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さがな者隆家  作者: ふじまる
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第7章 雨夜の怪人物

 正暦三(992)年、円融えんゆう法皇の喪が明けるや、宮中の人々はさっそく暗い喪服を脱ぎ捨て、元の華やかな衣装に着替えたが、その光景を見た一条天皇は一抹の寂しさを覚えた。円融法皇とは接する機会が殆ど無かったし、もちろん父子の楽しい思い出なんてものはあろうはずがなく、だから特段の愛着が生まれる余地は皆無に等しいのだが、それでも一条天皇にとっては唯一無二の父親である。その父親が人々の記憶から急速に忘れ去られていく事に一条天皇は心理的抵抗を感じたのである。素直にその気持ちを定子さだこに話したところ、十六歳の定子は十三歳の一条天皇の精神的な成長を、まるで我が子の成長を見守る母親のように喜んだ。一緒に生活し始めてから定子は、一条天皇が唯の気弱な少年ではなく、とても賢く、感受性の豊かな少年である事に気づいていた。それがさらに成長して、心の機微に聡い大人になりつつある・・・それを定子は喜んだのである。その一方で、少年の心をまだ失ったわけではない一条天皇は、薄情な人々への無邪気な悪戯を思いつき、定子と二人で仲良く計画を練った。

 ある大雨の夜、蓑笠姿の怪人物が宮中へ手紙を届けた。一条天皇の乳母であり、関白になった道隆みちたかに替わって内大臣に就任した道兼みちかねの側室であり、夫同様に貧相な容姿の繁子しげこが手紙の中身を確かめると、何とそこには円融法皇の御恩を忘れ、早々に喪服を脱いだ人たちを非難する言葉が書き連ねられていた。

(これは朝廷への侮辱か? いやがらせか? それとも反逆か? 字をよく見ると、大納言である藤原朝光ふじわらのあさてるさまの字に似ているような気がする。朝光さまは道隆さまの酒呑み友達であるから、悪酔いしたあげく発作的にこの不穏な手紙を書いたのであろうか?・・・)

 いずれにせよ国家の一大事であると思った繁子は、急いで一条天皇のもとへ手紙を届けた。問題の手紙を手に取った定子は

「これは朝光の字とは違うわね。誰が書いたのかしら? 僧侶が書いた字のようでもあるわ それとも鬼の仕業かしら?」

 とさかんに首をひねっている。

(朝光さまではないとすれば、一体だれが犯人なのだろう? このような大胆な事をしでかしそうな上達部や僧侶といえば、他に誰がいたかしら? あいつかしら? いや、こいつかしら?)

 このように繁子が頭の中でグルグルと推理を働かせていると、一条天皇がニヤニヤ笑いながら

「その手紙と同じ紙ならここにあるよ」

 そう言って繁子に紙を渡した。見ると、まさに同じ紙である。驚いた繁子が顔を上げると、一条天皇と定子がこちらを向いてニタニタニターッと微笑んでいる。

(やられた!)

 急に体の力が抜けた繁子は目を細め、ムッとした口調で

「なぜこのような悪戯をなさったのですか?」

 と問い詰めた。一条天皇は素直に詫びた後、こう弁解した。

「そんなに怒らないでよ。父上の存在が忘れられるのがあまりにも悔しかったものだから、定子と相談して、ちょっと皆をからかってみたんだよ。ただそれだけだよ」

「では、手紙を持って来た謎の人物は誰だったのですか?」

「ああ、あれは台番所で働く女官の息子で、使いの役を頼んだら快く引き受けてくれたんだよ」

 一条天皇がそう説明すると、続いて定子がこう頼んだ。

「陛下の父君を思う優しい心根に免じて許してあげてください」

 一条天皇と定子は微笑みながら互いにうっとりと見つめ合っている。二人の熱い様子を見ていたら怒るのがバカらしくなった繁子はこう言って退室した。

「そういう事でしたら今回は特別にお許し致します。でも、次にやる時は必ず騙す側に入れてくださいね。騙される側は、もう絶対に嫌ですからね」

 このように一条天皇と定子はとても仲睦まじく、殊に一条天皇は片時も定子のそばを離れたくない様子だった。定子の方も、成長するにつれ、とても聡明で、純真で、思いやりが深く、文学や芸術に対する鋭い感性を持ち合わせている、といった優れた資質がますます露わになってきた一条天皇を、年下ながら《夫》として愛し、尊敬していた。

 音楽好きの一条天皇は、よく定子の前で得意な横笛の演奏を披露した。得意と自負しているだけあって、確かに見事な腕前だった。定子は一条天皇の演奏にうっとりと聴き惚れた。興が乗れば一条天皇の横笛と定子の琵琶でセッションをして楽しんだ。

 また、生まれつき心根の優しい一条天皇はたいへんな動物好きで、中でも特に猫を愛しており、宮中で《命婦みょうぶのおとど》と名付けた猫を飼っていた。一度、定子が実家から連れて来た愛犬・翁丸おきなまるが、《命婦のおとど》に吠えかかって怖がらせた事件があったが、ふだん温厚な一条天皇が、その時ばかりは珍しく目尻を吊り上げて激昂した。しかし、その唯一の例外を除いて、動物好きの気性は、同じく動物好きの定子との仲を深めるのに役立った。

 いつも一緒にいて仲良くいちゃついている、そんな一条天皇と定子だったが、年齢を考えると二人の間の子供はまだ当分のあいだ望めそうになかった。そこで、一条天皇の定子への愛を今のうち徹底的に、これでもかと言うくらい深めておこうと企んだ道隆は、定子の周囲に才気溢れる女房を集め、一条天皇にとってより好ましく居心地の良い空間を作ろうと考えた。そのとき真っ先に思い浮かんだのが、寛和二(986)年六月に小白河の藤原済時ふじわらのなりとき邸で開催された法華八講に来ていた女。藤原義懐ふじわらのよしちかの嫌みの籠った言葉に対して機智に富んだ見事な返しをした女。歌人・清原元輔きよはらのもとすけの娘だという女だった。この女性こそが後に『枕草子』を書く清少納言である。本名は分からない。どなたが唱えたのか知らないが諾子なぎこが本名であるという説があるそうだから、ここではそれを採用させて頂く。

 定子の生涯を語る上で欠かす事の出来ない重要人物、清少納言は康保三(966)年に都で生まれた。父も祖父も高名な歌人である。父・清原元輔が周防守となった為、八歳から四年間、地方暮らしを経験している。都へ戻って来た後、天元四(981)年に十五歳で橘則光たちばなののりみつと結婚し、翌天元五(982)年には長男が生まれた。その後、則光とは離婚したらしく、道隆と小白河の屋敷で出会った時は二十歳前後で、実家暮らしをしていたようである。

 道隆は伊周これちかに命じて現在は二十六歳になっているはずの清原元輔の娘を探させた。すぐに見つかるだろうと楽観していた道隆であったが、これが意外に手間取ってなかなか見つからなかった。

 正暦四(993)年正月、母親に新年の挨拶をする為、一条天皇は詮子あきこの住む土御門殿つちみかどどのへ行幸した。道隆、道兼の他に、伊周、そして左少将に任じられた十四歳の隆家が同行した。毎日欠かさずに続けた激しい鍛錬のお陰で、若輩ながら隆家の体格はすでに兄の伊周を凌ぎ、全身が筋肉の塊と化していた。

(俺の役目は、陛下の護衛さ)

 そう自覚していた隆家は、一条天皇に危害を及ぼそうとする不逞の輩がいないか、馬上から鋭い眼光で周囲を睨みつけていた。いや、正しくは敵を探し求めていたと言うべきであろう、隆家は暴れたくてウズウズしていたから。

(悪い野郎がいたら、すぐに飛び出して行って成敗してやる。その場で大暴れしてやる。だからさっさと出て来い、悪人どもよ。犯罪者どもよ。頼むから俺にぶっ殺させてくれ)

 土御門殿行幸は、一条天皇がここでも得意の横笛の演奏を披露して詮子を喜ばせ、和やかな雰囲気のまま無事に終了したが、その還幸の途中で藤原典雅ふじわらののりまさという貴族がうっかり一条天皇の乗輿の前を騎馬で横切ってしまった。

「無礼者!」

 間髪を置かず矢のような速さで飛び出した隆家は、典雅を馬から地面へ一撃でハエのように叩き落とした。哀れ、典雅は何事が起きたのか分からぬまま、白目を剥いて気絶した。隆家の鮮やかな手際を輿の中から見ていた一条天皇は感嘆し、父親である道隆は鼻高々な様子で微笑んだ。周りにいた誰もが隆家を称賛した。

 行列が再び動き出すと、土御門殿の主人であり、今回の行幸のホスト役であり、騎馬で一条天皇の還幸を見送っていた道長みちながが、隆家の馬の横にスッと寄って話かけてきた。

「お見事でしたな、隆家どの」

「お褒めの言葉ありがとうございます、叔父上さま」

「兄上は良い息子に恵まれましたな。これで将来は安心だ」

「父の跡を継ぐのは兄ですから」

 隆家はそう言って列の先を進む伊周の方へ目を向けた。

「兄上は本心では隆家どのを跡継ぎにしたいのではありませんかな」

「まさか」

 隆家は苦笑した。

「俺は地位や権力には興味ありませんよ」

「そうですか。私なら隆家どのみたいな気骨ある男子を選びますけどね。まぁ、いずれにせよ、長男に生まれて来なかった私と隆家どのは、陽の目が当たらない一生を送る運命であるいう点でお仲間同士ですから、今後とも親しくお付き合いを願いますね。よろしく」

 道長はそう言ってカラカラと笑った。隆家は

(なに言ってやがるんだ、このオヤジ。まったく薄気味悪い)

 とでも言いたげな眼つきで横の道長をチラチラ眺めていた。

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