第37章 御嵩詣
寛弘二(1005)年二月二十五日、伊周の座次が大臣の下、大納言の上と決まり、翌二十六日には宮中への参内が許可された。とは言っても、何の役職にも就いていない伊周は、参内しても自分の席があるわけでなく、やる事も無い。また、誰からも相手にされない・・・時の権力者だった道隆の跡取り息子ゆえに、若くして異例の出世を遂げた伊周に対する貴族たちの憎しみや恨みは、そうとう根強かったのである。
一方、同じ中関白家の人間であっても、隆家は貴族たちから嫌われる事が少なく、それどころか一目置かれている存在だった。兵部卿である隆家は、参議ではないものの道長政権内の実力者として皆から認識されていたのである。元服したとはいえ、道長の長男である頼通はまだ十二歳。もし道長の身に何かあった場合、政治の舵取りをするのは、現状では隆家であろうというのが大方の見方だった。
その隆家であるが、ようやく房子を失った悲しみから立ち直り、元気を取り戻しつつあった。新しい妻も娶った。落ち込んでいた隆家を心配した道長の紹介で、伊予守を務めた源兼資の娘、直子を妻にしたのである。小柄で可愛い十六歳の直子は、房子とはまるで正反対の、おとなしくて、従順で、控え目な性格だった。つまり一緒にいても何の刺激も面白味も無い、若い時分の隆家が毛嫌いしていた、お人形のような女だった。しかし、傷心の隆家には、直子のような静かな女と一緒にいる方が気持ちがやすらいだ。ちょうど定子を失った一条天皇が御匣殿に癒しを求めたのと同じように、隆家は直子に癒しを求めたのである。隆家は直子、そして幼い良頼と共に、新たな人生を歩み始めた。
紫式部は自宅に引き籠り、他にする事も無いので、黙々と『源氏物語』の続きを執筆していた。宮中からは出仕を促す手紙がたびたび届いたが無視していた。とうとう最後には父親の為時が説得に乗り出した。
「頼むよ、香子。もういちど中宮さまにお仕えしておくれ」
紫式部の本名は分かっていない。角田文衞という学者が、彼女の本名は「香子」であるという説を提唱しているそうである。これが正しいかどうか私には判断できないが、とりあえずここではそれに従っておく。
「嫌です。もう内裏には上がりたくありません」
父親に説得されても、紫式部は簡単に首を縦に振らなかった。なかなかの頑固者である。
「そんな、香子。わしの身にもなっておくれ。批判の矢面に立たされているは、このわしなんじゃぞ。現に今日も朝廷のお偉い方から、娘をすぐに出仕させろ、道長さまがお怒りだぞ、と叱られたばかりだし・・・」
「でも、わたしは宮中の人たちに歓迎されていないのですよ」
「どうしてそう分かるのじゃ?」
「だって、実際みんな冷たかったんですもの、わたしに対して」
紫式部の返答を聞くや、為時は急にイライラし始め、
「おまえはいくつなんじゃ、香子?」
と声を荒げた。
「もういい年であろうが。それなのにいつまでも娘気分が抜けんで・・・そんな事でどうするんじゃ? おまえはちぃっとばかし学があるもんじゃから気位が高すぎるんじゃ。もしかしたら、おまえは心のどこかに、自分は行ってやっているんだという驕り高ぶった気持ちを持っているのではないのか?」
「いいえ、決してそのような事は・・・」
「そして周りの同僚たちを心の中で見下していたのではないか? 文章もロクに書けない無教養なバカ者どもめと思って」
「そんな事はこれっぽっちも考えておりません」
「いや、自分では気づかないだけで、そういうおまえの醜い内心が表にあらわれていたのじゃ。だからみんなから冷たくされたのじゃ。よいか、新しい職場に入ったら、ただひたすら頭と腰を低くして、わたしは右も左も分からない未熟者でございますから、どうかご指導のほどよろしくお願いしますという謙虚な態度に終始して、諸先輩方に可愛がってもらえるよう努力するんじゃ。まずは無能なフリをするんじゃ。そういう努力をおまえは一度でもしたか?」
「いえ・・・そこまでは・・・」
為時に詰め寄られた紫式部は言葉に詰まった。
「そんな努力もせずに、ただ偉そうにボーッと突っ立っていて、みんながわたしに冷たい? 親切じゃない? 何を甘えた事ばかりぬかしとるんじゃい、おまえは。他人から何かしてもらう事ばかり期待しおって。まったくいい年こいたババアが情けないわ。こちらから与えるんじゃよ、まず。バカになるんじゃよ、自分から。それが人間社会でうまく生きてゆくコツというものであろうが。こんな当たり前の事も分からんのか、おまえは」
苦労人の父にさんざん説教されてへこんだ紫式部は、七月の初め再び出仕した。今度は父に教えられた通り、ひたすら周囲にペコペコし、難しい漢字は読めないフリをしてバカを演じた。その努力の甲斐あって、同僚の女房たちが親しく接してくれるようになった。女房の一人が紫式部にこう打ち明けた。
「最初は『源氏物語』の作者が来るというから、高慢ちきで、何かといえば自分の教養をひけらかす、どんな嫌味な女が来るのだろうと、わたしたちはみな警戒して、ハラハラ怯えて、声を掛ける事すら出来なかったけど、香子さんがこんなに気さくで親しみやすい人だったとは、ホント意外でしたわ」
え? そういう事だったの? わたしって恐れられていたの? 何じゃ、そりゃ?・・・紫式部は双方の誤解がとけて喜ぶと同時に、何だか気の抜ける思いがした。
寛弘二(1005)年九月二十六日、安倍晴明死去。享年八十四歳。詮子に続き晴明も冥土へ行き、それまで道長を支えてきたブレーンがいなくなった。しかし、四十歳を前にした道長は慌てなかった。ブレーンを必要とするどころか、今度は自分が息子のブレーンになる番を迎えていたからである。
寛弘二(1005)年十一月十三日、六歳になった敦康が初めて漢文の講義を受ける「読書始めの儀」が執り行われ、道長を初めとする朝廷の主要メンバーが列席した。一条天皇も屏風に隠れて密かに臨席した。この儀式に参加できるようにという一条天皇による特別のはからいで、同日、伊周は参議に復職し列席した。
儀式の間に参会者による作文会が開かれ、各々が自作の漢詩を発表した。道長は敦康を「我が王」そして「(自分の)孫にことならず」と詠んだ(彼にしては)殊勝な心掛けの漢詩を披露した。この段階では道長も敦康を将来の天皇と渋々認めていたのである。
対抗する伊周は、一条天皇が「読書始めの儀」を迎えた十数年前に想いを馳せ、敦康にも父親である一条天皇のような学問を好む立派な天皇になって欲しいという切なる願いを込めた漢詩を披露した。
その伊周であるが、参議に返り咲いた途端、天性のお調子者ぶりを発揮し、自らを得意気に大臣に準じる存在であるという意味の《儀同三司》と称して、「よし、これから会議で大いに発言して、俺さまの存在感を示してやるぞ」と張り切っていたが、その矢先の十一月十五日、内裏がまたしても火災に遭った。今回は三種の神器の一つである八咫鏡が灰になった程の大火災だった。たまたま彰子の部屋にいた一条天皇は、彰子と紫式部ら数人の女房を引き連れて徒歩で避難した。天皇と中宮が護衛もつけずに往来を駆け足で逃げるというのが、当時の天皇が置かれた境遇だった。一条天皇は道長から提供された東三条殿を翌年(寛弘三年)の三月まで仮の内裏とし、その後おなじみの一条院へ移った。
寛弘三(1006)年五月二十四日、隆家と直子の間に男の子が生まれた。隆家にとっては次男である。経輔と名付けられた。人間とは不思議なもので、隆家と房子の間に生まれた長男の良頼は、さぞかし両親に似た腕白坊主に成長するだろうと思っていたところ、予想に反してとても内気でおとなしい少年となり、逆におとなしい直子との間に生まれた次男の経輔が、後々たいへんなやんちゃ坊主に成長し、暴力事件を起こして世間を騒がせることになる。しかし、それは本作の範囲外。興味のある人は調べてほしい。
寛弘四(1007)年八月十一日、道長は吉野の金峯山へ《御嵩詣》の登山に出掛けた。彰子の懐妊祈願の為である。
(いくらなんでも、もうそろそろ良いでしょ? そろそろ頃合いでしょ? 彰子はあと少しで二十歳なのですよ。ここら辺で子供を授けてくださいよ。お願いします、神様)
旅へ向かう道長の心情を推し量ってみれば、以上のようになるであろう。すなわちこれは、しびれを切らした道長が、御利益があると評判の神様に「彰子に男の子を授けてくれよ」と直談判しに行った旅なのである。
道長が出立すると、都に不穏な噂が流れ始めた。伊周と隆家が道長暗殺を企て、刺客として平致頼を金峯山へ送ったというのである。平致頼というのは、隆家が兵部卿になったばかりの時、伊勢国で平維衡と戦闘騒ぎを起こした《さがな者》である。心配した藤原実資が、事の真相を確かめるべく隆家の屋敷を訪問した。
「俺は何もしちゃいねえよ」
寝耳に水の隆家は実資にそう答えた。確かに道長は中関白家の敵かもしれないけど、中関白家が没落した原因は伊周の無能さに負うところが大きいし、道長には兵部卿そして権中納言に引き立ててもらった恩がある。
「だから俺は暗殺など企てていないし、企てるはずがない」
隆家はそう断言した。隆家の人柄をよく知る実資は、もっともだと頷いた。
「それに」
と、隆家は付け加えた。
「もし道長を殺るとしたら、他人に頼んだりしねえよ。この俺が一刀のもとに叩き斬ってやるさ」
これにも実資は深く頷いた。
「そうだよなぁ、おまえは暗殺のような卑怯な真似が大嫌いだものなぁ。正々堂々と白昼に皆の見ている前で殺る男だものなぁ」
隆家が潔白なのは明らかだった。ただ隆家と実資には一つ気がかりがあった。伊周である。
「まさか兄貴が懲りずにバカな真似を・・・」
隆家が道長の暗殺を企てるのはありえないが、伊周ならやりかねない。道長の暗殺を企てたとなれば、今度ばかりは伊周の命は無いだろう。頼むからバカな真似をしていないでくれよ・・・そう隆家と実資が祈っていたところ、八月十四日、道長は何事も無く都へ戻ってきた。噂はデタラメだったのである。後でそういう噂が流れたと聞いた道長は「バカバカしい」と豪快に笑い飛ばした。もちろん隆家と伊周には何のお咎めも無かった。




