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さがな者隆家  作者: ふじまる
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第33章 定子崩御

 大方の予想通り定子さだこは妊娠していた。一条天皇の三人目の子供をお腹に宿したのである。隆家と伊周これちかは大喜びだった。誰からも相手にされず孤独で寂しい伊周は、このところよく三条の宮を訪れるようになっていた。だが、落ちぶれた人間の暗さを前面に出されて気が滅入るし、子供たちもなつかなかったので、定子は様々な理由をでっち上げて追い返す事が多かった。

 妊娠が発覚した時、定子は僧侶に安産の祈祷をお願いしようと思ったが、名のある僧たちは道長に睨まれるのを恐れて協力しようとしなかった。憤慨した隆家が「あいつら、ぶん殴ってやる」と息巻いていたところ、仏門にいる弟の隆円たかまろ

「まぁまぁ、兄さん、私がやりますから、そう怒らないでください」

 穏やかにそう宥めて、実際に隆円が安産の祈祷をおこなった。定子の妊娠は三度目だが、今回はこれまで以上につわりがひどく、肉体的につらそうだった。御匣殿みくしげどの敦康あつやす脩子ながこの世話をしながら献身的に定子の面倒もみていた。このように中関白家では、頼りにならない長男を除いた兄弟姉妹が一丸となって、襲い掛かって来る難局を跳ね退けのけるべく奮闘していたのである。

 長保二(1000)年五月五日、定子は三条の宮で菖蒲しょうぶの節句を催した。若い女房たちや御匣殿が楽しそうに縁起ものである薬玉を作り、脩子や敦康の着物に結びつけて邪気を追い払うよう祈った。

 朝廷から届いたお祝いの品の中に《青ざし》という青麦の粉で作った菓子があった。つわりで苦しむ定子は食欲を失くしていたが、この珍しい菓子なら食べてもらえるかと思って清少納言が差し出してみたところ、定子はささっと紙にこう書いて寄こした。

「みな人の 花や蝶やと いそぐ日も わが心をば 君ぞ知りける」

 菖蒲の節句で慌ただしい中、わたしの事を気遣ってくれてありがとう、という意味である。

「すぐに即興でこれほどの句が詠めるとは、さすがは皇后さまです」

 と、清少納言が褒めると定子は苦笑した。

「ついこの間まで中宮だったので、皇后と呼ばれると照れるわね。たとえ同じ意味であっても」

 このように定子の周囲は概ね平穏だったが、社会では再び疫病が猛威を振るい始めており、何と道長が三度目の感染をした。

「んまぁ、よく感染するわねぇ、この人は」

 と家族の者が呆れたかどうかは知る由も無いが、病床に伏した道長は今度こそ本当にお陀仏だと観念し、五月十八日に辞表を提出したが、一条天皇によって保留された。

 道長の病気を知った伊周は狂喜し、

「よーし、来たあああ。さっさとくたばりやがれ、道長!」

 神にも仏にもそう祈ったが、隆家の方は冷静に

「あいつは運が強いから、今度も死なねえよ」

 と言った。隆家の予想通り、今回も道長は死の淵から生還した。ただし、すっかり体力が衰えたので、当分の間は土御門殿つちみかどどので養生しながら政務を執ることにした。その土御門殿へは道長に気に入られようとして見舞い客が殺到したが、彼らの多くが疫病に感染した。さらには土御門殿に同居する詮子あきこも疫病に感染した。一条天皇は興福寺の僧侶を集めて病気快癒の読経をさせた。

 彰子あきこが見舞いのため実家である土御門殿へ里帰りすると、八月八日、一条天皇はすぐさま定子を一条院へ呼び寄せた。このとき定子は妊娠六ヶ月目であり、本来ケガレを嫌う内裏へは入れないはずだが、一条天皇は強行した。それくらい一条天皇は定子と子供たちに会いたくて仕方なかったのである。

 一条天皇が待ちに待った一家団欒の楽しい生活が再び始まった。幸せな日々の中、一条天皇はふと思う事があった、このまま彰子が戻って来なければ良いのに、と。土御門殿で疫病に感染して父娘共々亡くなってしまえば良いのに、と。しかし、心の優しい一条天皇は、すぐにその罰当たりな考えを戒め反省するのだった。いかん、いかん、こんな不道徳な事を考えていたらダメだ。道長はともかく彰子には何の罪も無いのだから。彰子は右も左も分からない状態で私のところへ嫁がされてきたのだから。考えてみれば彰子だって犠牲者なのだ。死ねば良いなんて考えたら彰子が可哀想だ。悪い事は何もしていないのだから・・・ただ、もう少し長く定子や子供たちと一緒にいられたら・・・それだけなのだがなぁ、私のささやかな願いは・・・

 定子は一条天皇と毎晩ふたりっきりの甘い時間を過ごしたが、昼間は皇后としての職責をきちんと果たしており、一例を挙げれば大宰府に滞在中の宋の商人に関するトラブルについて「詳しく調査した上で対処するように」と毅然とした態度で行成ゆきなりに指示した記録が残っている。

 定子、脩子、敦康、そしてお付きの御匣殿と清少納言・・・一条天皇が彼らと共に過ごした幸福な時間は瞬く間に過ぎ、八月二十七日、定子一行は三条の宮へ帰っていった。二十日あまりの滞在だった。定子がいなくなると、すぐに彰子が戻ってきた。

(いつまで続けなければならないのだろう、この無意味でバカらしい交替制度を)

 一条天皇はそう思ってため息をついた。

 三条の宮に戻った後、気が抜けて疲れがどっと出たのか、再び定子の体調が悪くなった。定子は毎日つらそうな様子で過ごしていた。十月一日に一条天皇が再建された内裏へ戻ったので、清少納言が定子を元気づけようとして

「新しくなった内裏はどうなっているのでしょうね? 次に行くのが楽しみですね。新しいお子さまが産まれたら、すぐに戻りましょうね」

 と言うと、定子はしばしの沈黙の後、気だるそうにこう呟いた。

「わたしが内裏へ戻る日が再び来るかしら?」

「何を仰います、皇后さま。お気を確かにお持ちください。皇后さまは、ほんらい陛下と共に内裏へお住みになる方なのですよ」

 清少納言がムキになってそう言うと、定子は微笑した。

「父上と母上は一緒に暮らして、毎日笑ったり、泣いたり、ケンカしたりしていらしたけど、なぜわたしたち夫婦にはそういう当たり前の日常が許されないのかしらね?」

「それは・・・畏れながらお立場が違いますから・・・」

「わたしも普通の夫婦が良かったな・・・いつも一緒にいられる普通の夫婦が・・・」

 定子の言葉に清少納言は何も言い返せなかった。

 人間には自分の死期が分かるのであろうか? 命の種が尽き果てようとしているのを感じる事が出来るのであろうか? この頃から定子は自分の命運を悟っていたらしく、密かに辞世の歌をしたため、御匣殿をそばへ呼んでは小声でこう頼んだ。

「もしわたしに万が一の事があったら、子供たちを頼むわね。子供たちを託せる相手は、わたしには幸子さちこしかいないから」

 ビックリした御匣殿はたちまち無言のまま涙目になったが、それを見て定子は

「嫌ねぇ、万が一の場合の話よ。何事も備えあれば憂いなしって言うでしょ?」

 と笑って誤魔化した。

 秋の月をぼんやり眺めている定子の横顔を見て、清少納言は心の底から美しいと思った。いや、美しすぎた、怖いくらいに。この異常な美しさは何だろう? まるで炎が消える前の最後の輝きみたいだ。もうすぐ皇后さまは月へ行っておしまいになるのだろうか、あのかぐや姫のように。まさか・・・清少納言は胸騒ぎがしてしょうがなかった。何事も無く無事に済みますように・・・清少納言は毎日そう祈った。しかし、十二月に入ると、月をはさんで東西にふた筋の雲がかかった。清少納言は不吉な何かを感じて体の震えが止まらなかった。同じくその月に不吉な予兆を読み取ったのは、土御門殿を訪れていた安倍晴明あべのせいめいである。

「あれをご覧ください。月の左右に不祥の雲がかかっております。あれは王の后に凶事が起きるしるしです」

 この頃にはもう体調がすっかり回復していた道長は、晴明に月を指し示されながらそう説明されて少し困惑した。

「王の后って誰の事だ? なにしろたくさんおるからな。うちの彰子だってその中の一人だし」

 すると晴明はズバリと断定した。

「皇后さまの事でございます」

「定子か? 定子の事か? 定子が流産するとでも言うのか?」

「それ以上の事が起きるかもしれません」

「何と」

 さすがの道長も動揺した。もしそういう最悪の事態になれば、奴らの怨念が全部わしのところへやって来るだろう。わしを恨んで呪い殺そうとするだろう。だが、わしは定子の死までは望んでおらんぞ。本当だ。いくら何でもそこまでは・・・若い頃は隆家なみのやんちゃ坊主で、友人を官吏登用試験に合格させるため試験官を拉致監禁して暴行に及ぶという事件を起こしたり、道隆ら実兄に対して肝っ玉が据わっているところをさんざん見せつけてきた道長であったが、三度の大病を経た後は気弱になり、怨霊や物の怪の類いをひどく恐れるようになっていた。

 長保二(1000)年十二月十五日、定子は産気づいた。三条の宮のいちばん奥にある定子の寝室には、薬師や産婆、侍女たち、そして御匣殿と清少納言が入り、出産に備えた。伊周と隆家は別室に控えて出産の時を待った。たいへんな難産だった。御匣殿はずっと苦しむ定子の手を握って無言で応援していた。逆に清少納言は「皇后さま、しっかり」と言葉に出して励ましていた。さんざん苦しんだ末に、深夜、日付が変わる直前になって定子はようやく出産した。生まれてきたのは女の子だった。生まれたばかりの赤子を見た定子は、汗だくの顔でにっこりと満足気に微笑み、そのまま静かに目を閉じた。

 次は後産である。その前に一息ついてもらおうとして、御匣殿が薬湯を定子の口元へ持っていったところ、飲む気配が無い。それどころか定子は息をしていなかった。名状し難い恐怖を覚えた御匣殿は、精一杯の声を振り絞って「姉上!」と叫んだ。異変に気づいた清少納言も慌てて定子に呼びかけたが、返事は無かった。薬師や産婆が懸命に蘇生を試みたものの、定子が息を吹き返す事はなかった。定子は日付が変わった十六日の未明に死んだ。享年二十三歳。あまりにも早すぎる死だった。

 別室に控えていた伊周と隆家は、定子の死を知らされて動揺した。伊周はすぐさま寝室へ駆け込み、定子の遺体にすがりついて泣いた。みっともないくらい大声でおいおい泣いた。定子は伊周にとって唯一の希望だった。その希望を失った伊周は絶望のどん底へ叩き落とされ、もはや泣くしかなかった。御匣殿と清少納言も顔を伏せてしくしく泣いていた。他の侍女たちも。隆家は泣かなかったが、何かにじっと耐えているような厳しい表情で定子の遺体を見つめていた。

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