第34章 鳥辺野
十六日の朝方、定子の身に重大な何かが起きたらしいという情報をいち早く聞きつけた藤原行成は、大慌てで内裏へ向かった。一条天皇は駆けつけた行成を見るや、顔をぐにゃりと歪ませ、それまで見た事の無い悲痛な表情で
「皇后が死んだよ。定子が死んじゃったんだよ」
と慟哭し、その場に泣き崩れた。
「定子、可哀想に。さぞ心細かった事だろうに、定子・・・」
そう言って泣き続ける一条天皇の前で、行成は呆然と立ちつくした。定子が一条天皇に嫁いでから、およそ十一年。その間、行成はしょっちゅう定子のいた登華殿(梅壺)や《職御曹司》へおじゃまして、定子や清少納言と親しく接してきた。行成は定子が作り上げたサロンの雰囲気が大好きだった。それは陽気で、知的で、機智に富んでいて、ちっともかた苦しいところのない、のびのびした自由な空間だった。その中で行成は知見を深め、自分を成長させた。行成にとって定子のサロンは、言わば学校だった、定子が校長先生で清少納言が教頭先生という感じの。そんな大恩ある定子を自分は裏切ってしまった・・・その思いが行成を苦しめた。
(大臣が提案した二后並立案に俺は賛成した。弓削道鏡の天皇即位を阻止した和気清麻呂気取りで、得意げに正論を弁じて・・・あの時はまさか皇后さまがお亡くなりになるとは思っていなかった・・・もし分かっていたら絶対に反対しただろう、陛下の正室は唯お一人しか認められません、それは定子皇后さまですと言って・・・皇后さまには申し訳ない事をした・・・俺は大臣に気に入られようとして日和った・・・悔やんでも悔やみきれない・・・お許しください、皇后さま・・・)
定子崩御の知らせは土御門殿へもすぐに届いた。
「やはり晴明の言う通りになったか・・・」
道長はそう呟くと不安そうな表情を浮かべた。一条天皇から大至急参内するようにとの言伝が来たが、その少し前から体調を崩していた詮子の看病に忙しいという理由で、道長は土御門殿から動こうとしなかった。道長は何かを恐れていた。そして、その恐れは現実のものとなる。
侍女たちの悲鳴が聞こえたので道長が部屋の外に出て周りを見回すと、長い廊下の先から髪を逆立て、振り乱し、鬼の形相をした異様な女が何かを喚きながら走って来た。よく見ると、それは詮子の看病の手伝いに来ていた、亡き実兄・道兼の側室であり、一条天皇の乳母であり、雨の夜に定子と一条天皇の策略にまんまと騙された事のある繁子だった。
正気を失った繁子は道長につかみかかり、白目を剥いた恐ろしい顔で、
「この恨み、晴らさずにはいられようか」
と叫んだ。その声は女の声ではなかった。道長には道隆の声に聞こえた。
「定子が死んだのは貴様のせいだ。貴様が定子を殺したのだ。その仕返しに俺が貴様を殺してやる。呪い殺してやる」
道隆はそう言っていた。そう聞こえた。道長にはそれがはっきりと分かった。世界がグルグル回り始め、闇の中に潜む忌まわしいものたちが一斉に道長の内部に侵入してきた。
「やめろ! 俺じゃない! 俺が殺したんじゃない!」
道長はそう叫んで卒倒した。繁子と道長の介抱で土御門殿はてんやわんやの大騒ぎになった。道長は高熱を出して寝込んだ。すぐさま安倍晴明が呼ばれ、道長に取り憑いた怨霊を追い払うべく怪しげな呪文を唱えたが、道長は意識不明のまま悪夢にうなされていた。
「兄上、許してくれ。でも、俺じゃない。俺が殺したんじゃないんだ。本当だよ、兄上」
生前の定子は、よく御帳台と呼ばれる四方に帳を垂らした座所に籠って和歌を考えたり、書道の練習をしたりしていた。定子の遺品を整理していた清少納言は、その御帳台の帳の紐に折り畳んだ紙が結びつけられているのを発見した。紙を広げてみると定子の字で三首の和歌が記されていた。
「よもすがら 契りしことを わすれずは 恋ひん涙の 色ぞゆかしき」
「知る人も なき別れ路に 今はとて 心細くも 急ぎたつかな」
「煙とも 雲ともならぬ 身なりとも 草葉の露を それと眺めよ」
一番目の歌で一条天皇との生前の楽しい日々を懐かしみ、二番目の歌で死の国へ旅立つ覚悟を表明し、三番目の歌で死後の自分の有り様を表現しているようだった。
(遺書だわ、これは。辞世の歌だわ、皇后さまの)
そう考えた清少納言は伊周と隆家にこの内容を伝えると共に、現物の紙は行成に託して一条天皇に届けさせた。一番目の歌を読んだ一条天皇は、定子との愛の日々を思い浮かべて号泣した。三番目の歌を読んだ伊周は、定子が土葬を希望していると解釈した。当時はすでに火葬が一般的な埋葬方法になっていたが、伊周の解釈を採用して定子は土葬される事になった。
長保二(1000)年十二月二十七日の夜、雪がこんこんと降りしきる中、伊周と隆家ら中関白家の人々によって定子の葬儀は粛々と執り行われ、遺体は鳥辺野の墓所に土葬された。本当は葬儀に行きたくて仕方ないが、立場上行く事が許されない一条天皇は、その夜は眠ろうとせず、行成に
「今夜だな」
とだけ言って一晩中、定子を思って涙声で読経した。読経の合間に一条天皇が詠んだ歌がこれである。
「野辺までに 心ばかりは 通へども 我が御幸とも 知らずやあらん」
降りしきる「深雪」と「御幸」をかけた、一条天皇の心が定子と共にあるのがよく分かる歌である。
定子が自分の命と引き換えに産んだ娘は媄子と名付けられた。一条天皇は脩子、敦康、媄子を内裏に引き取った、定子が産んでくれた最愛の我が子は自分が立派に育てるんだという強い決意を持って。子供たちは慣れない環境に放り込まれるが、幸い御匣殿が母親代わりとして一緒に付いて来てくれる事になったので一条天皇は安心し、彼女に感謝した。
それでは定子のもう一人の側近、清少納言はどうしたかと言うと、彼女はきっぱり辞職した。隆家は慰留したが、
「皇后さまのいない宮中に、わたしの居場所はありませんから」
と断られた。自分が仕える主人は定子ただ一人という清少納言の信念をよく理解していた隆家は、それ以上無理に引き留めなかった。ただ行成は清少納言との別れをひどく惜しみ、手紙のやりとりをする約束を半ば強引に結んだ。さらに行成はこうも清少納言にお願いした。
「『枕草子』はこれからも書き続けてくれるんですよね? これで終わりじゃ嫌ですよ。必ず続きを書いてくださいね、『枕草子』の」
すでに『枕草子』は貴族社会でベストセラーとなり、広く愛読されていた。行成はその文学的価値を高く評価していたので、これっきりおしまいになるのを惜しがり、そう切望したのである。清少納言は『枕草子』に関して明言を避けたまま静かに去っていった。
その後、清少納言は摂津守であった藤原棟世の後妻となり、しばらく摂津国(現在の大阪府)に住んでいた。棟世との間に一女をもうけている。その間も清少納言は行成や他の文化人たちと文通をし、断続的に『枕草子』の続きを書き続けた。
二十歳ほど年上だったらしい棟世が早々に亡くなると、清少納言は出家し、定子が埋葬された鳥辺野に近い東山の月輪に小さな庵を結び、娘と一緒に暮らした。成長した清少納言の娘は《上東院小馬命婦》と呼ばれる歌人となり、彰子に仕えた。娘が彰子に仕える事に関して、清少納言に異存は無かった。娘は娘、わたしはわたし、お互い好きな人生を後悔のないよう思いっきり生きれば良い、という心境だったのであろう。
長い歳月が過ぎたある日、清少納言の庵の前を二人の若い貴族が通りかかり、一人が庵を指さしてこう言った。
「あ、ここだ。確かここだよ、むかし宮中で名声の高かった清少納言というおばさんが住んでいるのは」
「え? ここがあの有名な清少納言の住まいなのか?」
あまりにも粗末な庵を見て、もう一人が驚きの声を上げた。
「そうだよ。間違いない」
「うーん、そっかぁ。人間、落ちぶれたくないものだなぁ」
「本当にそうだな。いくら若い頃は華やかな生活をしていても、年を取って落ちぶれるのはみじめだよな」
すると突然、庵の戸が勢いよく開き、中から鬼の形相をした老尼が飛び出して来て
「コラー、おまえら、駿馬は骨だけでも価値があるのを知らんのか!」
と怒鳴りつけた。
二人の若い貴族はその剣幕に恐れをなし、悲鳴を上げて逃げ去った。その背中に向かって尼が毒づいた。
「へん! おととい来やがれ!」
この尼が清少納言である。年を取っても鼻っ柱の強さと才気煥発さは健在だった。清少納言がいつ亡くなったのかは分からない。定子の御陵のそばでひっそりと生涯を終えたものと思われる。
定子の死と共に清少納言は表舞台から姿を消したが、では後年、彼女のライバルと目される事になる紫式部は、このころ何をしていたかと言うと・・・花山天皇の時代に式部大丞となった歌人・藤原為時の娘として、紫式部は天禄元(970)年に生まれたと推定されている。幼い頃から頭脳明晰であり、為時が跡継ぎ息子(紫式部の兄・惟規)に漢籍を教えてもさっぱり憶えないのに、横でただ聞いていただけの娘(紫式部)が全部まる暗記してしまったものだから、
「おまえが男に生まれていれば良かったのに」
と悔しがったのは『紫式部日記』に載る有名なエピソードである。
その後、紫式部は丹後国(現在の京都府北部)の受領となった為時と共に数年間を丹後で過ごした。二十八歳の時、親子ほど年齢が離れた藤原宣孝と結婚し、賢子という娘を産んだ。賢子は後に《大弐三位》と呼ばれる歌人になる。年上の夫とは定子が亡くなった翌年の長保三(1001)年六月に死別する。『紫式部日記』によれば、宣孝の死の直後から、夫を失った喪失感、心の空洞を埋める為、物語の好きな数人の友人と文通しながら『源氏物語』を書き始めたらしい。それゆえ、この物語は、ちょうど紫式部が『源氏物語』を書き始める直前の時期まで進行したと考えて頂きたい。




