすんだよ。恐怖心みたいなもんをばら撒くみてぇでな。初めて会ったヤツぁ、それで動けねぇでやられちまうんだ」
「そうだったのか……」
「しかし、おめぇは普通に動けてんのな。慣れてんのかぁ?」
「いや、ケモノガタとは初めて会ったよ」
「初めてか!?」
シキが「ほお」と感嘆したような声を上げる横で、アルテがキョロキョロと辺りを見回す。
「そう言えば、その襲われていた方々と言うのは?」
「……あっ!?」
◇
頃合いを見計らって、ディオはシウを抱えてその場から離脱していた。
ディオの黒いジャケットに包まれたシウの顔は青白く、血の気がない。
彼女の腹部からは未だに血が流れ続けており、明らかに危険な状態だった。
「くそ、一体、どうすれば……!」
彼女の傷を確かめる為、ジャケットをめくる。
その時、ディオは違和感に気付いた。
彼女の傷口の一部にキラキラとした白い光が纏わりついており、その光がある部分はゆっくりではあるが傷が修復されつつあった。
「これは……? ……もしかして、俺の、血か……?」
ディオは何かを決心したように唇を結ぶと、自分の手首に嚙みついた。
そして、躊躇なく、自らの肌を噛みちぎる。
溢れ出す自らの血を流し込むように、シウの傷に手をあてる。
彼の思った通り、その血は傷に触れるとキラキラとした煌めきに変わり、少女の傷はみるみる内に塞がっていった。
「……良かった」
肩をおろし、ほう、と息をつくと、血に汚れた服を隠すように、彼女をジャケットで包む。
彼女を抱き上げたその腕の中には、確かな人間の温かさがあった。
「おーい、シウー! ディオー!!」
セイヤの声だ。
ディオはシウを抱えたまま、「ここだ」と声を上げた。
「ディオ!! 無事だった!? って、シウ!?」
「……眠っているだけだ。さほど大きな怪我はしていない」
「そうかぁ……良かった」
「あの状況、俺達だけではどうにもならなかった。感謝する。それに、S班まで要請してくれていたとは」
「あれね、俺達が呼んだ訳じゃないんだ。彼らも偶然来たって」
「偶然?」
セイヤは頷いた。
「元々近くに居たらしいんだけど、“ケモノガタ”の気配がしたから来たって。……実は、俺達もそうなんだよ。近くを見回ってたんだけど、なんか嫌な予感がしてさ」
そこに、複数のサイレンが響きわたった。
どうやら、ファースト社から応援が到着したようだ。
「話は後にしよう」
「そうだね、ディオも看てもらわないと」
「俺は平気だ。先に本部へ向かう」
「えっ、でも!」
言うや否や、ディオはシウを抱えたまま、足早にセイヤの前から去っていった。
「本当に、大丈夫だったのかな?」
セイヤの視線の先には、いくつもの血痕が残っていた。
地面を始め、よく見ると木や葉にもおびただしい数の血痕が残されている。
「でも、確かに二人ともそんな大怪我してる様子もなかったし、じゃあコレは誰の……?」
「おーい、セイヤー! 先行部のヤツが話聞きたいって言ってるぞー!」
「あ、今行く!」
イクスに呼ばれ、セイヤは彼の元へと向かっていった。
セイヤが去った後、残された血痕が、まるで蒸発するかのように消滅していった。




