第42章 一条天皇の苦衷
一条天皇にそう問われた行成は、しばらくの間うつむいて考え込んでいたが、やがて顔を上げてこう答えた。
「私は陛下、そして亡き皇后さまから過分のお引き立てを頂き、その御恩は終生わすれません。陛下が亡き皇后さまをこよなく愛され、その忘れ形見である敦康さまに跡を継がせたいとお考えでいらっしゃる事もよく存じております。ですから、私も陛下のご希望に沿うようお計らいしたいのは山々なのですが、やはりこれは無理筋です。大臣は何がなんでも敦成さまを皇太子に就けるおつもりですから。なにしろそれが大臣の宿願ですし、人生の目標ですからね。対抗しうる有力な後見人も無しに、最大の実力者である大臣を敵に回して無理やり敦康さまを皇太子にしても、いばらの道となるのは必至で、へたをすると・・・」
ここで行成は言葉に詰まった。一条天皇は先を促した。
「へたをすると、どうなるのだ?」
「畏れながら敦康さまのお命が危のうございます」
「そこまでするか、道長は?」
「しますね。私は大臣の人柄をよく存じております。いざとなったら非情に徹しきる恐ろしさを持っているのが大臣というお方です」
「そうか・・・やはり無理か・・・」
「その代わり敦成さまに皇太子の座を譲ってあげれば、その恩を決して忘れず、誠実に尽くしてくれるのも大臣です。敦康さまには一生安楽で何不自由の無い生活が約束されるでしょう」
「敦康には私のようなつらい人生を歩んで欲しくないからなぁ」
「後は陛下のご決断次第です」
「敦成に皇太子を譲れば、敦康の一生は保障されるのだな?」
「それは間違いありません。しかし、念のため内々に私が大臣と話をすり合わせておきましょうか?」
「そうしてくれ。頼む」
行成から一条天皇の内意を伝えられた道長は、異存などあろうはずが無く、喜び勇んで一条院へ飛んできた。笑顔の道長に向かって一条天皇が
「敦成を皇太子にする」
そう宣言すると、道長は大袈裟に畏まり
「さっそく譲位の発議をおこなわせて頂きます」
と平伏した。続いて一条天皇が
「それで敦康の件だが・・・」
と言いかけるや、道長は自信たっぷりな様子で話をさえぎった。
「その件に関してはお任せください。わたくしが責任を持ってお世話をさせて頂きます。敦康さまには、お好きな風雅の道を極めながら、何不自由なく、気ままに、楽しく生きて頂きとうございます」
「その言葉に嘘はないな?」
「嘘など滅相もございません。畏れながらわたくしは、敦康さまの事を自分の孫同然に思って、今日までご養育係を務めてまいりました。それは陛下もよくご存じのはずです。可愛い孫を不幸にするような真似を、わたくしがするはずがありません」
「・・・よくわかった。よろしく頼む」
体力が残っているうちにやるべき事をやっておかなければならない一条天皇は、道長が退室するや次に隆家を呼び出した。すぐに駆けつけた隆家に向かって、一条天皇が
「敦成を皇太子にする事に決めた」
正直にそう告げると、隆家の顔はたちまち紅潮し、髪の毛を逆立て、鬼の形相で、
「人でなし! それでも貴様は人の親か!」
と怒鳴りつけた。一条天皇は黙ってその言葉を受け止めた。隆家は
(いくら何でも天皇に向かって言い過ぎたか)
と少し冷静になって反省したが、それでも体は怒りでブルブル震えたままだった。そんな隆家を眺めながら一条天皇は静かにこう言った。
「それだけか、隆家? もっと思いっきり言ってくれて良いのだよ。気の済むまで罵ってくれ、この私を。罵倒してくれ、思う存分。最低のクズとけなしてくれ」
「陛下」
「私はもうすぐあの世へ行くが、あの世でも今と同じように定子からどやしつけられるのであろうな、この役立たず、根性なし、おまえなんか父親失格だ、と。だがな、隆家、私はどうしても敦康に自分のようなつらい人生を送ってもらいたくないのだ。隆家は戦いこそが人生だと思っているのかもしれないが、私は違う。私は、敦康に愛する女性と巡り会って、たった一度しかない人生を、その女性と共に仲良く幸せに歩んでもらいたいのだ。それが私の願いなのだ。そして、それはまた望んでも果たせなかった私自身の夢でもある。その夢を敦康に叶えてもらいたいのだ」
一条天皇にそう言われた隆家は、定子との間にあった諸々の出来事をすべて知っているだけに、それ以上もう何も言えなくなり、黙って引き下がるより他なかった。
最後に一条天皇は病床へ敦康を呼んだ。もはや起きてはいられない状態だった。一条天皇の枕元には脩子が座り、濡れた手拭いを額に当てながらかいがいしく看病していた。かなりつらそうな様子の一条天皇は、敦康が来たのを認識すると、横になったまま荒い息でこう語りかけた。
「おまえは私の決定に不服であろうな。なぜ長男の自分を差し置いて、まだ二歳にすぎない弟の敦成が皇太子に選ばれなければならないのか、と不満であろうな。長男としての誇りを傷つけられ、内心ではハラワタが煮えくり返っているのであろうな」
「いえ、わたくしは決してそのような事は・・・」
心根の優しい敦康は、そう言って一条天皇を安心させようとした。
「長男であるおまえが跡を継ぐはずだったのだ、本来は・・・何もなければ・・・ところが、思わぬ不幸が襲った。おまえの母方の祖父である関白が病気で亡くなってしまったのだ。その後も不幸は続き、おまえの母も、伯父も亡くなってしまった・・・彼らが存命なら、おまえを皇太子に出来たのだが・・・」
「母上と伯父上・・・」
「しかしながら、有力な後見人がいなくなった以上、おまえを無理やり皇太子にしても、私の死後、不幸になるのは目に見えている。命の保証も出来ない。可愛い息子をそんな目に遭わせるわけにはいかないのだ、父親として私は」
「父上のお気持ちはよく存じております。ですから、お心を安らかになされてください」
「私が即位したのは六歳の時であった。当然ながらまだ何も分からない子供で、いつも東三条院さまの陰に隠れて小さくなっていた。そんな幼い私であっても、天皇であるが故に早々に妻を娶らされた。それがおまえと脩子の母親だ」
ここで一条天皇はチラッと脩子の方へ目線を移し、脩子もしっかり話を聞いているのを確認すると、再び話し始めた。
「最初はおままごとみたいな夫婦関係だったが、次第に私はおまえたちの母親を、定子を本気で愛するようになった。定子は美しく、聡明で、常に私を高みに導いてくれる、それはもう素晴らしい女性だった。最高の女性だった。定子と巡り会わせてくれた事を、私は天に感謝する。私が心から愛した女性は定子だ。定子ただ一人だ。私は定子と一緒に人生を全うしたかった」
と言ったところで一条天皇は激しく咳こんだ。心配した脩子が「お父さま」と言って腰を浮かせた。一条天皇は手で大丈夫だと制した。
「ところが、天皇である私にはそれが許されなかった。望んでもいないのに定子以外に何人もの側室や、更にはもう一人の正室まで娶らなければならなかった。定子にはさぞつらい思いをさせたであろう。それを思うと胸が痛い。普通の家に生まれていれば、定子と楽しく暮らせただろうに・・・何度もそう思って、そう思うたびにつらく苦しかった・・・悲しかった・・・定子を思って泣いた」
「父上にそう言ってもらえて、母上もあの世でさぞお喜びでしょう」
と、敦康は涙目になって微笑んだ。
「天皇になっても本人には何ら良い事が無い。喜ぶのは後見人である有力貴族ばかりだ。今なら左大臣の道長だけだ。敦康、おまえには後見人がいなくなってしまったから、天皇になる旨味が無いという結論になる。それなら天皇の地位などくれてやれ。道端の乞食に食べ物を投げ与えるように、欲しい奴にくれてやれ。そして自由に生きろ。天皇の地位を譲る代わりに、おまえには贅沢な暮らしが保障されている。好きな事をして、好きな女性と一緒になって、楽しく暮らせ。その方が絶対に得だ」
「はい、父上」
「もしもういちど人生をやり直せるのなら、私は天皇なんか真っ平御免だ。二度とやりたくない。頼まれてもお断りだ。人の上に立ちたくないし、権力も欲しくない。何よりドロドロした政治の渦に巻き込まれるのが嫌だ。それよりも定子と一緒にいたい。二人で和歌を詠んだり、絵を描いたり、楽器を演奏したりして暮らしたい。ただいくら私がこう言っても・・・そんなのは天皇になった経験のある奴が言う台詞だ。俺はまだ天皇をやっていない。いちど天皇をやらせてくれた後に言ってくれよ・・・敦康、おまえは内心そう思っているのかもしれないな。いや、たぶんそう思っているだろう。何事も自分で経験しないと納得できないのが人間というものだからな。だが、ここは父の言葉を信じてくれ。私は嘘をつかないし、おまえの幸せを心から願っている。天皇になんかなる価値は無い」
「分かっております、父上」
「私の言葉は本心だ。おまえを慰める為に作り話をしているのではない。すべて本音でしゃべっているのだ。だから辛抱してくれ、敦康。敦成を羨ましがらないでくれ。地位よりも自由を大切に思ってくれ。そして、私がいなくなった後は、脩子と姉弟仲良く力を合わせて生きてくれ。おまえたちの叔父の隆家が何かと力になってくれるはずだ。もし困った事があれば隆家に相談しろ。隆家は信頼できる男だ。よいな? 幸せになるのだぞ。これが父の遺言だ」




