第39章 宿願の孫
彰子の妊娠が発覚して以来、道長は尋常でないトランス状態で娘の初出産を万全にサポートしようと張り切っていた。安定期に入ったので彰子は普段通りの生活に戻ったが、それこそ咳を一つでもしようものなら道長がすっ飛んできて彰子を無理やり寝かしつけ、医者だ、僧侶による祈祷だ、と大騒ぎするものだから閉口した。「いい加減にしてくださいよ、父上」と彰子が抗議しても道長は聞く耳を持たず、逆に怒りの感情はお腹の赤ちゃんに良くないなと心配して、また医者だ、僧侶による祈祷だ、と騒ぎ立てるので、彰子は諦めて好きにさせるようにした。
出産に向けて手抜かりが無いよう道長は、彰子付きの女房を新たに多数雇い入れた。新しく加わったメンバーの一人が和泉式部である。このとき三十歳。和泉守であった橘道貞と結婚して娘(後に小式部内侍と呼ばれる歌人となり、彰子に仕える)を産んだが、おとなしく家庭の妻に納まっていられるタマでなかった彼女は夫と別れ、当時プレイボーイと都で評判だった、冷泉天皇の子供で花山天皇とは腹違いの弟に当たる、為尊親王と恋に落ちた。為尊親王が若くして亡くなると(享年二十四歳)、次はその弟である敦道親王と恋に落ちた。しかし、敦道親王も魔性の女・和泉式部に生気をぜんぶ吸い取られてしまったのか、寛弘四(1007)年に二十六歳の若さで亡くなった(敦道親王との間には後に僧籍に入る永覚が生まれた)。その後、二人の親王との恋を描いた『和泉式部日記』が貴族の間で大評判になり、道長はその評判を聞きつけて雇い入れたのである。
和泉式部は、道長から「浮かれ女」とからかわれたように、いかにも男好きのする、熟れきった甘い果実のような、妖艶で、煽情的で、背徳的な美女だった。性格的にも諸事においてさばけており、融通が利いたので、堅物で色気ナシの紫式部とはまるで正反対の存在だった。そのせいか紫式部は和泉式部の素行の悪さを気嫌いしていたが、彼女の文才だけは大いに認めていた。学問や教養に関しては自分にはとうてい及ばないものの、自分にはとても発想できない斬新な歌をスラスラといとも簡単に詠める天性の詩人であると一目置いていたのである。
こうして彰子の周囲には役者が揃って賑やかになったが、それでも定子の陽気で知的で自由で文化的で和気藹々としていたサロンを懐かしむ声が後を絶たなかった。そうなると面白くないのは、彰子を盛り上げようとして頑張っているリーダー格の紫式部であり、暴言の一つも吐きたくなるのが人情というものである。
「むかし清少納言という女が、たいした知識も無いくせに利口ぶって、宮中で大きなツラをしていたそうだけど、何さあんなやつ、得意気に文章を書き散らしていたけど、わたしに言わせればまだまだ未熟よ。素人よ。半人前よ。欠点だらけよ。ニセモノに惑わされてはいけないわ。いつも風流ぶっていたものだから、クソみたいな事にもいちいち感動してさ。バッカじゃないの。あんなペテン女はどうせ地獄へ堕ちるでしょう。それがよくお似合いよ。人さまを欺いたバチなんだから。いま中宮さまの下に集まっているわたしたちこそが本物よ。本当の知識人よ。本当の風流人よ。本当に芸術を理解している人間よ。清少納言なんかと比較されること自体、わたしたちにとっては大屈辱だわ」
紫式部が本心から清少納言を評価していなかったとは思えないのだが、このとき置かれていた彼女の立場からすれば、こういった発言をするのも致し方なかったのかもしれない。
一旦は持ち直し、小康状態にあった媄子だったが、寛弘五(1008)年五月二十二日に再び容態が悪化し、二十五日にあっけなく帰らぬ人となった。享年八歳。一条天皇は泣き悲しんだ。あまりの悲嘆ぶりに、出産準備のため実家の土御門殿に帰省していた彰子が心配して一条院へ戻って来たほどであったが、一条天皇の悲しみは収まらず、脩子と二人きりで部屋に籠り泣き暮らした。
伊周と隆家もガッカリし、隆家はこう覚悟した。
(どこまでも運が無いものだな、俺の家は。こうなると生まれてくる中宮の子供は男の子だろうな、たぶん)
秋になり、彰子の出産が近づいてきた。紫式部の『紫式部日記』は、彰子出産前のこの時期から書き始められている。
「秋のけはひ入りたつままに、土御門殿の有様、いはむかたなくをかし。池のわたりの梢ども、遣水のほとりのくさむら、おのがじし色づきわたりつつ、おほかたの空も艶なるに、もてはやされて、不断の御読経の声々、あはれまさりけり」
美しい文章である。この文章にあるように、土御門殿では一日じゅう読経が続き、彰子の無事出産を祈っていた。
寛弘五(1008)年九月九日夜半、彰子の陣痛が始まった。しかし、なかなか子供が産まれない。気が気でない道長は、僧侶の数を増やして読経させたり、祈祷師を呼んで妊婦を狙う物の怪を追い払わせたりして、一人で大騒ぎしていた。
陣痛開始から三十六時間(!)たった十一日の正午、遂に彰子は出産した。生まれてきたのは男の子だった。その報告を聞いた道長は嬉しさのあまり泣き崩れた。
彰子が男子を出産したというニュースは、すぐさま貴族社会に広まり、それを聞いた伊周は不機嫌になり、隆家は「やっぱりね。こうなると思っていた」とため息をついた。
生まれてきた皇子は敦成と名付けられた。産湯を使う儀式を初めとする様々な儀式がそれから何日も続き、紫式部ら女房たちはてんてこまいの大忙しだった。産後、彰子は御帳台に閉じ籠り、ひと前から姿を隠していた。紫式部はずっとそばに付き添って彰子のお世話をした。皇子を産んだことで、女房や家来たちは早くも彰子を《国母》と呼んでいたが、まだ出産の疲れが取れず、痩せて疲れた様子の彰子は、紫式部に言わせると《国母》という物々しい呼称からは縁遠い、まだ幼ない面影が残る少女にすぎなかった。
彰子は出産疲れでぐったりしていたが、待望の男子の初孫を得た道長は元気一杯であり、夜中でも明け方でも敦成の顔を見たさに寝所へおしかけて来ては、乳母たちを困らせた。この時の道長には他人の迷惑など眼中になかった。あるのは自分の娘が天皇の皇子を産んだという幸福感だけだった。そんな道長が、ある日、敦成を抱いている時、おしっこをひっかけられた事があった。そのときも怒るどころか
「若宮さまのおしっこで濡れるとは何て幸せなんだろう。わしはこういう日が来るのを待っておったんじゃ。長い間ずっとずっと待っておったんじゃ。それがいま実現した。嬉しい。実に嬉しい、嬉しすぎるぞ、わしは」
と一人しみじみと感激していた。完全な爺バカであった。
同年十月十六日には一条天皇が土御門殿へ行幸し、敦成と初対面した。敦成を抱いて現れた自慢気な表情の道長から慎重にそっと手渡された我が子を抱いた一条天皇は、小さな寝顔を見てもちろん愛おしく思ったが、その一方でどうしても長男・敦康の顔が脳裏をよぎった。敦成を可愛く思いながらも、このさき敦康が不幸な事にならねば良いがと心に不安が湧きおこってくるのを抑えきれなかったのである。敦成と対面し、彰子を労った一条天皇は、その日のうちに一条院へ戻った。
同年十一月一日、土御門殿において敦成誕生五十日目の祝宴が盛大に催され、多くの公卿が招待された。道長政権の主要メンバーである隆家はもちろん招待されたが、伊周には残念ながらお呼びが掛からなかった。
厳かに始まった祝宴であったが、終盤になるとみんな酔っぱらい、公卿と彰子付きの女房が入り混じった無礼講と化した。泥酔した右大臣の藤原顕光が女房たちの顔を覗こうとして几帳の布を破ってしまったので、「いい年こいて困ったものね、このスケベ爺は」と呆れた和泉式部がやんわりと注意するや、顕光は彼女の持っていた扇を取り上げ、レロレロの口調で「美人だね、ねえちゃん。返して欲しければ一発やらせろよ。なぁ一発やらせろよ」と言い出したものだから、さあ大変。ムッとした和泉式部が顕光を張り倒しそうになり、中宮大夫の藤原斉信が二人の間に割って入って事なきを得た。もっとも騒動が一段落つくと、今度は斉信がいつものようにネチネチと和泉式部を口説き始めたが。内大臣の藤原公季は泣き上戸らしく、自分の息子が道長から杯を受けると、感激しておいおい泣き始めた。酒に強いはずの隆家も、敦成誕生に心中穏やかでいられずに飲みすぎたのか、珍しく酩酊して部屋の隅で若い女房の腕をつかんで口説いていた。このように皆がハメを外して乱痴気騒ぎを繰り広げている中、唯一まともなのが藤原実資だった。実資は東の柱に寄りかかり、女房たちが贅沢禁止令に違反していないか、重ね着の枚数をチェックしていた。おおよそ酒宴の場に相応しくない、そのクソ真面目と言うか、はっきり言って変人まるだしの姿に興味を持った紫式部は、実資に話かけた。二人は教養人同士なので話が合った。
会話が弾んでいるところへ突然、
「ええっと、すいません。このあたりに若紫がおりませんでしょうか?」
そう冗談を言いながら左衛門の督の藤原公任が割り込んできた。公任のこの一言は、これによって寛弘五(1008)年には《若紫の巻》が完成し、広く流通していた証拠となる、源氏物語研究史上重要な言葉だそうである。しかし、そんな歴史に残る貴重な言葉をかけてもらいながらも紫式部は、自分の書いた物語の主要人物を冗談のネタにされた事に腹を立て、
(光源氏みたいな素敵な男がいないのに、紫の上がいるわけねえだろうが、このボケ!)
心の中でそう悪態をついて退室しようとしたところ、今度は道長に捕まった。酔っぱらってベロンベロンになった道長は、紫式部に
「祝いの和歌を詠め。和歌を詠むまでは帰さんぞ」
とからんできた。道長のリクエストとあれば断るわけにもいかず、紫式部は一首詠んだ。
「いかにいかが かぞへやるべき 八千歳の あまり久しき 君が御代をば」
幾千年も続くであろう若宮さまの御代は数えられません、という大意の見え透いたヨイショ歌である。それでも道長は「即興でこれほど上手く詠むとはたいしたものだな」と酔いが醒めるほど感心し、次の瞬間には少しばかり悔しくなったらしく、急に対抗心を燃やして自分でも一首詠んだ。
「あしたづの よはひしあらば 君が代の 千歳の数も かぞへとりてむ」
鶴のように千年の命があれば若宮の御代をぜんぶ数えられるのだがなぁ、ぜんぶ見届けて数えたいなぁ、若宮の御代を、という大意の敦成への愛情がよく表現されたなかなかの秀歌である。思いのほか良い歌が詠めた事に満足した道長は、
「中宮さま、聞こえました? 我ながら上手く詠めましたぞ」
御簾の奥にいる彰子に声を掛け、その後、酔って気が大きくなっていたのだろう、ついこのように自画自賛した。
「わしぐらい素晴らしい父親はおりませんでしょう? 中宮さまも、このわしが父親で鼻高々のはずじゃ。妻の倫子も良い夫を持ったと、さぞ自慢に思っている事じゃろう」
ところが、そばで話を聞いていた倫子が、これにカチンと来た。
(はぁ? なに調子こいてんだ、このバカは。おまえが今あるのは左大臣の娘であるわたしが嫁に来てあげたからだろうが)
確かに倫子の父である左大臣・源雅信は、いくら関白の息子とはいえ出世の見込みの無い三男坊の道長と娘が結婚するのに大反対だった。それに逆らって無理やり結婚してあげたのは倫子の方であり、そのお陰で道長は土御門殿を初めとする雅信の膨大な財産を手に入れたのである。
倫子はムッとして退室した。それを見た道長はおろおろと狼狽し、慌てて倫子の後を追った。天下人でありながら道長は、実は筋金入りの恐妻家だったのである。怒る倫子と焦る道長の滑稽な姿を見て、
「またいつものアレが始まった」
と彰子は愉快そうに笑った。




