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さがな者隆家  作者: ふじまる
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第28章 職御曹司

 定子さだこの新たな住居となった《職御曹司しきのみぞうし》は暗く、古く、鬼が棲むとも噂される不気味な建物で、御所の敷地内にあるものの、内裏の外に位置していて、とても中宮の住処に相応しい場所とは言えなかった。

 なぜこんなところに一条天皇は定子を住まわせたのかというと、定子を内裏へ戻す事への公卿たちの反撥が強かったからである。実際、藤原実資ふじわらのさねすけは自分の日記『小右記しょうゆうき』に「天下甘心せず」と書いている。出家したと言う事は人間世界を離れて仏の弟子になったという意味であるから、とうぜん夫婦関係は解消され、定子の中宮としての身分は消滅したと考えるのがスジである。ましてや天皇と共に神事をつかさどる中宮が、仏にも仕える身であるなどという事は、とうてい認められるものではない・・・というのが公卿たちの主張であった。これに対して隆家や清少納言は「定子は正式な受戒を受けていないから、まだ出家してはいない」と声高に主張していたが、そんなのは自分勝手な詭弁にすぎないと一蹴されていた。定子を心から愛し、定子と絶対に離れたくない一条天皇は、両者の主張を無視せぬギリギリの折衷案として、定子を内裏の外にある《職御曹司》に住まわせる事にしたのである。

 そういうわけで一種の日陰者の境遇にあったが、それでも定子はいつものように陽気に振る舞っていたし、また清少納言を初めとして美人の才媛が揃っていると評判の定子付きの女房のところへは、若い公卿がさかんにナンパしにやって来た。

 女乞食が野良犬のようにふらりと紛れ込んで来た事もあり、その女乞食が卑猥な歌と踊りを披露すると、女房たちは恥ずかしがりながらもキャーキャー騒いで喜んだ。このように、定子が来てから《職御曹司》は、それまでの暗雲たちこめる陰鬱な雰囲気はどこへやら、まるで台風一過の青空のように、常にワイワイ、ガヤガヤ、明るく賑やかな場所に変わった。久しぶりに定子の周囲には幸せで平穏な日々が戻った。

《職御曹司》に来てからも清少納言は『枕草子』の執筆を続け、断続的に発表していた。『枕草子』は貴族の間で評判となり、定子に対する評価を上げるのに寄与した。

 その清少納言を、このころ熱心に口説いていたのが、若手のホープと目されていた蔵人頭の藤原行成ふじわらのゆきなりである。後に《三蹟さんせき》の一人として讃えられる能書家であり、常日頃から「士ハ己ヲ知ル者ノ為ニ死シ、女ハ己ヲ説ブ者ノ為ニ容ツクル」など『史記』の一節を口ずさむほど中国の古典に造詣が深い行成は、以前書いた通り清少納言より六歳年下であったが、ずっと《年上の素敵なお姉さま》である清少納言に思慕の念を抱き続けていた。

 他の女房たちは、小太りで、童顔で、地味な性格の、とっちゃん坊やみたいな行成を半ばバカにしていたが、清少納言だけは行成の底知れぬ異能を感じ取っていたので、定子に「あれは只者ではありませんよ」そう耳打ちすると、さすがに人を見る目がある定子は「わたしもそう思っていました」と同意した。ただ、いくら慕われようとも、弟のような行成は清少納言にとって恋愛の対象にはならず、

「遠つ近江の浜柳のように、つかず離れずの関係でいましょうね」

 と軽くあしらっていたが、諦めきれない粘着質の行成は、ちょくせつ定子に話せば良い時でも、わざわざ清少納言に取次を頼んで二人の接触時間を増やすなど、今で言うストーカーのように付きまとっていた。そんな行成と清少納言が、ある日、夜遅くまで談笑していると、行成が急に

「あ、いけね、明日は朝から重要な仕事があるんだった。悪いけど今夜はこれで失礼します」

 そう言ってあたふたと帰って行った事があった。翌朝、行成から清少納言宛にお詫びの手紙が届いた。

「昨夜はアネゴと夜通し語り明かせると喜んでおりましたのに、鶏の声に急き立てられて帰ってしまい、誠に申し訳ありませんでした」

《鶏の声に急き立てられて》というのは、愛し合った恋人同士が朝になって別れを惜しむ時に使う言葉である。

(これじゃまるでわたしと行成が男女の関係であるみたいじゃないのよ。冗談じゃないわ。何をいい男ぶっているのかしら、あのとっちゃん坊やは)

 と呆れた清少納言は、行成が好む『史記』の中に孟嘗君もうしょうくんが鶏の鳴き真似をして函谷関かんこくかんを通った故事があるのを思い出し、こう返事を書いて送った。

「その鳴いたという鶏は、孟嘗君の鶏みたいに早く帰りたいあなたの鳴き真似だったんじゃないの?」

 すぐに行成から返事が届いた。

「さすがの教養ですねぇ、アネゴ。でも、ゆうべの関所は函谷関ではないのです。私とアネゴの逢坂おうさかせきなのですよ。むふふん」

 色気づきやがって、こいつ。バッカじゃねえの・・・と、清少納言は苦笑しながらも、今度は和歌を詠んで送った。『百人一首』に採用された清少納言の代表作である。

「夜をこめて 鳥のそら音に はかるとも 世に逢坂の 関はゆるさじ」

 函谷関の関守のように易々と騙されて、あなたに身を許すわたしではないのよ、という意味である。しかも清少納言は、わざわざご丁寧に「しっかり者の関守が付いておりますからね」とまで書き添えていたから、余程その気が無かったのであろう。しかし、行成はこの程度の仕打ちにめげるようなヤワな男ではなかった。行成の返歌はこうだった。

「逢坂は 人越えやすき 関なれば 鳥鳴かぬにも あけて待つとか」

 えー? 鳥が鳴かなくても戸を開けて待ってくれているんじゃないんですか、アネゴは?・・・という意味である。ちゃかしてはいるものの、なかなかエスプリの効いた見事な返歌である。清少納言も「やるじゃないの、行成」と感心し、これを上回る上手い文句が思い浮かばなかったので行成に返歌を送れず、ひどく悔しがった。

 この行成と清少納言によるしゃれた手紙のやりとりは、定子を訪ねてきた隆円たかまろによって外部に漏れ、たちまち宮中で評判になった。

「アネゴの手紙は殿上人全員に読まれて大評判でっせ」

 ニヤニヤしながら清少納言のところへやって来た行成がそう言って笑うと、清少納言はわざとトボけて嫌味な冗談を返した。

「あっそ? あなたの手紙はあまりにもみっともなかったので、どなたにもお見せしませんでしたけど」

「心やさしいお気遣い、感謝しますよ、ア、ネ、ゴ」

「ふん、だ」

「うわっはっは」

 この時期、定子不在の内裏では二つの勢力が争っていた。それは定子が出家した隙にまんまと一条天皇の女御に滑り込んだ二組、すなわち右大臣・藤原顕光ふじわらのあきみつの娘で《承香殿女御じょうきょうでんにょうご》と呼ばれた元子もとこの一派と、大納言・藤原公季ふじわらのきんすえの娘で《弘徽殿女御こきでんにょうご》と呼ばれた義子よしこの一派である。元子と義子は「われこそが陛下の世継ぎを産むんだ!」とばかりに鼻息荒く対立していた。もし二人のうちのどちらかが皇子を産めば、将来は顕光か公季が天皇の外戚として権力を握る事になる。現在の権力者である道長にも、さすがにそれを阻止する力は無かった。すなわち、この段階においては、道長の権力基盤は未だあやふやな状態だったのである。

 長徳三(997)年十月一日、大宰府から朝廷に、筑前、築後、薩摩が謎の海賊に襲われたという驚くべき知らせがもたらされた。それ以前に朝鮮半島にある高麗からの「一緒に手を組んで大国の宋に立ち向かおう」という誘いを日本が断っていたので、高麗人の海賊が仕返しに侵略して来たのである。

 国家の一大事である。道長はただちに参議を緊急招集した。その間にも大宰府からは次々と続報が届き、それによると対馬、壱岐、肥前、肥後、大隅など九州各地で海賊によって家が焼かれ、三百名以上の人間が拉致されたという。道長が差し向けた軍勢のお陰で海賊はいったん撃退されたが、これ以降もちょくちょく海賊騒ぎが起こり、日本と大陸を結ぶ海には油断のできない緊張状態が続いた。

 この頃、元子に懐妊の兆候が表れた。その知らせを聞くや、当然の事ながら父親の藤原顕光は狂喜乱舞した。

 顕光は、弟の兼家かねいえ(道隆や道長の父)と死ぬまで反目し合っていた事でよく知られている前関白・藤原兼通ふじわらのかねみちの長男である。優秀な人材を輩出する家系だが、なぜか顕光だけ出来が悪く、実資の『小右記』には「万人に嘲笑されっぱなし」と書かれ、いとこの道長からは「バカの中のバカ」とこきおろされ、又甥の行成に至っては「顕光の無能ぶりに呆れてものが言えない」という有様だった。そんな顕光であったから、出世も弟の朝光あさてる(道隆の飲み仲間だった)に先を越されたが、その朝光を含む朝廷の主要メンバーが長徳元(995)年に疫病でごっそり亡くなってしまったので、本来なら出番の無いはずの顕光にもお鉢が回ってきたというわけである。

「よーし、男の子だ。ぜったい男の子だ。頼むぞ、元子」

 同じ藤原北家九条流でありながら、現在は兼家の子孫である道隆、道兼、道長の系統に伝承されている権力を、再び兼通の系統に、すなわち自分に戻すのだという思いで、顕光は生来の間抜け面を無理やり引き締めながら、連日連夜、男子誕生を祈祷し続けた。

 元子の妊娠は道長にも当然ある種の緊張感を与え、

(顕光の奴め。低脳のくせしやがって俺の上へ行くつもりか)

 と内心では忌々しく思いながらも、先に述べた通り、こればかりはどうしようもなく、せいぜいが「生まれてくる子が女の子でありますように」と祈るくらいしか手は無かった。 

 同年十二月、伊周これちかが播磨の国からひっそりと戻って来た。ふくよかで華やかな貴公子だった二十三歳の伊周は見る影も無く痩せこけ、うらぶれ、十歳以上老け込んだ印象だった。弁舌さわやかだった伊周が、心ここにあらずという様子で、小声でブツブツ独り言を呟いている姿を見ると、密かに面会した定子は

「兄上、おいたわしや」

 そう思って涙を禁じ得なかった。とりあえず伊周は妻の実家で静養する事になった。

 年が明け、長徳四(998)年になった。再び都では疫病流行の兆しがあった。そんな暗い世相の中でも、定子のいる《職御曹司》の面々は皆のんびりしていて、清少納言に至っては同僚たちとホトトギスを観察しに郊外へ出掛けたりしていた。

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