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さがな者隆家  作者: ふじまる
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第36章 紫式部登場

 前年は定子さだこの喪に服する中で始まったが、長保四(1002)年は詮子あきこの喪に服する中で始まった。

 この年の隆家の目標は、妹の御匣殿みくしげどのが無事に一条天皇の子供(出来れば男の子)を産む事と、妻の房子ふさこが無事に自分の子供(こちらも出来れば男の子)を産む事に尽きた。それは未来への希望だった。中関白家復活の足掛かりだった。そのため隆家は全力でサポートした。しかし、中関白家の頭上には呪いの雲がかかっているのだろうか、今回も運命は中関白家に冷酷だった。

 まずは六月三日、とつぜん御匣殿が死んだ。享年十七歳。子供を流産した上での死亡だった。伊周これちかも隆家も妹の突然の死に愕然となったが、それは一条天皇も同じだった。せっかく定子の面影を宿す御匣殿とこれから幸せな人生を歩もうとしていた矢先に、寡黙で控え目な麗人は何の前触れもなく、まるで天女がふわりと大空へ飛び去っていったかのように、急にこの世からいなくなってしまったのである。それがあまりにも突然であっけなかった為、御匣殿が亡くなったのが信じられないどころか、そもそも最初から御匣殿は存在していなかったのではないか、あれは定子の陽炎だったのではないか・・・一条天皇にはそう思えた程だった。

 房子は御匣殿が死亡した直後に出産を迎えた。御匣殿が流産して亡くなったばかりなので、隆家はハラハラしながら出産を見守った。難産のようだった。房子の苦しむ声が聞こえた。

「がんばれよ、房子」

 別室で待機している最中、安産を祈る僧たちの読経に合わせて、思わず隆家も経を口ずさんだ。やがて隆家の耳に赤ん坊の泣き声が聞こえた。

「産まれたか?」

 隆家はそう言って目を輝かせた。生まれたのは、隆家の希望通り男の子だった。それを聞いて隆家も、隆家の家来も、房子の実家の者たちも大喜びした。浮かない顔をしているのは出産を手助けした産婆だけだった。不審に思った隆家が「どうかしたのか?」と尋ねると、産婆は「奥方さまが・・・」とだけ呟いた。隆家は慌てて房子の寝ている部屋へ入った。房子はそこにいた。部屋の中央に目を閉じて静かに横たわっていた。その横に数人の侍女がいて、全員しくしく泣いていた。

「まさか・・・おい・・・嘘だろう?・・・」

 隆家はガバッと房子の体にすがりついて大声で名前を呼んだ。しかし、返事は無かった。房子はすでに息をしていなかった。

「おい、どうしちゃったんだよ、房子。頼むから目を開けてくれよ、房子」

 あまりにもあっけない死だった。いくら隆家が大声で叫んでも、房子は静かに目を瞑ったままである。隆家にとって房子は妻であると同時に知恵袋であり、自分を正しい方向へ導いてくれる羅針盤であり、共に戦う戦友であった。その房子がいなくなるなんて、隆家は想像した事すら無かった。確かに変わったところのある女だったが、そんなところも含めて、いつも明るく、前向きで、才気に溢れた房子は、隆家にとって一番しっくり来るパートナーだった。その房子を失う・・・それは隆家がそれまで味わった事の無い恐怖だった。

「定子姉ちゃんの真似をして俺を驚かすのはもう止めろよ。冗談はそれくらいで終わりにしろよ。返事をしてくれよ、房子」

 隆家は房子の遺体にすがりついて泣いた。大声で泣きじゃくった。しかし、隆家の元に房子が帰って来る事はなかった。

 中関白家の不幸はさらに続き、八月三日には居貞おきさだ親王(後の三条天皇)に嫁いだ伊周と隆家の妹である《淑景舎女御しげいしゃにょうご原子もとこが、これまたとつぜん血を吐いて亡くなった。享年二十二歳。毒殺の噂が立ったが、真相は闇の中である。

 房子が自分の生命と引き換えにして産んだ子は良頼よしよりと名付けられた。隆家は幼い良頼を抱きかかえながらガックリ肩を落とすばかりだった。たて続けに襲った中関白家の不幸は、さすがの隆家をも完全に打ちのめした。もはや何をする気力も起きなかった。

(俺の家には運が無い・・・)

 九月十四日に隆家は権中納言に復帰したが、喜びなどあろうはずがなく、《さがな者》には似つかわしくない抜け殻のような有様で、ただ泣き暮らしていた。

 長保五(1003)年二月二十日、道長の長男、頼通よりみちがわずか十二歳で元服した。

 中関白家最後の、そして唯一の希望となった敦康あつやすは、養母である彰子あきこに育てられてすくすくと成長していた。一条天皇と定子の血を継いだだけあって利発な子供だった。もちろん道長も、この段階では敦康の養育に全力を尽くしていた。

 御匣殿を失った一条天皇は気持ちを入れ替えて、定子が残してくれた二人の大切な娘、脩子ながこ媄子よしこと共にささやかな幸せを噛みしめながら静かに暮らしていた。一条天皇は二人の娘が可愛くて仕方なかった。特に七歳になる脩子とおしゃべりをするのが一番の楽しみだった。娘たちと一緒に暮らせれば、他にはもう何もいらないという心境だった。

 彰子に対しては敦康を立派に育ててくれている事には感謝しているものの、妻よりも娘たちと一緒にいたい気持ちが勝っていたので、夜を共にする機会はめっきり無くなっていた。十五歳の彰子は、そんな事はまったく意に介さなかった。幼い頃は生意気な面もあった彰子だったが、この頃にはひどく控えめでおとなしい性格の女性になっていたのである。

 意に介していたのは道長である。どうしても彰子に一条天皇の皇子を産んでもらいたい道長は、彰子をもっと魅力的な女性に仕立てなければならないと考えた。そう、定子のような才気渙発な女性に。一条天皇好みの機智に富んだ女性に。毎晩いっしょに過ごしたいと一条天皇が望むような女性に。その為には才気と教養に溢れた有能な女房を彰子のそばに集めなければならない。

 すでに彰子のそばには赤染衛門あかぞめえもん(あるいは夫の名前をとって匡衡衛門まさひらえもん)と呼ばれる後に『栄花物語』の作者になる才女がいたが、道長は彼女ひとりでは物足りないと思っていた。もっとたくさんの人材を集めたかった。そこで腹心の斉信ただのぶ行成ゆきなりに命じて、全国から彰子の教育係に相応しい逸材を探させた。

 とは言うものの、希望通りの逸材がそう簡単に見つかるはずがなく、捜索は難航した。途方に暮れる斉信と行成。そんな時、ある物語の評判が行成の耳に入った。この時代にも物語はたくさん書かれていたが(そのほとんどが現在は残っていない)、和歌や漢詩に比べて芸術的に一段ランクの落ちる、知識や教養の無いおんな子供の為の娯楽にすぎないと思われていたし、実際そのレベルの安っぽい作品ばかりだった。ところが、その物語は違うらしい。行成のような教養人が読んでも感銘を受ける代物だという。行成はさっそく入手して読んでみた、その物語すなわち『源氏物語』を。

 先に書いたように紫式部の『源氏物語』は、彼女の夫であった藤原宣孝ふじわらののぶたかと長保三(1001)年六月に死別して以降に書き始められたと考えられている。この時点でどれくらいまで完成していたのかは分からない。治安元(1021)年に『更級日記さらしなにっき』作者の菅原孝標女すがわらのたかすえのむすめが初めて『源氏物語』を読み、「后の位も何にかはせむ」と感激した時には、宇治十帖を含む現在と同じ五十四帖がすでに完成し、広く流通していたようであるから、執筆開始から十年かそこらで全巻を書き終えたのではないだろうか? 現代の流行作家ならともかく、平安時代の女性が、そんな短期間で、あの膨大な分量を、あの質の高さで書いたかと思うと、驚嘆以外の何ものでもない。

「こ、これは・・・」

 一読して『源氏物語』の華麗な文体、深い内容、行間から滲み出る作者の教養の高さに魅了された行成は、家来に命じて写本を大量に作らせると共に、すぐさま道長に「すんごい女を発見しました」と興奮気味に報告した。道長はよく分からないまま行成に命じた。

「ええがな、ええがな、おまえがそれほどまでに褒める奴なら間違いない。連れて来い。連れて来い。さっそくここへ連れて来い」

 行成が作らせた写本を献上された彰子は『源氏物語』にすっかり夢中になった。そして作者を彰子付きの女房として雇い入れる計画だと聞くと無邪気に喜んだ。『源氏物語』を読み耽っていたところへ一条天皇が現れたので、彰子が写本を見せながら

「これ面白いんですよ」

 そう話しかけると、一条天皇はにっこり微笑んで

「私も読んだ」

 と答えた。行成は写本を一条天皇にも渡していたのである。

「面白いですよね?」

「うん、面白い。それに読んでいると分かるのだが、この作者は『日本書紀』にも詳しいようだね。漢文や歴史に関して相当に知識のある人だと思うよ」

 自分の好きな『源氏物語』を一条天皇も好きで、その事について一緒に話し合えて、二人の意見が合った事が、彰子は無性に嬉しかった。

 道長は正式に出仕を要請したが、紫式部は長らく渋っていた。地味で、田舎者で、引っ込み思案で、性格の暗い自分が、宮中のような華やかな場所へ出ると思うと、気後れして足が竦んだのである。ここら辺は初出仕の際に緊張して縮こまっていた清少納言と同じである。しかし、ここで最高権力者である道長に恩を売っておけば、父の為時ためときや兄の惟規のぶのりの出世に繋がる可能性が高い(実際、為時は寛弘六(1009)年に正五位下・左少弁さしょうべんに、さらに寛弘八(1011)年には越後守に任ぜられ、順調に出世した)。また、幼い娘を育てる為には、経済的な基盤が必要である。

(わたしが頑張らなくては。それに知らない世界へ飛び込む事で自分自身を変えられるかもしれない、今よりもっと良い方向へ)

 あれこれ思い悩んだ末、ようやく紫式部は出仕する決心をした。

 寛弘元(1004)年十二月二十九日、三十四歳の紫式部は、その前年に再建され、一条天皇や彰子が戻った内裏に初出仕した。ところが、生まれつき陽気で、気丈で、派手好きの清少納言でさえも、初出仕の時はガチガチに緊張して何も出来なかったのに、生来のネクラで、奥手で、人見知りの紫式部が上手くやれるはずがなく、宮中の豪華絢爛な雰囲気に完全に飲まれてしまい、オドオドするばかりで何ひとつまともに仕事が出来なかった。

 そんな紫式部に対する同僚の女房たちの態度は、ひどく冷たくて非協力的だった。また主人である彰子には、定子のような新入りの女房をリラックスさせてくれる度量が、この時まだ備わっていなかった。はっきり言って彰子は単なる子供にすぎなかった。紫式部も、彰子を何も分からないネンネだと認識した。しかも彰子は、あの素晴らしい『源氏物語』の作者だから、どんな颯爽とした素晴らしい才女がやって来るのかと期待していたので、思い描いていたのとは程遠い本人を目の当たりにして「何よ、この地味で暗そうなおばさんは・・・わたしはカッコ良いお姉さんだと思っていたのにぃ・・・」と露骨に落胆の色を示した。

(わたしは歓迎されていない。ここは嫌だ。ここにはもういたくない。宮仕えはまっぴら御免だ)

 初出仕に失敗し、宮中に馴染めなかった紫式部は、このあと半年あまり自宅に引き籠る事になる。

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