第4章 一条天皇即位
寛和二(986)年六月二十三日、懐仁親王が即位した。一条天皇である。まだ六歳であった。
六歳という幼さでの天皇即位は異例だったが、さらに異例な事態が生じた。と言うのも、当時は円融天皇と冷泉天皇の子孫が交互に皇位を継承するという取り決めがあった。円融天皇の子供である一条天皇の次は冷泉天皇の子供の番というわけで、冷泉天皇の第二皇子であり、退位した花山天皇の異母弟でもある居貞親王(後の三条天皇)が東宮となったが、それが何と一条天皇より四歳も年上の十歳だったのである。親より子供の方が年上という珍事に、都の貴族たちは居貞親王を《さかさの儲けの君》と陰で呼んで笑った。ちなみに、一条天皇も居貞親王も、生母は共に兼家の娘である。その兼家は一条天皇の摂政となり、遂に権力の頂点へ登りつめた。
同年七月二十二日、宮中の大極殿において、一条天皇の即位式が執り行われた。
即位式の開始直前、司会進行役の菅原資忠が顔を真っ青にして兼家の席へ駆け寄って来た。高御座の中に血まみれになった毛むくじゃらな動物の首が転がっているというのである。兼家の敵対勢力による嫌がらせであるのは明白だった。神聖な場所である宮中において血の穢れは禁物である。ましてや天皇が座す高御座の中となれば言うまでもなかった。兼家の横に座っていた道隆は「どうしよう?」と狼狽して頭を抱え、その横の道兼は「これでは到底、今日の即位式は無理だ」と嘆息したが、しんがりに控えていた二十一歳になる末っ子の道長だけは、じっと唇を噛みしめ、前を向いたまま何も言わなかった。
皆が兼家の様子を恐る恐る窺うと、目を瞑ってじっとしている、まるで眠っているかのように。たまりかねた資忠が「摂政殿下!」と呼びかけたところ、兼家はおもむろに目を開き、資忠をじっと見据えながら、何事も無かったかのように落ち着き払ってこう言った。
「ん? どうした? 早く式を始めんか」
(そうか、今の話は聞かなかった事にするから、さっさと即位式を始めろ、という意味か)
兼家の真意をようやく理解した資忠は、すぐさま女官たちに命じて高御座内をきれいに掃除させ、素知らぬ顔で即位式を始めた。道隆と道兼は今更ながら父・兼家の肝っ玉の太さに舌を巻いた。即位式は無事終了した。ちなみに、兼家の《寝たフリ作戦》は『蜻蛉日記』の中にも登場する。兼家の得意技だったのであろう。
一条天皇の即位後、兼家の次女である母親の詮子は皇太后に冊立された。先に書いた通り、一条天皇はまだ六歳と幼かったので、何をするにせよ常に詮子が側に付き添っていた。牛車で移動する際も必ず詮子が同乗していた。この時期の政治の実権は、兼家と詮子の二人組が握っていたと言えるであろう。
元々この父娘は一条天皇が即位する以前から戦友のような間柄だった。十六歳で円融天皇の女御となった詮子は、十八歳のとき一条天皇を産んだ。円融にとっては初めての、そして結果的には唯一の子供である。後継の男子を産んだ自分がとうぜん天皇の正室である皇后になれるものと詮子が思っていたところ、実際に皇后に立后されたのは関白である藤原頼忠の娘・遵子であった。頼忠は関白、兼家は右大臣、その差がここに出た。頼忠の息子で歌人としても高名な藤原公任はこのとき十六歳の若造だったが、東三条にある兼家の屋敷前を通る際、得意満面の表情で
「この家の女御はいつ皇后になるのかな?」
と思いっきり嫌みを垂れた。それくらい頼忠家の人間からすれば、詮子や兼家は身分を弁えぬ不届き者だった。
「わたしを侮辱する奴は許さない!」
怒りに燃えた詮子の反撃が始まった。詮子は赤子だった一条天皇を連れて東三条の実家に帰り、内裏に戻らなかった。兼家も詮子と共に自宅に閉じ籠もり、出仕しなくなった。さらには兼家の息子たちも出仕を止めた。彼らの今で言うところのストライキにより政務が著しく停滞した。にっちもさっちもいかなくなった円融天皇は遂に白旗を上げ、後の一条天皇である懐仁親王を皇太子にした上で、花山天皇に譲位した。その後、花山天皇が二年で退位し、一条天皇が即位したのは先に述べた通りである。
このように兼家と力を合わせて実力で政権をもぎ取った詮子は権力者意識が非常に強く、自分に従う者は可愛がるものの、少しでも自分をないがしろにする態度を見せた者は徹底的に弾圧し、決して許さなかった。人々は詮子を《国母》と呼び恐れた。
兼家の正妻の息子たちは次々と昇進してゆき、この年の末までに道隆は正二位権大納言に、道兼は正三位中納言に、そして道長は従四位下少納言になったが、詮子は男兄弟の中では末っ子の道長を最も気に入っていた。それは、ちょうど定子が弟の隆家を可愛がったように、道長が詮子の四つ年下の弟であり、小さい頃から一緒に遊んで育ったという理由が大きいものの、それだけが理由ではなく、何よりも詮子は道長の能力を買っていたのである。
長男の道隆は確かに男前で見栄えが良く、陽気な人柄で世間の評判も高かったが、何せ無類の酒好きで性格的にだらしない面が多く、人間としての器の大きさに欠ける。次男の道兼は政治手腕に関してはまずまずながら、とにかく性格が暗いし、外見はブサイクだし、女性にモテた経験は皆無。今の妻だってやっと見つけたくらいだ。我が実兄ながらとてもじゃないけどこんな好感度の無い奴を一族の代表にするわけにはいかない。
(それに比べて道長は・・・)
と、詮子は思う。道隆ほどの色男ではないものの外見は上々だし、性格がしっかりしていて頭の回転が速い。人望もある。しかも、いざとなったら非情に徹しきれる胆力が備わっている。
これに関して詮子が思い出す事がある。頼忠が関白だった時分、諸芸に優れていた公任は「天才だ、さすがは関白の息子だ、他の家の子息とは出来が違う」と世間で評判だった。子供の成績においてもライバルの頼忠に後れを取った事を悔しがった兼家は、酒に酔った挙句、息子三人を目の前に座らせて
「まったく情けない。どうしようもないな、お前たちは。公任の影も踏めない程あいつの足元にも及ばないじゃないか」
と罵った。そう言われても道隆と道兼はただうつむくばかりだったが、道長だけは堂々と顔を上げ
「影なんか踏まずに奴のツラを踏みつけてやりますよ、近いうちに」
そう言って自分たち息子を侮る暴言を吐いた父親を睨みつけたものだから、一瞬ギョッとたじろいだ兼家は、
「お、おう、たとえハッタリであっても、男はそれくらいの事を言わなければいけないものだ」
と言い繕って心の動揺を悟られぬよう誤魔化した。
もう一つ「こういう事があった」と詮子は人づてに聞いた。花山天皇の時代、五月雨が激しく降ったある夜、殿上人たちとざっくばらんに雑談しながら退屈を紛らわしていた花山天皇が
「今夜はひどく恐ろしげな夜だな。こうやって大勢の人間と一緒にいても不気味な気持ちになるのに、ましてや暗くひと気の無い場所はおっかなくてしょうがないだろうね。そんな場所へ一人で行けるほど肝っ玉の据わった男はここにおるかね?」
そう問いかけると、すぐ側に控えていた道兼が
「いやぁ、いくつになっても暗闇は恐ろしいものでございますよ。突然なにかがワッと飛び出して来そうで」
と言い、道隆も
「オバケだけはご勘弁です」
と苦笑した。他の者たちも口々に同様の発言をした。それを聞いた花山天皇が
「やっぱそうだよなぁ。怖いよなぁ。それが正直な気持ちだよなぁ・・・」
そう呟いたところ、末席に控えていた道長が
「私ならどこへでも平気で参りますよ」
と言い出したものだから、悪戯好きな花山天皇の瞳がキラリと輝いた。
「それは本当か?」
「本当でございます」
「よし、それなら今から肝試しをしようぜ」
花山天皇は、はしゃいだ声でそう提案した。
「兄弟は連帯責任だから、道隆、おまえは豊楽院へ行って来い。道兼、おまえは仁寿殿内の衣装庫。そして道長は大極殿だ。さぁ、行って来い」
「えええ? 私たちも・・・ですか?」
とんだトバッチリを受けた道隆と道兼は
(この野郎、余計な事を言いやがって)
涙目で道長を睨みつけたものの、天皇の命令とあっては致し方なく、背中を丸めてしぶしぶ出発した。道長は平然と出て行った。そして案の定、道隆と道兼は恐怖のあまり途中で逃げ戻り、蒼白になった顔面を花山天皇に嘲笑されたが、道長は堂々と証拠の品を持ち帰って来たので、花山天皇を初めその場にいた者は感心した・・・こういった事を思い出すにつれ詮子は
(やはり我が家の未来を託せるのは道長しかいないわ)
そう確信を強めるのだった。道長の方も姉の詮子が大好きで、しょっちゅうご機嫌伺いに行っていた。そういう事もあって、詮子はますます道長を可愛く思うのだった。