牛の首
俺、吉岡哲也32歳。嫁あり。
家の話だ。
実家は村全体で親戚たちと一緒に牛舎を経営していて、俺は若頭になっている。
聞けば大正時代から続いているという。その頃は特定の場所に卸す肉牛をやっていたが、今は主に乳牛だ。
大きな牛舎が何棟も立ち並ぶ大催規模運営で親父の時代で近代化にしたので、牛舎特有の臭いもない。
工場のような牛舎では常に冷房が利いていて、牛のストレスを失くすようにモーツァルトが流れている。
牛の乳が出るのは子供を産むからである。
なので、常に子牛が何十頭もいる。子牛は産まれてからすぐに母牛と引き離される。初乳は免疫力がつくので、人の手で母牛から搾り子牛に飲ませる。
子牛が満足するための乳を飲むと生産量が減ってしまうために、子牛を育てるための乳には食用に殺された牛の血が混ぜられる。屠殺場が同じ敷地にある利点だ。いつでも新鮮な血が利用できる。
屠畜は電気ショックで苦しまないようにさせているが、殺す場所の臭いというものがあるのだろうか、この場所に来ると牛は恐怖を感じて、体を拘束させた状態で白目をむく。白目の大きさでストレスが分かるが、どんなに苦痛を感じないようにしても「死の場所」というのは分かってしまうようだ。
屠畜場があり食肉解体できるところは少ない。この設備には資金や手続きが大変だったが、後の利益率が大きくなった。乳牛が主ではあるが、乳の出が悪くなればエサの配合を変えて肉牛として出荷する。雄が生まれた際も1年育てて肉牛にする。
屠畜場の横には焼き場があり、モレクと呼ばれていた。
子牛を引き離された母牛は最初こそ探して鳴くが、乳を含ませる時間も持たせずに引き離したので子牛に対する執着も薄くなる。これが子牛と一緒に居る時間が長ければ長い分だけ絆が生じてしまい、後々引き離すときにはストレスによる母牛への乳量の低下が大きくなる。
牛乳だけの出荷だと利益が低いから、チーズかアイスクリームでも始めようかという提案も出してみたら、結構いい反応で前向きに会議が進んでいる。
そんなころに妻が妊娠をした。両親にも親族にも報告をしたら皆が祝ってくれた。
妻は幼馴染だった。彼女の家は隣村出身で裕福ではないが、親父と俺の代になって事業を拡大させて利益も大きくなったので、村が豊かになり嫁の実家ごと同じ村に引っ越してきて、牛の別事業をやっている。
子供が小学校に入る頃には、牛乳を使った製品も軌道に乗って、どこの大学を目指しても応援することが出来るだろう。
そんな風に楽しみにしていた。
妊娠5ヶ月目で性別が女の子だと知った。それを報告したら、親父より上の世代が3人いるのだが妙な顔をした。
何か苦いものを口に含んだような顔なのだ。周りの皆は手放しで喜んでくれるのに。
ジジ達の顔が強張り、少し離れた場所に居た別のジジと目を合わせて神妙な顔で頷いている。
「どした。何か気がかりか?」
中央に居た逢坂のジジに聞いた。
「いやあ。めでたいねぇ。大将のところでは最近女の子はなかったろう。嬉しかろうと思ってね」
ジジは慌てたように言った。
大将とは親父の事だ。確かに親父の兄弟も俺の兄弟も男ばかりだ。弟の子供も男だ。
「そうだな。ウチは男ばかりだからお袋も喜んでいるよ」
思わずニヤけて答えた。
「女は結婚しちまうぞ」
「いやあ、おとーさんって娘に言われたいなぁ」
「お父さんって呼ばせるんか?それともパパかね」
皆、どこか浮かれて言い合った。そういえば、皆のとこも男ばかりだな。外から嫁さんをもらっている。
妻も元は隣村だったが仕事がなくて、こっちの空き家に家族で移ってきた。
村には珍しい女の子が生まれる。
皆に可愛がってもらえそうだ。そんなことを考えてワクワクしていた。
ジジたちの不穏な顔の事は忘れていた。
忘れてしまったのか。不穏なものを感じたが見ないふりをしたのか。
妻が産気づいた。
予定日より1週間早い。しかし、1ヵ月前から義母が泊まり込みで手伝いに来てくれている。お袋と義母とがタッグを組んで待っているので少しは安心している。
職場から「仕事に集中できんだろうから、さっさと病院へ行け」と送り出される。
病院に着くと、妻はすでに分娩室に入ったという。
俺は仕事着で来ているので入れないし、産まれたばかりの赤ん坊を直で見るのも難しいかもしれない。でも、父親になるのだ。少しでもその瞬間を間近で感じたい。
分娩室に入って3時間、妻の唸り声が高く低く響いている。あんなに叫んでもまだ終わらないのか。身体が心配だ。
出入りする看護師さんに心配を伝えるも、「大丈夫ですよ~」「頑張っていますよ~」で済んでしまう。あんなに辛そうな声が聞こえるのに、男は何もできないものなのだなぁ。
仕事が終わる時間少し前に親父やジジ達が来てくれた。心配して来てくれたようだ。
しかし、顔が厳しい。
「どうした?何かあったか?」
親父に聞く。
「哲也。もしかしたら、残酷なことをしなければならないかもしれん。申し訳ない」
親父が青ざめた顔で頭を下げた。
意味が分からない。
「いったい何を言っているんだ。娘が産まれるめでたい…」
言っている途中で扉の中から、ングング、ンギャーッ!オギャーッ!
赤ん坊が生まれた。
「ああっ!」
「院長、これは!」
何か、分娩室が騒がしい。
「ああ。来てしまったか。俺の時に」
医院長の爺さんの声がする。
何があったんだ。
思わず扉を叩いた。
ドンドン。ドンドンドン。
「何かあったんですか?妻は、娘は無事なんでしょうか!」
「哲也さんですね。大将はそちらにいらっしゃいますか?」
なぜか、親父を確認している。
「ああ。ここにいるぞ。それで、子は……」
親父の顔が歪み言いよどむ。
何が起こっているのだ。
「子は……牛の首、か」
「はい。そうです」
「そうか……。嫁はどうだ」
「出産の際、出血が多かったのですが、命に別状はありません。今は意識を失っているだけです」
「意識がないのは幸いだな」
「そうですね」
何を言っているのだ?こいつらは。こいつらは、本当に親父といつもの医者なのか?
「いったい……」
言いかけた時にザァーっと分娩室の扉が開いた。
医者が胸にシーツに包まれた赤ん坊を抱いて出てきた。
「俺の娘だ」
気味の悪い会話が恐ろしく、早く娘の顔を見たかった。
「見ない方がよろしい」
萩野医院長にピシリと言われたが俺のだ。俺の娘だ。
シーツをそっと持ち上げる。赤ん坊に触れないように、手は洗ったけれど、アルコールで消毒もしたけれど、作業着で赤ん坊を抱ける状態ではない。それでも顔を見たかった。
白いシーツの下から、赤くてクシャクシャな赤ん坊の顔が見えた。
ああ。ああ。ああ。
胸がいっぱいになる。
「ああ。無事じゃないか。可愛いじゃないか」
俺は泣きそうになりながら言った。俺の娘。なんて小さいんだ。こんなに弱弱しいなんて。
シーツ越しに頬に触れようとした。
「いけません」
医院長に止められ睨む。
「いけません。牛も母親と触れ合わす前に引き離すでしょう」
何を言っている?俺の娘だぞ。牛なんかじゃない。
「いったい何を言っているんだ」
院長がフードのように被っていたシーツをめくった。
息をのむ。
赤く小さな赤ん坊の頭には黒い角が二本生えていた。
小さな頭に似合わない5センチほどの長さのある角だ。
角?
なんで?
うちの牛舎の牛は角の無い品種改良されたホルスタインだけだ。
それに、産まれたばかりで角が生えているなんて。
なぜか俺は牛の角に思いを馳せていた。
俺の娘なのに。
そうだ。娘の頭に角が生えているのだ。
「お……に?」
出た声がかすれている。
なぜ産まれたばかりの娘に赤ん坊の握ったこぶしより大きな角が生えているんだ?
「牛の首で産まれた赤ん坊は、屠畜場で焼かないといけません。牛の恨みが高じて産まれた赤ん坊です」
「そんな、生贄じゃないか」
「そうです。生贄です。この村が生業とした仕事の罪です」
「赤ん坊には何の罪もない。俺の娘だぞ!」
「哲也。諦めろ。聞いたら俺の姉も牛の首で産まれ、牛に捧げられたんだ」
「親父。そんな簡単に諦めていいのか?初孫だぞ。女の子が生まれてくるって喜んでいたじゃないか!
親父、親父!そんな頭のおかしい古い風習は俺の代でなくすべきだ。手伝ってくれ。俺の娘を殺さないでくれ!」
俺の嘆願を黙って受け、そして後ろに目配せをすると、頭に激痛が走った。
後ろにはジジ達がいた。逢坂のジジに牛追いの棒で殴られたようだ。目の前が暗くなる。
「若っ!」
倒れる俺を支えてくれたのは辻のジジか。辻のジジは寡黙だが優しい爺さんだ。
なあ、辻のジジも娘を殺すのに賛成なのか?
意識は暗闇の底に落ちていった。
目を覚ました。病院のベッドの上だった。
我に返り飛び起きようとするも、頭に鋭い痛みが走り身体を丸めてベッドから転がり落ちた。
ガッシャーンッ!
ベッド周りのものをなぎ倒してしまったようだ。引っ張られて気付いたが、腕には点滴が打たれていた。
点滴を引っこ抜いて廊下に出る。頭がフラフラする。めまいがする。
真っすぐに歩けないが何とか前に進む。
院長を探すか、焼き場に行くか。親父を止めなければ。
窓の外が明るい。今、何時だ?
赤ん坊が生まれたのは夜だった。
赤ん坊は?どこにいる?
ああ、お願いだ。
俺の娘なんだ。
ズルズルと壁をつたい思い通りに動かない身体で歩く。時計が見えた。9時だ。
夜じゃない。朝だ。朝の9時なんだ。
俺は何時間寝かされていたんだ。
お願いだ。
お願いだ。
廊下に座り込んでしまった。
向こうから人影が来る。
人影は俺の前で立ち止まった。
俺の前に手の平に収まる小さな木の箱を置いた。
それは桐の箱だった。震える手で桐の箱を開ける。
そこには綿の上にまだ瑞々しい臍の緒が入っていた。
親父の声が降った。
「焼いてきた。強い薬で眠らせてからだから、苦しむことはなかっただろう」
「あああああああああああああああああああああっっっ!」
俺の口からずるずると悲鳴が上がる。
なぜだ。なぜだ。なぜだ。なぜだ。なぜだ。
床を殴る。
なぜだ。なぜだ。なぜだ。
俺は意識を失った。
気が遠くなる前に横を見たら院長が居た。注射器を持っていた。
再びベッドの上で目が覚めた。
もう怒りの感情は沸いてこない。悲しみも奥底に沈んでいるようだ。ぼんやりと横を見ると親父が座っていた
随分疲れた顔をしているな。
ああ。俺の娘を殺したからか。
なんで俺は、こいつを殴らないんだろう。
なんで俺は何も感じないんだろう。
「今、鎮静剤を打っている。今、気持ちが何もないのは、薬のせいだ。
安心しろ。お前はちゃんと悲しんで苦しんでいる。
すまない。俺も知らなかったんだ。
聞いてくれるか。説明をさせてくれ。
医院長とジジ達が教えてくれたことは、昔、親父が言っていたんだ。それは本当の事だった。
話すぞ。
うちの先祖は、平民よりも下だった。
だから、動物を捌いて肉や革にするのを仕事にしていた。
明治に入って特定の人が牛肉を食べるようになって、牛を飼うことになった。
他ではやっていなかったから、商売を独占出来て金も入った。屠畜も一緒にやっていたから、他の人間には嫌な顔をされたが金には困らなくなった。
その時は、牛は鉄の棒で頭を突いて殺していた。
死ぬときに苦しめると肉の味が悪くなるが、どうしても固い頭蓋骨だから一発では死なずに何度も突くことがあった。
そんな頃に角が生えている娘が産まれた。
牛の呪いを受けたと、娘の頭を突いて殺した。
世間では牛乳を飲むようになって、扱う牛も動く金も大きくなっていった。
もちろん死ぬ牛も多くなるってことだ。
一族の中で、角の生えた娘も時々生まれるようになった。
そのうち誰かが、角の生えた娘は牛への生贄なので屠畜場で焼こうと言い出した。
それで焼き場が出来た。今は解体した骨を焼くばかりだがな。焼き場の最初の理由はそれだったんだ。
焼き場をモレクというがな。母が烈に苦しむと書く。母牛の恨みなんだよ。
今は、牛は電気ショックで殺している。苦しみは格段に減ったはずだが、牛の怒りはなくならないんだな。
どうしても一代に一人出てしまうそうだ。俺の姉もそうだったらしい。
この一代は人の本来の寿命らしくて60年だ。60年に一度産まれることが多いそうだ。」
「なんで……」
つばを飲み込む。声が出にくい。
「うちの今の業務形態はアメリカを模している。なんで、アメリカではそんな忌まわしいことが起きないんだ?」
「耳に入らないせいもあるかもしれないが、それは宗教観というか、国で持っている命や魂のありようだろう。日本では動物にも魂があると信じられている。家畜の始末も位の低い人間にやらして、なるべく殺しというケガレからは離れていようという人種だ。
だからこそ、殺すことを生業にしている一族は潜在的に自分たちは呪われているという認識を奥底で持っているんだ。
そこで、何度も時代を超えて繰り返す異形の赤ん坊を呪いの具現化と信じても仕方ないだろう」
「そうか」
耳が気持ち悪い。涙が耳に入って気持ち悪いんだ。
「嫁さんには死産だったと言ってある。嫁さんの身体が戻ったら1ヵ月間旅行でも行ってこい。金はいくらでも出す。
忘れることなんぞできないだろうが、この仕事を捨てることは出来ないんだ」
俺はこの仕事で恩恵を受けてきた。
だから、甘んじて受けなければならないのか。
妻にはとても言えない。
俺は過労という名目で1週間強制入院した。自殺予防だろう。
妻に会いに行った。
同じ病院だ。死産と聞いて泣きはらしていた。黙って手を握り続けた。
翌日もその次の日も会いに行った。ずっとそばにいた。
家に帰ってからも、二人で静かに過ごした。仕事場にはいかなかった。
2か月後、妻の体調が良くなったのと、気分転換に旅行を切り出した。
北に行くか。南に行くか。夏だったので北海道に行くことにした。
俺も妻も北海道は初めてだった。
良いホテルを取ってゆっくりと周った。
無理な日程は組まずに、函館の五稜郭、札幌に小樽でオルゴールやガラスの器を買い、スープカレーにソフトクリームを食べた。
富良野のラベンダー畑。妻はラベンダーの香水や匂い袋を飼っていた。北竜町のひまわり畑。
湖はどこも透明で綺麗だった。摩周湖に美瑛の青い池。支笏湖、屈斜路湖、洞爺湖。神の子池。
旭川の動物園。レンタカーを借りてドライブは羊蹄山。稚内は宗谷岬まで行った。
道東は広すぎて諦めた。日高を車で走っていた。周りはずっと牧草の緑だ。
休憩で車から降りたところは競馬のサラブレッドが放牧されていた。
鮮やかな緑の中に美しい馬が居る。向こうでは親子だろうか。仔馬が跳ねている。
柵にそって歩いてみる。
向こうにベンチと大きな石がある。何かの碑かな。
そこにあったのは、死んだサラブレッド達の石碑だった。
そういえば、競馬場の近くには馬頭観音が奉られていた。
そうだ。大学生の頃に花見で行った靖国神社では軍馬の碑があった。
大事な存在だからこそ、悼み奉ったのだ。
あの後、色々調べた。
俺は一族の事なのに何も知らなかった。
モレクはどうやら母烈苦ではなく、古代イスラエルの宗教らしい。一族の第一子を牛の頭をした神に生贄として生きたまま焼くような野蛮な宗教だ。
牛の角を持つ赤ん坊が生まれて先祖は色々と調べたのだろう。そして恐ろしい神の存在を信じたのだ。
古代宗教のモレクとは「母親の涙と子供達の血に塗れた魔王」という意味だ。
地獄には牛の首を持つ牛頭鬼と馬の頭を持つ馬頭鬼がいる。
通常、地獄の存在は、この世界では神の姿に表される。
閻魔大王が地蔵菩薩と表裏一体であるように。
馬頭鬼は馬頭観音が神の姿であるのに対し、牛は牛頭天皇になるのだろうか。牛頭天皇が牛の慰霊に使われたことはない。それでも牛頭天皇を奉り茅の輪でも下げればよかったのだろうか。
先祖はモレクしか牛の頭を持つ神を探せなかったのだ。
それでなければ馬頭観音が動物の供養を請け負ってくれているのだから、牛でも馬頭観音を奉ればよかったのだ。
それとも、60年に一人の犠牲で済むのならばと特に必要とは思わなかったのだろうか。
穏やかな風景だ。
気持ちの良い風が吹き、緑の中を仔馬が走る。仔馬は少し走っては母馬のところに戻る。
「なあ」
「なあに」
妻が答えた。
「帰ったら、娘の墓を建てよう。
それから、牛舎の一角にでも牛の慰霊碑を建てよう。
牛の親子を引き裂いているんだ。悲しみが積もった場所なのかもしれない。
慰霊碑には毎年神社か、お寺さんに頼んで供養をしてもらおう。
親父から聞いたが医療が進んでも、俺の家系は第一子は死産が多いそうだ。
悪かったな。ごめんな。俺の家の因果で大事にお前が育てた娘を死なせてしまって」
「そう、なの」
妻が言葉少なく頷いた。
家業は変えられない。それに誰かがやらなければならない仕事だ。
俺は帰ったら仕事に戻る。
その前に、牛を弔おう。心に牛への感謝と懺悔を刻み込もう。
もう、牛の首の娘が産まれないように。
2年後、息子が産まれた。
息子の子が、俺の孫がちゃんと育つように、今日も牛の慰霊碑に頭を下げる。
牛たちが許してくれたかどうかは、その頃に分かるだろう。