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さがな者隆家  作者: ふじまる
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第40章 伊周の死

「ねえ、香子かおるこさん、『源氏物語』の続きはどうなったかしら? だいぶ書けましたか?」

 五十日目の祝宴の数日後、紫式部は彰子あきこにそう尋ねられた。

「はい。お陰さまでずいぶん書き溜めましたので、そろそろ中宮さまにご披露しようと思っていたところです」

 紫式部が嬉しそうにそう答えると、彰子はもじもじしながらこう言った。

「それなら一つお願いがあるのですけど」

「何でしょうか?」

「もうすぐ敦成あつひらを連れて内裏へ戻るでしょう? その際、陛下へのお土産に『源氏物語』の続巻をお持ちしたいのですよ。陛下も香子さんの書いた『源氏物語』が大好きなので、さぞお喜びになると思って。戻る準備で何かと忙しい中、急な頼みで申し訳ないんだけど、どうかしら? やってもらえるかしら?」

「ありがとうございます。光栄です。やりましょう。わたしにお任せください。さっそく手配いたします」

 快諾した紫式部は抜群の事務処理能力を発揮し、すぐさま様々な色の紙を取り揃えて彰子に表紙の色を決めさせるのと同時に、字の上手い人間をたくさん集めては原稿を次々と清書させ、清書された頁をてきぱきと製本していった。現場には彰子も同席し、作業の一部始終を見守っていた。

 彰子が『源氏物語』の新巻本を作成していると知った道長は、言下に「そんな真似はやめて温かい場所でゆっくり休んでいなさいよ」というニュアンスを込めながら

「寒い季節ですから体を冷やさないようお気をつけくださいね」

 そう言って嫌そうな顔をしていたが、それでも上等な紙や筆や墨をどんどん差し入れてくれた。しかしながら、それら全部を彰子が惜しげもなく紫式部にプレゼントしてしまうものだから、道長は

「まったく中宮さまときたら、もう・・・」

 と陰でブーブー不平をこぼした。『源氏物語』の新巻本はこうして短期間のうちに完成し、それを手土産に彰子は、寛弘五(1008)年十一月十七日、仮内裏である一条院へ敦成を連れて戻った。

 彰子と敦成が戻ってきた事を一条天皇は喜び、手土産に渡された『源氏物語』の新巻本にも目を輝かせたが、嬉しそうな表情の中に陰があるのを彰子は見逃さなかった。敦康あつやすの今後を心配しているのだという事が彰子には良く分かっていた。彰子も同じように敦康を心配していたからである。

 一条天皇と彰子以上に敦康の将来を心配していたのが伊周これちかである。伊周にとって敦康は最後の希望、政界のトップに返り咲く為に残された唯一の命綱だった。表向きは貴族社会から相手にされていない伊周であったが、実は敦康が天皇になった場合の事を考えて、道長に知られぬよう密かに接触してくる公卿が何人かいたのである。ところが、彰子が敦成を生んで以降、その足取りはパッタリと途絶え、誰ひとり訪ねて来る者はいなくなった。人々が敦康にはもう芽が無いと考えているのは明らかだった。それが伊周を憤らせ、酒量を増やさせた。もともと糖尿病の気がある家系である。酒が伊周の体を蝕んでいった。

 寛弘五(1008)年十二月十日、宮中で敦成誕生から百日を祝う儀式が執り行われ、そこに伊周が現れた。誕生から五十日の祝宴など、これまでの儀式は道長の私邸である土御門殿つちみかどどのでおこなわれていたので、嫌われ者の伊周は近寄れなかったが、今回は仮内裏である一条院での開催なので、《儀同三司ぎどうさんし》伊周は堂々とやって来たわけである。道長を初めとする公卿たちは一様に不快な表情を浮かべたが、伊周は周囲の者たちの視線など意に介さず、口をへの字に曲げたまま真っすぐ前を見据えていた。その姿は、糖尿病の進行によりひどく痩せていたが、まるで孤高の一匹狼のように独特の威厳を放っていた。

 儀式は滞りなく執り行われた。伊周もおとなしくしていた。ところが、儀式の最後、列席した公卿たちが奉った祝いの和歌に序題じょだいを付ける段になった際、予め別の者が書く段取りになっていたのに、とつぜん伊周が「自分が書く」とゴネ始めた。進行役がいくら「序題は別の方にお願いしてありますので」と説明しても、伊周は「いや、これはどうしても俺が書かなければならないのだ」と譲らなかった。困った進行役は道長に無言で助けを求めた。道長は、これ以上もめて儀式が台無しになるのを避ける為、内心ではムッとしながらも、表面上は穏やかに微笑して、

「そこまで強く仰るのでしたら、お任せ致しましょう」

 と許可した。このとき伊周が書いた序題が『本朝文粋ほんちょうもんずい』に載っているので、抜粋して現代語訳する。

「第二皇子百日目の吉日、内裏にて祝宴を催す。左大臣以下諸卿の列に加わり、私も陛下のすぐそばで祝いの盃を頂戴した。その御恩に酔った私はこう思う。わが君は周の昭王しょうおう穆王ぼくおうのように長いあいだ在位し、桓武帝かんむてい醍醐帝だいごていのように子供が多い。何と幸せな帝道だろう。この御代を歓び祝しない者があろうか」

 一見すると祝意に満ちているようであるが、敦成を「第二皇子」と呼び、一条天皇には「他にも子供がいる」とキッチリ釘を刺すあたり、敦康アピールが露骨で伊周の面目躍如たるものがある序題であった。

 この序題は評判を呼び、伊周の評価も高まった。その評価の高まりに乗じて、寛弘六(1009)年一月七日、一条天皇は伊周を正二位に昇格させた。正二位の位階を有するのは道長ひとりだったので、道長と伊周は位階の上では同格になったわけである。もともと一条天皇は敦康に強力な後見人を付け、その地位を盤石なものにしたいと願っていた。敦康の後見人になり得るのは、やはり伊周しかいない。それならば伊周を昇進させ、道長に対抗できる存在にしておこうと企んだのである。

 しかしながら、そのような見え透いた策略が海千山千の道長に通じるはずがなかった。昇格から約一月半たった二月二十日、彰子と敦成を呪詛した容疑で伊周は内裏から追放された。道長による伊周追い落としの為の陰謀である。報告を受けた一条天皇は愕然とし、

「まさか、この期に及んでそんなバカな真似を・・・」

 そう呟くやショックのあまり寝込んでしまった。伊周は自らの潔白を声高に訴え、隆家も兄の無実を懸命に主張した。伊周が無罪の証明にやっきになっていた頃、またもや彰子の妊娠が発覚した。当然、道長は狂喜したが、伊周にとってはトドメを刺されたのも同然だった。呪詛の容疑は根拠の無い噂に基づいたものだったので二カ月後には公式に否認され、六月に伊周は内裏に復帰した。道長は失敗したのか? いや、それでも彼の謀略は成功だった。冤罪の証明で精根が尽き果てた上に、彰子が再び懐妊したショックが重なり、伊周が持病の糖尿病を悪化させて倒れたからである。糖尿病末期の症例通り、伊周はやたらと水を飲み、どんどん痩せ細っていった。

 寛弘六(1009)年十月五日、仮の内裏としていた一条院が火災で焼失した。そのため一条天皇は道長の所有する枇杷殿びわどのへ移り、そこを仮の内裏とした。枇杷殿は彰子が出産のため里帰りしている土御門殿のすぐ近くにあったので、一条天皇としても何かと都合が良かった。一条天皇が近所にいるという安心感もあって、同年十一月五日、彰子は無事に第二子となる男子を出産した。今回は初産の時と異なり極めて安産だった。生まれた子供は敦良あつながと名付けられた。

 土御門殿では敦良誕生を祝う行事が続き、多くの貴族たちが祝いに駆けつけ、連日大賑わいだった。そんな喧噪をよそに、伊周は自宅でひっそりと最期の時を迎えつつあった。死を覚悟した伊周は、寛弘七(1010)年一月半ば、隆家を呼んだ。隆家はすぐにやって来た。部屋に入ると、伊周の妻と子供たちが病床の周りに座っていた。枕元に着座した隆家を見上げて、伊周は力なく自嘲した。

「とうとう俺も来るところまで来ちまったよ、隆家」

「お気をしっかりお持ちください、兄上。道長だって何度も死の淵から生還したではありませんか。兄上も負けずに病気に打ち勝ってください」

 隆家はそう言って励ましたが、伊周は小さく首を横に振った。

「道長か・・・結局、俺は道長に勝てなかった・・・すまんな、不甲斐ない兄で・・・情けない兄で・・・おまえには迷惑のかけっぱなしだったな、隆家・・・」

「何を仰いますか。決してそんな事はありませんよ、兄上」

「俺はおまえの事を本当に頼りにしていたんだよ、隆家。まるで自分の息子のようにね。考えてみれば、おまえが先に生まれれば良かったんだよな。おまえが兄だったら、我が家は今みたいに没落しなかっただろう」

「いいえ、我が家の跡取りは兄上しかおりません」

「俺は大きな勘違いをしていたのかもしれないな。小さい頃から、やれ神童だ、天才だ、聖徳太子の生まれ変わりだ、と周りからチヤホヤされて育ったものだから、その気になれば自分は何でも出来る、何をやっても俺がいちばん優秀だ、俺より頭の良い人間はこの世にいない・・・そう自惚れてしまったんだな、愚かにも」

「兄上は誰よりも優秀です」

「確かに学問は出来たが、俺には自分を客観的に見る知恵が欠けていた。想像力が欠けていた。まわりが見えていなかった。つまり一言でいうとバカだった・・・今頃になってようやくそれに気づいたよ、隆家。今さら気づいても遅いんだけどな・・・」

「兄上」

「俺の最期の頼みを聞いてくれ、隆家。心残りは敦康さまの将来だ。どうか敦康さまを道長の魔の手から守ってくれ。敦康さまを即位させてやってくれ。おまえだけが頼りだ、隆家」

「大丈夫です。敦康さまは必ず私が守りますからご安心ください、兄上」

 隆家がそう誓うと伊周は「くれぐれも頼んだぞ」と言い、次に子供たちの方へ視線を移した。《松君》という幼名のころ道隆みちたかに可愛がられ、『枕草子』にもたびたび登場した長男の道雅みちまさは、このとき十八歳になっていたが、その道雅に向かって伊周はこう諭した。

「道雅、父がいなくなれば、おまえは苦しい人生を歩む事になるだろう。いくら生活が苦しくても、官位が欲しくても、関白家の人間としての誇りを忘れるなよ。他人に媚びを売ったり、誰かの家来になったりしたら、あの世から呪い殺すからな。そんな真似をするくらいなら、いっそ出家してしまえ。よいか、おまえは関白家の人間なのだからな。努々それを忘れるなよ」

「はい、父上。肝に命じます」という道雅の答えを聞いた伊周は、次に美人揃いと評判の娘たちの方を向いたが、その顔は悲しみに歪んでいた。

「おまえたちの事がいちばん心配だ。道雅は男だから世間の荒波に晒されるのにも耐えられるだろうし、耐えてもらわなければ困るが、おまえたちはか弱い女で、しかも本来なら蝶よ花よと可愛がられ、贅沢三昧の暮らしをした上で、天皇の后や有力貴族の妻になるはずだったのに、それが・・・父がいなくなれば、おまえたちはどうなるのだろう? 生活のため宮仕えに出なくてはならなくなるのか? 俺の娘が・・・可愛い娘が・・・関白家の娘が・・・そんなのは末代までの恥だ。こんな事になるくらいなら、自分より先に娘たちを殺してくれとあらかじめ神に祈っておくべきだった。そうしておけば良かった・・・」

 そこまで言った後、伊周は

「ああ、俺はダメだったよう。ダメな奴だったよう。何も出来ない無力な男だったよう」

 そう叫んで嗚咽した。妻と娘たちも泣いていた。

(兄貴が可哀想だ)

 隆家はそう思ったが、どうしようもなかった、ただ歯を食いしばって悲しみにじっと耐えているより他は。

 寛弘七(1010)年一月二十八日、伊周死去。享年三十六歳。最期の言葉は「母上、いまおそばへ」だった。

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