第44章 三条天皇
三条天皇は、陰で《さかさの儲けの君》と呼ばれたように、冷泉天皇系と円融天皇系の者が交互に皇位に就くという慣例により、一条天皇の皇太子にされながら年齢は四つ年上で、しかもその一条天皇が二十五年もの長きに渡って天皇の地位にあったものだから、ようやく即位した時にはもう三十五歳になっていた。人間、二十五年も天皇になる日を待たされれば、頭の中に理想の天皇像がきっちり出来上がるものだし、長年放置され冷遇され続けた恨みや不満が地層のようにうず高く蓄積していたので、寛弘八(1011)年八月十一日に復旧工事が完成した内裏へ入るや、三条天皇は勇んで自分のスタイルを実行しようとした。三条天皇が思い描いた理想はズバリ天皇親政、すなわち家臣に奪われた実権を取り戻し、天皇自らが政治を取り仕切るシステムである。しかし、当然ながらそれは道長ら家臣の反発を喰った。ここから三条天皇と道長の政治主導権をめぐる長い対立が始まる。
まず三条天皇は側近の貴族を昇進させる情実人事をおこない、道長を名誉職である関白太政大臣の地位に押し上げて政策決定の場から追放しようと画策した。しかし、そんな策略にやすやすと引っかかる道長ではない。難なく阻止すると、今度は道長が攻撃する番である。
三条天皇は、皇太子時代、藤原済時の娘である娍子を妻に娶っていた。娍子は正暦五(994)年に長男の敦明親王を生んでいる。他に藤原兼家の三女で、道長の妹である綏子とも結婚したが、綏子は源頼定と密通事件を起こした後に亡くなった。また、清少納言の『枕草子』にも登場した《淑景舎女御》こと藤原道隆の次女で、定子の妹である原子も嫁入りしたが、これも長保四(1002年)年に二十二歳の若さで死去した。それゆえ、長い間、三条天皇の妻は娍子ただ一人だった。そこへ寛弘七(1010)年、一条天皇が譲位した後の布石として、道長が次女の妍子を嫁がせていた。道長はその妍子を中宮にして欲しいと申し出たのである。
息子の敦明と同じ十六歳の妍子を無理やり娶らされて困惑していた上に、それを中宮にするなどとんでもない。そんな要求を黙って飲んだら道長の影響力が増すばかりだ。そう考えた三条天皇は策を練り、あえて道長の要求を飲み油断させておいた上で、すかさず娍子を皇后にすると発表した。お馴染みの《一帝二后》である。一条天皇時代と同じ状況が復活したのである。
裏をかかれた道長はムッとしたが、三条天皇は侮れないと認識し直し、復讐の嫌がらせを仕掛けた。娍子立后の日である長和元(1012)年四月二十七日に、わざと里帰りしていた新中宮・妍子が内裏へ参入するように決めたのである。二十七日、公卿たちは立后の儀をすっぽかし、妍子の参内のお供をするため東三条殿に馳せ参じた。困った三条天皇は、立后の儀への出席を促す勅使を東三条殿へ走らせたが、公卿たちはバカにして嘲笑するばかりで相手にしなかった。相手にしないどころか、勅使に向かって石を投げつけた公卿までいた。
この日、藤原実資は体調を壊し自分の屋敷で休んでいたが、騒動のあらましを聞きつけるや持ち前の硬骨漢の血が燃え上がり、「何たる事だ。情けない」そう憤慨しながらすぐさま内裏へ向かった。内裏へ向かう途中、ふと思いつき隆家の屋敷へ寄って、一緒に来るよう誘った。出席者は一人でも多い方が良いし、隆家は道長の顔色を気にする腰抜けでない事を承知していたからである。一条法皇の崩御以来、自分の人生はもう終わったと思って無気力になっており、その日も屋敷に引き籠っていた隆家であったが、かねてよりその気骨ある人柄を認め、兄貴分のように慕っていた実資の誘いとあれば断るわけにもいかず、同行することにした。結局、娍子の立后の儀に出席した公卿は、藤原実資、藤原隆家、藤原懐平、藤原通任の四人だけであった。このうち懐平は三条天皇の古くからの側近であるし、通任は娍子の実の弟であるから、純粋に利害関係なしに出席したのは実資と隆家だけだった。
三条天皇は実資と隆家が来てくれた事を涙ながらに感謝した。出席した公卿がたった四人という寂しい立后の儀になったが、それでも当代随一の知識人であり、有職故実に精通している実資がいてくれたお陰で、式は無事に終了した。三条天皇は実資に感謝し、今後は自分の相談相手になって欲しいと頭を下げ、隆家に対しては皇后宮大夫への就任を要請した。別になりたくはなかったが、三条天皇があまりにもしつこく頼むので、根負けした隆家は承諾した。
道長は実資と隆家が立后の儀に出席したと聞いて、「またあの二人か」と歯ぎしりしたが、それでも実資と隆家の二人には以前から一目置いていたので、じっと黙っていた。
同年十一月二十二日に大嘗祭が行われ、皇后宮大夫の隆家は紅葉色のド派手な衣装で出席した。このとき三十三歳。朝廷内では実資と並ぶ異端の存在であったが、その勇猛果敢さ、反骨精神、卓越した統率力、公平誠実な人柄は広く知れ渡っており、公卿の中には
「もし敦康親王が即位し、隆家がその後見人となったなら、天下の政治は今よりずっと良くなるだろうに」
と思う者が少なからずいたほどである。
この後も三条天皇と道長の人事や政策をめぐる対立は続き、その心労で三条天皇が倒れ、大騒ぎになった事もあった。隆家は両者の確執には無関心で、ただひたすら皇后宮大夫の職務に精勤していた。職務熱心のあまり、道長が主催した法会を皇后宮の用事を理由に途中退席し、道長に睨まれた事さえあった。そんな隆家を三条天皇も道長も頼りにし、自分の陣営に引き入れようと躍起だったので、両者の対立が激化するにつれ、何かというと隆家はその板挟みになるようになった。そんな状況にほとほと嫌気が差した隆家は「アホくせ。やってられっか、こんな事」というわけで、長和二(1013)年三月十六日に皇后宮大夫を辞任した。表向きの理由は暗闇で几帳の横木にぶつかって目を傷めたからであった。皇后宮大夫辞任後の隆家は、宋人の医者から貰った目薬を点しながら、自宅で静かに療養した。いちど熊野へ病気回復祈願に出掛けた事もあった。
話を少し戻す。道長もさすがにこのまま三条天皇と対立し続けるのは良くないと思っていた。すると二人が融和するまたとないチャンスが巡ってきた。妍子の妊娠である。前年末に妊娠が発覚した妍子は、長和二年の年明け早々、東三条殿に戻ってきていた。もし妍子が男子を出産すれば、その子を敦成の次の天皇にすれば良い。三条天皇にはすでに娍子との間に男子が二人いるが、妍子が産んだ男子を跡継ぎにする事で両者ウィンウィンの関係になり、三条天皇と道長の融和が実現すると考えたのである。ところが、世の中そう都合よくはいかなかった。まず長和二(1013)年一月十六日に妍子のいる東三条殿が火災に遭い、建物の三分の二が焼失した。これがケチのつき始めで、同年七月六日、妍子は土御門殿で出産したが、生まれてきた子供は女の子だった。この結果に三条天皇も道長も落胆した。殊に道長の落ち込み様が激しかった。
翌長和三(1014)年二月九日、今度は内裏が火事になった。九年前に火事で焼け落ち、三年前に修復したばかりの内裏が、またもや焼失したのである。道長との確執に加え、内裏を失った三条天皇の苦悩は大きく、それらの心労が原因の一つだと思われるが、三条天皇は
「近頃、片目が見えず、片耳が聞こえないのだよ・・・」
と正直に告白した。同年三月十二日、再び火災が発生し、先の火災で焼け残っていた皇室財産を収納した倉庫等がきれいさっぱり焼失した。相次ぐ火災に加えて三条天皇の身に起きた異変は、天が三条天皇に失格の烙印を押した証拠である・・・当時の人々は真剣にそう考えた。さっそく道長は三条天皇に退位を迫った。三条天皇は拒否したが、病状は悪化する一方だった。
同年八月のある日、道長は土御門殿で酒宴を催した。道長は機嫌よく飲んでいたが、出席したいつもの顔ぶれを見回して、しょせん俺に媚びを売ってくる腑抜けばかりよのお、と内心もの足りなさを感じ、
「隆家がいなくてはつまらないなぁ。誰か隆家を呼んでこい」
と命じた。さっそく隆家の屋敷に使いが走ったが、目の具合が悪いという理由で断られた。それでも道長が何度もしつこく誘いの使者をよこすものだから、仕方なく隆家は土御門殿へ出向いた。左目に眼帯を付けた隆家が宴会場へ現れると、道長は
「おお、権中納言どの、よく参られた」
と大喜びし、すぐさま自分の近くに席を用意した。隆家が到着した時、すでに酒宴は佳境に入っていたので、道長も他の公卿たちも着物の紐を解き、だらしない恰好で酒を飲んでいた。来たばかりの隆家は居ずまいを正し、きちんとしている。それを見た道長は酒に酔った赤ら顔で
「さぁさぁ、隆家どのも、お召し物の紐をほどいて寛いでくださいよ。座がしらけるじゃありませんか」
と言った。それを聞いた藤原公信が
「私が解いてしんぜよう」
そう言って近寄ると、隆家は公信を鋭く睨みつけ、
「貴様ごときに気安く触られる程、俺はまだ落ちぶれてはいないぞ」
と声を荒げたものだから、その場の空気が忽ち凍りついた。うわ、ひと騒ぎ起きるぞ、と出席者たちが青くなっていると、とつぜん道長が大笑いし、
「まぁまぁ、隆家どの、ご冗談はそれくらいでご勘弁ください。お召し物の紐は私がお解き致しましょう」
そう言って隆家の側へ寄り、まるで家臣であるかのように手際よく紐をほどいた。さすがの隆家も天下人である道長からそこまで下手に出られると恐縮し、
(相変わらず人たらしだな、この人は)
と半ば呆れ、半ば感心しながらも機嫌良く酒を飲み始めた。道長が「おお、見事な飲みっぷり」などと調子よくおだてるものだから、いつもより多く飲みすぎた程だった。酔っぱらってすっかり気持ちが大きくなった隆家は、良い機会だからこの際、前々から思っていた事を道長に願い出ようという気になった。
「叔父上、私を大宰府へ行かせてください」
「え? 太宰権帥になりたいというのか?」
驚いて目を丸くした道長に向かって隆家はこう答えた。
「はい。大宰府へ行けば、目の治療に長けた宋人の医者がたくさんいると聞きましたものですから」




