月下の邂逅
シュトラール公爵・テオフリートさま。お兄さまが若くして世を去り、急遽跡取りとなった身であるにもかかわらず、シュトラールの名声をますます高めるほど有能な人物だ。
少し前にお父さまも亡くされて喪に服していたため、最近になって華やかな場にも顔を出すようになった。
「今日も素敵ですわね」
周囲の令嬢たちは、うっとりとした表情になっている。
整った顔立ち、プラチナの髪に菫色の瞳。見栄えのする体躯。領地の職人による服は見事な仕立てで、全身が芸術のように完成されている。
加えて、二十四歳にして公爵位を継いだばかりとは思えぬほど、立場にふさわしい威厳を身にまとっている。以前お見かけしたときより風格が増していた。
歌劇の衣装もシュトラールが手がけるからか、劇の題材となる古典や神話に造詣が深い。そうした教養の深さも貴婦人たちを魅了している。
公爵閣下に挨拶をしたがる人は後を絶たない。そつなく応対しているものの、確かに彼の視線はなかなか特定の人に留まらない。
あの瞳にまっすぐ見つめられたいと思っているご令嬢は多いものの、わたくしは絶対にご容赦願いたかった。
噂はともかく、わたくしは実際彼に苦笑された経験がある。例の、根拠のない噂に盛り上がる人々へ物申して、注目を集めてしまったときだ。
もう、恥ずかしくてたまらず、目立たないように振る舞おうと決意した理由のひとつとなった。それ以来、遭遇してもなるべく彼の視界に入らないようにしている。
「わたくしたちもご挨拶に参りましょう」
ヘルミーネさまが立ち上がり、周囲の令嬢たちを引き連れて向かっていく。シュトラール公ほどのお方が相手となると、若い令嬢たちは近づくこともためらってしまう。身分の高い彼女はそんな周囲を思いやって、皆に挨拶の機会を作るようにしていた。
イーリスもしっかりヘルミーネさまの後を追う。これ幸いと、わたくしは彼女たちに背を向けてテラスへ向かった。
「気持ちのいい風……」
春と夏の境目。日中に比べると、夜はまだ涼しく感じる。
舞踏会が始まったばかりのせいか、他に涼む人はまだいなかった。
ようやく背筋を伸ばせて、ほっと息を吐く。お祖母さまの教育に逆らっている罪悪感も失せた。
一人になれたときだけ心が軽くなる。誰の視線も気にしなくていいから。
誰とも会話せず、誰とも踊らず、壁の花になるなんて恥ずかしい。それが貴婦人の価値観だというけれど……。
自分は、貴族に向いていないのかもしれない。かといって、身分を捨てて生きていく術を知らないし、そのような勇気もない。
シュトラール公やヘルミーネさまは別格としても、たとえばイーリスと同じくらいの容姿や話術があれば、もっと堂々としていられただろうか。
せめて、もう少し背が低かったら。せめて、もう少し化粧のしがいのある顔立ちだったら。せめて、もう少し手足がふっくらとしていたら。空しい仮定ばかりが浮かんでは消える。
結婚は、貴族にとって大事な務めだ。実家と婚家を結びつけ、双方を繁栄させなければならない。
けれども、わたくしは見目がよくないうえに、貴族令嬢らしく振る舞うこともできない。家の名がなければ、陰気な娘でしかないだろう。
こんな女性を誰が気に入ってくれるというのだろう。わたくし自身が、わたくしを好きになれないのに。
ぼんやり宵闇に沈む庭を眺めていると、かすかな靴音が響いた。
そろそろこのテラスにも人が出てくる時間になってしまった。また移動しないと……。
そう考えながら振り向いた瞬間、全身が凍りついた。
「シュトラール公――」
月の光が、プラチナの髪を淡く縁取る。目を合わせないようにしていたわたくしさえ、つい見とれてしまうほど美しい。
「君は……フロイト侯爵家の……」
「は、はい……! 長女のアリアドネでございます」
わたくしは慌てて挨拶の礼をとった。突然のことでも、とっさに出てくる所作がそれなりの形になるのは、お祖母さまの教育の賜物だ。
このような者が視界に入ったことをお詫びいたします。すぐに退散するので、どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
そう心の中で念じながら去ろうとしたとき、閣下の唇が開かれた。
「待ちなさい」
まさか引き留められるなんて思わず、うろたえそうになる。
まだ無礼な行動はとっていないはずだ。もしも気分を害されたとしたら……。
「申し訳ございません」
「は?」
シュトラール公は首を傾げた。さらりと髪が揺れる。
「君は、何を謝っている?」
「ええと……わたくしの姿はお目汚しかと……」
どんどん視線が下がり、背中が丸くなっていく。
「そのようなことは思っていない」
少し低くなった声に、ますます縮こまりたくなった。
「それより、姿勢を正しなさい。先ほどのように。顔も上げて」
恐る恐る言うとおりにすると、彼はわたくしの頭からドレスの裾まで、じっくりと眺める。沈黙がやけに重々しく感じた。
時間をかけて検分した彼は、ようやく口を開いて――。
「……君、そのドレスは似合わないな」
似合わない。
相手からそう思われていると察することはよくある。でも、ここまではっきり言われたことはない。自覚してはいたものの、やはり胸が苦しくなる。
「……似合わないのは、自分でもよくわかっております」
ただ俯くしかなくて、テラスの床を見つめる。そんなわたくしの視界の端に、趣味のいい靴のつま先が入ってくる。
「悪かった。言い方がよくなかったな」
思わず顔を上げると、シュトラール公の端正な顔が間近にある。胸の音が大きく打ち鳴った気がした。
「わ、悪かっただなんて」
わたくしは慌てて首を横に振った。
相手は公爵閣下。これしきのことで謝らせるなど、とんでもない話だ。
「こちらこそ、このように見苦しい姿で……」
「そうしたことを言う必要はない」
彼はきっぱりと否定した。
「先ほどは言葉が足りなかった。似合わないドレスを着ているのが、あまりにもったいなく思ったんだ」
「もったいない……ドレスが、でしょうか?」
そう聞き返すわたくしに、シュトラール公は眉根を寄せる。
「どうしてそうなる。もったいないのは君だ」
わたくしが?
想像もしていなかった言葉に声を失った。
「フロイト侯爵家のアリアドネ嬢」
公爵閣下はわたくしの手を取ると、軽く口づけた。
「君に似合うドレスを贈ろう。次の舞踏会にはそれを着て、私のエスコートを受けてくれ」