第9章 思春期
伊周は権大納言である源重光の娘を妻とし、正暦三(992)年に長男の松君(後の道雅)が生まれていた。それに刺激されたわけではないだろうし、人間の自然な成長の結果にすぎないのだろうが、ケンカと武道に明け暮れていた隆家がこのところ急に色気づき始め、それまではいっさい興味を示さなかった恋の歌を読んではため息をつくようになった。
(女が欲しい)
全身がそう欲していた。こうなったらもう実行あるのみ。即断即決の隆家は、さっそく女漁りに乗り出す事にした。幸いというわけではないが、関白家の御曹司でありながら隆家の周りにはガラの悪い不良仲間がゴロゴロしていたので、そいつらと一緒に夜這いを始めた。相手は誰でも構わなかった。とにかく連日連夜、隆家は女と交わり続けた。何度やっても飽きなかった。夢中になって女の尻を追いかけ回し、頭の中は性交の事しかなかった。
さかりのついた犬のようになった隆家を心配した貴子は、道隆に相談した。
「何? 女?」
道隆は驚いて声を上げた。
「隆家が?」
「はい」
「毎晩毎晩?」
「そうなんですよ。しかも、どこの誰とも知れぬような女と」
「片っ端から?」
「ええ、悪い友達とつるんで」
「パッコンパッコンと?」
「はい?」
「いや、《さがな者》の隆家の事だから、もっと激しくバコバコバコバコという感じかな?」
「んもう、真面目に聞いてくださいよ。こちらは真剣に話してるのですから」
「そうか、隆家がなぁ・・・」
「とにかく、いちど隆家に注意してやってください」
「なるほど、隆家がなぁ・・・」
「関白家の恥になるような真似をするな、と」
「うんうん、隆家がなぁ・・・」
「少しは世間体を考えろ、と」
ここで道隆が急に「うっしっし」と気持ち悪く笑い始めたので、貴子は怪訝な顔をした。
「・・・あなた、大丈夫ですか?」
「貴子、隆家がさかり始めたという事は、同じくらいの年齢なのだから陛下もそろそろだぞ。うっほっほーい、そろそろ定子に子供が生まれるかもしれんぞ、こりゃ」
「まぁ、あなた、そんな事ばかり言って。隆家が心配じゃないんですか?」
「はぁ? 隆家? あいつは勝手にそこら辺の女と交わらせておけ! こればかりは止めても止まるものじゃないからな。好きにさせておけば良い。それよりも陛下と定子だ。二人の間に生まれた男子が天皇になってこそ我が家の繁栄があるのだ。分かるな、貴子?」
「それは分かっておりますけど・・・」
「貴子、さっそく《梅壺》へ行って定子に確認して来い。陛下とはもうそういう関係になっているのかを」
「嫌ですよ、恥ずかしい」
「バカ者、そんな事を言っている場合か。これには家の存亡がかかっておるのだぞ。まだなら早くそうなるように、その・・・誘い方と言うか、しなだれ方と言うか・・・とにかくその気にさせる方法を伝授してくるのだ。それゆけ、貴子!」
「わたしは家の用事で忙しいので、そんな暇はございません」
堅物の貴子はプリプリ腹を立てて屋敷の奥へ引っ込んでしまった。それ以上怒らせて、へそを曲げられでもしたら厄介なので、道隆はいったん引き下がった。なにしろ、今後、貴子に手伝ってもらわなければならない重要行事が続々と控えているのである。年明け早々には兼家の大がかりな法要を主催して、自分が亡父の正統な後継者である事を世間に示さなければならないし、それが済んだら今度は原子の結婚だ。次女の原子を居貞親王(後の三条天皇)に嫁がせるのである。一条天皇の次は居貞親王が皇位を継承する事が決まっているが、その後は一条天皇と定子の間に生まれた男子、そのまた次は居貞親王と原子の間に生まれた男子が皇位を継承すれば、道隆による支配体制は盤石になる。その為にも余計な家庭内のゴタゴタを抱えるのは良くない。ここは慎重に物事を運ばなければ。もうひとがんばりなのだから。それで俺の野望が完成するのだから・・・それにしても、このところ妙に体が重いが、疲れが溜まっているのかな? それとも酒の飲みすぎかな? やたらに喉が渇くし、何か変だ。大事の前だから少し酒を控えた方が良いのかもしれない。もし今おれが倒れたらたいへんだからな。伊周がもう少し大きくなるまでは倒れるわけにはいかない。それまでは何としてもふんばらなければ・・・それにしても体が・・・
道隆は体の異変を感じ始めていた。
さて、話を隆家に戻すが、ある日、隆家が致光を初めとする家来を二十名ほど引き連れて表通りをブラブラ歩いていると、鉄の輪をはめた五尺の兵仗を手に持った、いかにもガラの悪い僧兵たちに取り囲まれた。ケンカ慣れしている隆家たちは、いつものように臨戦態勢を取った。法師たちは懐に石を隠し持っていて、まずはそいつを投げつけてくるだろう。それが奴らのお得意の戦法である。それに対して、相手が懐に手を入れた瞬間、こちらから低く飛び出して行って敵の足を斬る、というのが隆家たちの作戦だった。その為の間合いをじりじりと計っていると、
「貴様が《さがな者》隆家か」
と言って、ひときわ図体の大きな僧兵が前に進み出てきた。まるで熊が現れたようであり、怖いもの知らずの隆家も一瞬ひるんだ程の巨漢だった。山のような大男は隆家を見下ろしながらニヤニヤ笑っている。
「俺の名は頼勢。人はみな《高帽》頼勢と呼ぶ。よく憶えておけ」
そう言って頼勢は頭に被った規格外に大きな烏帽子を指さした。
「なるほど。そのどでかい烏帽子から《高帽》か」
と、隆家は笑った。
「で、その《高帽》さんが俺に何の用だい? ケンカのやり方を教えてもらいたいとでも言うのかい?」
「なめた口をききやがって。俺さまがその気になれば、貴様なんかいつでも簡単にひねり潰せるんだぞ」
「その気になってみろよ、タコ坊主。てめえでてめえのお経を上げる事になるぞ」
隆家と頼勢は睨み合った。気迫で負けたらケンカは終わりだ、まずは気迫で敵を圧倒するのだ、それがケンカの必勝法だ・・・そう知っている二人は互いに目をそらす事なくグググッと睨み続けた。時間が止まったかのようだった。
「今日のところは、そのへんでやめておけ」
突然、僧兵たちの後ろに停めてある牛車の中からそう声が掛かると、頼勢はハッとして睨むのを止め、後ろを振り向いた。牛車の中から一人の若い僧が降りて来た。隆家よりかなり年上だが、父親の道隆よりはずっと若い。まだ青年と呼んで良い年頃である。頼勢はその場に跪いて頭を下げた。
「俺を知らぬようだな、隆家」
僧が隆家を眺めながらそう言うと、隆家は
「坊主なんかに友達はいねえよ」
と毒づいた。
「世間は俺を花山院と呼ぶ。先の天皇だ」
「なに?」
これにはさすがに隆家も驚き、跪こうかどうか迷ったが、ぼーっとつっ立ったままでいた。頼勢の「無礼だぞ、隆家。頭が高い。頭を下げろ」という声もぼんやり聞き流した。
花山法皇は隆家の動揺した表情を見て、
「ふふふ、恐ろしさのあまり体が硬直して動かんか、隆家?」
と笑った。実際、この時の隆家はそれに近い状態だった。
「まぁ良い。今日、貴様を呼び止めたのは、貴様の父や叔父に伝えてもらおうと思ったからだ、騙された恨みを俺が忘れていないという事を」
「騙された?」
隆家は驚いて訊き返した。
「そうか、貴様は知らぬわな。まだほんの子供だったからな。俺は貴様の一族の陰謀によって天皇の座を追われたのだ」
「俺の一族の陰謀?」
「そう、貴様の祖父の兼家と父の道隆、叔父の道兼の卑劣な陰謀によってだ。お陰で俺は都を追い出され、何年も苦しい四国巡礼の旅に出なくてはならなくなった。この恨みは忘れようと思っても忘れられるものではない。ようやく都に戻る事が出来た今、俺が為すべき事はただ一つ、貴様ら《積悪の家》への復讐だ」
やっと隆家にも花山法皇の話が飲み込め始めた。
「でも、それは俺には関係の無い話だろう? 文句があるのなら、ちょくせつ親父や叔父上に言ってくれよ」
「確かにそれも一理あるな」
と、花山法皇は笑った。
「だが、一族である以上、俺に言わせれば同罪だ。隆家、貴様にもそのうちたっぷりと罪を償ってもらうぞ。たっぷりとな。せいぜい楽しみにしておく事だな」
花山法皇は笑ってそう言うと牛車に乗り込んだ。周りを僧兵たちに警護されながらゆっくり進んでいく牛車の中から、
「木のもとを すみかとすれば おのづから 花見る人に なりにけるかな」
朗々とそう詠む花山法皇の声が聞こえた。
「花山院か。こいつは面白い事になってきたぞ」
隆家はニヤリと微笑んだ。