第35章 東三条院崩御
長保三(1001)年は定子の喪に服す中で始まった。一条天皇の三人の子供、すなわち脩子、敦康、媄子は内裏で大切に育てられた。子供たちの母親代わりとして世話をしているのは御匣殿である。御匣殿は、性格はまるで正反対ながら、容姿は定子に瓜二つだった、まるで定子が生き返ったかのように。
(あ、良かった、定子は死んでいなかったんだ、ちゃんと生きていたんだ・・・)
一条天皇もしばしばそう錯覚しそうになる事があった。しかも傷心の一条天皇には、御匣殿の静かで控えめな性格が一緒にいるとひどく心地よかった。一条天皇と子供たちと御匣殿による穏やかで幸せな時間。再び手に入れた温かい家庭。心のやすらぎ・・・定子の幻影を追って、彼女を失った寂しさを埋めるかのように、一条天皇の心が御匣殿に惹かれていったのは自然のなりゆきだった。御匣殿は一条天皇の事実上の妻になった。
これを知って喜んだのは伊周と隆家である。一条天皇の心をガッチリ中関白家側に繋ぎ止めておけば、まだいくらでも挽回のチャンスがあるからである。逆に焦った道長は一条天皇に敦康を彰子の養子にする案をもちかけた。一条天皇の心は一向に彰子の方へ向かないが、敦康を養育させれば、まだ幼女にすぎないと侮っている彰子を見直すだろうと期待して。さらに彰子に男子が生まれない場合の保険に、敦康を自分の陣営に引き入れておいた方が後々有利に働くと計算して。一条天皇としても権力者である道長が後ろ盾になってくれるのなら敦康の将来にとって損は無いと考え、承諾した。同年八月、敦康は彰子が生活する飛香舎(藤壺)に引き取られた。十三歳の彰子が不自然ながら母親となったわけである。
その彰子の父親である道長は、このところ最愛の姉・詮子の世話で忙しかった。道長が罹った疫病に感染した詮子は、どうにか病を克服したものの、それ以降ずっと体調がおもわしくなかった。心配した道長は、詮子を元気づけようとして石山寺詣でに連れて行ったり、法華八講を催したりしたが、体調は一向に回復しなかった。それどころか日に日に悪化していった。すっかり気弱になった詮子は病床に道長を呼んだ。
「わたしの一生は闘いの日々だったわ」
詮子は道長に向かって静かにそう語り始めた。
「ケンカは敗けたらおしまいよ。いくら良い勝負をしても、敗ければ結局すべてを失う。だからわたしは常に勝って来た。敵に容赦はしなかった」
「姉上にはこれからも闘ってもらわなければ困ります。わたくしは姉上だけが頼りなのですから。だから早く元気になってくださいね、姉上」
道長が元気づけようとしてそうおだてても、詮子は無視した。
「しかし、今になって敗けた連中の怨念がわたしを苦しめる」
「考えすぎですよ、姉上」
「間違いない」
「どうか心をやすらかにしてご静養ください」
「あいつらがわたしを呪い殺そうとしている」
「だから・・・姉上」
「地の底から暗黒の力で・・・」
「あのですね・・・」
「道隆と道兼が・・・」
「げっ!」
二人の兄の名前を聞いて道長は動揺した。彼らの恨みとなると自分も標的になる恐れがあるからである。怨霊や物の怪の類いを極端に恐れるこの当時の道長は急に恐ろしくなり、すぐさま安倍晴明に御祓いをさせた。道長は何かあるとすぐに晴明を呼んで助けを求めた。そんな依存関係が構築されたのも、頼りにされる晴明が期待に応える働きをしたからである。
ある日、道長が詮子の快癒祈願のため法成寺(道長が子孫繁栄を祈願して建てた寺。鎌倉時代に書かれた吉田兼好の『徒然草』に、昔の権力者の寺として、その荒廃した様子が記されている)を訪れたところ、一緒に連れていた白犬が怯えた様子でワンワン吠え一向に門の中へ入ろうとしない。不審に思った道長は、すぐさま晴明を呼んだ。晴明が調べると、門の先の地中に埋められた呪いの札が見つかった。晴明は「これは蘆屋道満という陰陽師の仕業に違いありません」と断定した。さっそく道満を逮捕してギュウギュウに絞め上げたところ「右大臣さまのご指示でやりました」と白状した。この時の右大臣は藤原顕光である。読者は顕光を憶えているであろうか? 一条天皇の子を出産するはずが、水しか出て来なくて赤っ恥をかいた元子の父親である。表向きは政権ナンバー2の地位にいたが、実権はすべて道長に握られており、顕光には何の権力も無かった。元子が一条天皇の皇子を産む可能性はもはや無い。政権のトップに就く夢を断たれた顕光は勝利者である道長を逆恨みし、密かに道満に依頼して呪い殺そうとしたのである。しかし、道長は道満を生まれ故郷の播磨国へ強制送還したのみで、この事件を不問に伏した。怒る以前に「まったくあのバカは」と呆れるばかりで、顕光など端から相手にしていなかったせいと、政権安定の為つまらない波風を立てたくなかったからである。ただし、この一件以降、道長は晴明をますます頼りにするようになった。
秋になって御匣殿が懐妊した。当然ながら伊周と隆家は大喜びした。帰宅した隆家がその嬉しい知らせを房子に伝えると、房子は何やらモジモジしている。
「何だ? 喜ばないのか? 幸子が陛下の子供を身籠ったんだぞ。我が家にとってはめでたい話ではないか」
予想外の房子の反応に戸惑った隆家がそう言うと、房子は小さい声で「ええ、たいへんおめでたい話だと思うわよ」と答えた。
「そうだろう? それならもっと喜べよ。これから我が家は復活に向けて動き出すのだから」
「実はわたしのお腹も動いていて・・・」
「おまえの腹が動いてどうすんだよ? 動くのは我が家だ」
「だって、そうなっちゃったんだもん・・・」
「はぁ? さっきから何わけの分からないこと言ってんだ?」
「だから出来ちゃったんだってば」
「何が?」
「赤ちゃんがよ」
房子にそう言われて、初めて隆家は言葉に詰まり、房子の腹部をしげしげと眺めた。
「・・・赤ちゃんって・・・まさか俺の?・・・」
房子は困ったような複雑な表情を見せてコックリ頷いた。隆家がどういう反応をするか分からず些か不安だったのである。もし隆家が子供嫌いだったら・・・ところが、その隆家が突然「うおおおおおおおお!」と雄叫びを上げたものだから、房子は面食らった。叫び終わると隆家は、房子の手を握り
「よくやった、房子」
と大喜びした。ホッとひと安心した房子は、隆家へ満面の笑みを返した。
「そっか。俺もいよいよ人の親か」
隆家はまだ興奮している様子である。
「俺に跡継ぎができるのか」
「生まれて来るのは女の子かもしれないわよ」
「女でも構やしねえさ。俺と房子の娘なら、どうせお転婆に決まっている。小さい頃の定子姉ちゃんのようにな。よし、俺が武芸を教えてやるぞ」
「ダメよ。女の子ならおしとやかな姫君に育てるんだから。武芸は男の子のときだけにしてね」
「男だったら、この俺が誰にも負けない強い男に鍛えてやるさ。そんなの決まってるじゃないか。ビシビシしごいてやるぞ」
「そうね、あなたならそうなるわね。可哀想に、わたしの息子ちゃんは。そう考えると、やっぱり女の子の方が良いかもね」
「ええ? 最初はやはり男の子を産んでくれよ」
「バカね。わたしにそんなの選べるわけないでしょうが」
房子がそう言って苦笑すると、隆家は房子の腹に顔を当て、中の子供に向かって囁いた。
「男だぞ。絶対に男で生まれてくるんだぞ」
「バカね」
房子は再び苦笑した。
長保三(1001)年十一月十八日、またもや内裏が火災で焼失した。一条天皇は定子がいっとき住んでいた《職御曹司》を仮の御所とした。一条天皇はそうしたかった。定子を感じられる場所にいたかった。しかし、《職御曹司》はどうしても手狭であり、仕方なく一条天皇は娘たちや御匣殿と共に一条院へ移り、以前のようにそこを仮の御所にした。もちろん彰子と敦康も一条院へ移った。
年末になり、詮子の病状はいよいよ危うくなってきた。道長は最後の望みを託して恩赦を施し、伊周を正三位に戻した。正三位といっても役職は無く、宮中への出入り禁止なのは変わらないが、こうする事で道隆の怨霊を追い払い、詮子の延命を図れないかと期待したのである。結果は期待外れで、詮子は重体に陥った。死の床で詮子は道長に語り掛けた。
「伊周に恩赦を施しても無駄だったようね」
「申し訳ありません、姉上」
そう言って道長は悔しそうに頭を下げた。
「いいんだよ。おまえはわたしの為によく働いてくれた。おまえは本当に良い弟だよ」
「私なんぞにもったいないお言葉です、姉上」
「そんな最愛の弟に、今から最後の教えを授けるから、よくお聞き」
「最後だなんて言わないでくださいよ、姉上」
「鬼になれ、道長」
「へ?」
道長は詮子の言葉に一瞬体が固まった。
「結局、情けをかけても恨みは消えないのさ。どのみち一生憎まれ続ける運命なのさ。それなら心を鬼にして、とことん恨まれてやりなよ。ほとけ心を抱いても、感謝されるどころか、足元を掬われるだけだよ。非情に徹しな。徹底的に憎まれてやりな。鬼になりな。邪になりな・・・これがわたしの遺言だよ」
そう言い終わると詮子は静かに息を引き取った。本作ではさんざん意地悪婆さんのように描いてきたが、実は享年四十歳。時代が違うとは言え、意外と若かったのに驚く。十二月二十二日に亡くなった詮子は、二十四日に定子と同じく鳥辺野に埋葬された。葬儀に参列した道長の首には詮子の遺骨がかけられていた。




