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さがな者隆家  作者: ふじまる
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第41章 敦康

 伊周これちかの死を見届けると隆家は、一条天皇に報告する為、仮の内裏となっている枇杷殿びわどのへ参内した。報告を聞いた一条天皇は

「伊周が・・・」

 と絶句し、はらはらと涙をこぼした。一条天皇にとって伊周の死は自分の青春時代の終焉であり、いちばん大切な思い出と現在の繋がりを断ち切る、非情で、冷酷で、最終的な、断固たる現実だった。

 そんな現実に打ちのめされ、悲しみに沈んでいる一条天皇の様子を、隆家は怖い顔で睨みつけていた。こういう結果になった原因は、誰のせいでもなく、伊周本人の愚かさにあるのは、隆家にもよく分かっていた。バカな兄貴だと思っていたし、自業自得だとも思っていた。しかし、それでも隆家は、一条天皇に向かって恨み言の一つも言いたい気分だった。悔しかった。伊周が可哀そうすぎた。あんなに陛下を愛し、あんなに忠誠を尽くしていた兄貴を、もう少し助けてあげられなかったのか? もう少し何かしてくれても良かったのではないか、と・・・しかし、今更そんな不平をクドクド述べても何にもならないのも分かっていた。だから隆家は黙っていた。ただ、死んだ伊周の為に、その無念に報いてやる為に、どうしてもこれだけは言っておかなければならなかった。

「亡き兄が最も心に願っていた事、それが何だかお分かりですよね、陛下?」

 隆家がそう問い質すと、一条天皇は顔を伏せたまま、短く、小さな声で「分かっている」と答えた。

「兄の願いは敦康あつやす親王さまを次の東宮とし、その後に即位して頂く事でした。その一点だけでした。陛下、どうか兄の、そして姉の、さらには妹の願いを叶えてあげてください。お願い致します」

「分かっている・・・私だって・・・出来ればそうしたいと願っている・・・」

 苦しそうな表情でそう言葉を絞り出した一条天皇に、隆家はさらに畳み掛けた。

「出来ればと仰いますが、そんなのは陛下のご一存で決まる事ではありませんか」

「隆家、私は定子さだこを心の底から愛していたし、伊周を実の兄のように慕っていた。この言葉に嘘偽りは無いし、これからも生涯この思いが変わる事は無い。それだけは信じてくれ」

「そんな事はじゅうぶん承知しております。陛下が迷っていらっしゃるのは道長のせいですか? この私が道長を斬れば解決するのですか? それで陛下の迷いが消えるのなら、たとえ我が身が亡びようとも、私は喜んで実行いたしますよ」

「何をバカな事を・・・今の話は聞かなかった事にする・・・だからそう急かすな、隆家。しばらく考える時間をくれ・・・お願いだ・・・しばらく・・・」

 疲れた表情でそう言った一条天皇は席を立ち、奥へ去った。隆家は不満だったが、何もかも早急に決めろというのはさすがに無理だよなと思い返し、しばらく様子を見る事にした。

 隆家にとっても一条天皇にとっても心配の種であるその敦康は、寛弘七(1010)年七月十七日、十一歳で元服した。元服式は一条天皇臨席のもとに執り行われ、もちろん隆家も列席した。道長が冠を渡す役を務めた。《みずら》に結んでいた髪をほどいて髷を結い、冠を被ると、凛々しい青年貴族が誕生した。一条天皇は目を細めて我が子の成長を喜んだ。それは隆家も同じだった。敦康の顔には定子の面影があった。敦康の元服を定子と共に祝いたかった・・・一条天皇と隆家は同時にそう思った。

 式の最中、道長は敦康の衣装の乱れを優しく直してあげた。道長は決して敦康を嫌ってはいなかった。むしろ美しく聡明なこの若者を、それまで自分の孫として育ててきた敦康を、心から愛おしく思っていた。ただ、彰子が男子を生んだ以上、一族の将来の為に敦康を天皇にするわけにはいかないというだけの話だった。

 元服式の後、二十二歳の若さながら育ての母親である彰子あきこの部屋へ、敦康は元服の報告をしに行った。

「あら、立派なお姿になられましたね。わたしも嬉しいです」

 と、彰子も敦康の元服をたいへん喜び、お祝いに剣と横笛を贈った。当然ながらどちらも名品である。一条天皇に似て敦康が横笛をこよなく愛し、普段からよく練習している姿を見ていたので、彰子は選んだのである。

「ありがとうございます、母上」

 そう礼を述べると、敦康はさっそく贈られた横笛を手に取り、彰子の前で吹き始めた。彰子も、そばに控える紫式部も、うっとり聴き惚れるほど見事な演奏だった。

(陛下の為にも敦康を天皇にしてあげなくては)

 敦康の演奏を聴きながら、彰子は改めてそう思った。

 彰子の思いは、まさに一条天皇の心中そのものだった。一条天皇は悩んでいた。敦康を次の皇太子にしたいのは山々だが、それで本当に大丈夫なのか? 有力な後見人のいない敦康がやってゆけるのか? 道長による嫌がらせや妨害を受けて、却って不幸な結果になるのではないか? 一人きりであれこれ悩んでふさぎ込んでいると、心配した脩子ながこが部屋に入って来て声を掛けた。

「お父さま、大丈夫ですか?」

 脩子は十三歳。敦康と同じように定子の面影を残す美人で利発な少女に成長していた。一条天皇にとっては、脩子と一緒に過ごし、一緒に語り合うのが、最も楽しく心が安らぐ時間であった。

「敦康の事で悩んでいらしたのですか?」

「うん?・・・ああ、まあな・・・」

「敦康はお父さまに似て芸術を愛する、とても繊細で聡明な子供です」

「それはよく分かっているよ。敦康に不満などこれっぽっちも無いさ」

「それなら何が心配なのですか?」

「脩子にはまだ分からないだろうが、人間社会っていうやつはひどく複雑で厄介なものなんだよ」

「でも、この国でいちばん偉いのは、お父さまなのでしょう?」

「この国でいちばん偉いか・・・」

 そう呟いて一条天皇は苦笑した。

「考えてみれば、天皇に即位してから今まで、父さんの思い通りになった事なんか一つもありゃしなかったよ。しょせん父さんはその程度の情けない人間なのさ。出来れば天皇家などに生まれず、もっと普通の家に生まれて、おまえや母さんや敦康や媄子と一緒に仲良く幸せに暮らしたかったな・・・本当にそう思うよ、脩子・・・もしそうなっていれば母さんも幸せだったろう・・・」

「お父さまは敦康を天皇にしたくないのですか?」

「そうじゃないよ・・・そうじゃないけどさ、迷っているんだ・・・何が敦康にとっていちばん良いかと・・・」

 寛弘七(1010)年十一月二十八日、一条天皇は復旧工事が完成した一条院へ戻った。一条院へ戻った後も一条天皇は自分の後継者について考え続け、側近である行成ゆきなりの意見もそれとなく聞いてみたが、結論は出なかった。そうこうしているうちに年が明け、寛弘八(1011)年になった。

 同年五月上旬の深夜、敦康宅の天井に無数の瓦礫が降り注ぐ怪音が鳴り響いた。敦康の家司別当職にあった行成がその報告を受け、「すわ、不吉な事が起きる前兆か?」と警戒していたところ、五月二十三日、一条天皇が発病して寝込んだ。幸い症状は軽く、二十五日には早くも回復傾向にあったが、それにもかかわらず道長は儒学者の大江匡衡おおえのまさひらに命じて、一条天皇の病気について易占いをさせた。実は道長は匡衡に「譲位」の卦を出すよう密かに指示していたのである。このまま一条天皇が在位し続ければ、自分が生きているうちに敦成あつひらが天皇に即位する姿を見る事が出来なくなってしまう。それでなくても即位してからもう二十五年だ。そろそろ後進に席を譲っても良い頃じゃないか? 今回の病気をきっかけにしてさ・・・というのが道長の一条天皇に対する偽らざる気持ちだった。

 ところが、何の手違いか、実際に出た卦は天皇の死を意味する「豊の明夷めいい」だった。匡衡は自分の過ちに狼狽したが、いったん出た結果はもはやひっくり返せない。道長からどのようなお咎めを受けるだろうとビクビクしながら匡衡は青白い顔で行成宅を訪問し、それとなく取り成しを頼んだ。もっとも行成には、しどろもどろにしゃべる匡衡が何を言いたいのか、さっぱり理解できなかったが。

 一方、占いの結果を知った道長は

「はぁ? 俺はここまでの事を頼んだわけじゃないんだけどなぁ・・・匡衡め、ずいぶん大盛りに忖度してくれやがって・・・」

 と最初は戸惑ったが、せっかく出た結果だから有効に使わない手はないと考え直し、わざと一条天皇が寝ている病室の隣室で、御体護持の祈祷をする為に控えていた高僧に占文を見せ、二人しておいおい泣き始めた。当然、一条天皇は「何事だろう?」と不審に思い、几帳の隙間から隣室をこっそり覗いた。そして、すべてを悟った。

(私はここで死ぬ運命なのか・・・)

 精神的な影響が病気の治りを早めたり、逆に悪化させたりするのは、現在でもよく見られる現象であるが、科学的知識が無い分、平安時代にはそれがより顕著だった。治りかけていた病気が一気に反転攻勢し、一条天皇は重体に陥った。二十七日に出仕した行成に向かって、無理に起き上がってきた一条天皇は重々しくこう述べた。

「遂に私にも終わりの時が来たようだ」

 え? 病気はほとんど良くなったと聞いていたんですけど・・・思いもよらぬ突然の展開に仰天した行成はそう言おうとしたが、一条天皇の顔をよくよく眺めると重篤な容態であることが素人目にも明らかだったので、言葉を引っ込めた。

「問題は皇太子を誰にするかだ」

 一条天皇はそう言って、じっと行成の顔を見つめた。

「敦康のことだが・・・敦康はどうだ? やはり無理か? 何とかならないか? 最後に君の正直な意見を聞きたい」

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