第25章 枕草子
定子と中関白家が《長徳の変》により壊滅状態になっていた時期、道長側のスパイだと疑われた清少納言は、同僚たちの冷たい苛めに耐えかねて休職し、都の外れで隠遁生活を送っていた。ごく親しい少人数の者にしか自分の居場所を教えなかった。少々人間不信に陥っていたからである。したがって、定子からの再三にわたる「戻っておいで」というラブコールにも応えるふんぎりがつかずにいた。
孤独に引き籠って清少納言が何をしていたかというと、実はせっせと文章を書いていた。伊周が内覧および内大臣としてブイブイいわせていた頃、定子に白い高級な紙の束をプレゼントした事があった。その紙を見た清少納言が目を輝かせて
「うわぁ、きれいな紙ですね。こんなにきれいな紙を見ると、人生がつらくて死んじゃいたいと思う時でさえも、嫌な気分をすっかり忘れる事が出来ますね」
そう言ったところ、定子が
「おや、まぁ、随分とお手軽な治療法だこと」
と笑った後、清少納言にこう尋ねた。
「この素晴らしい紙に何を書けば良いと思う? 陛下はいつも『史記』という文を清書していらっしゃるけど」
「しきというぶん? しきぶとん? それならこちらは枕が良いでしょう」
「枕? 何それ? 変なの。でも、よくよく考えてみれば、軽くて、生活感があって、構えていなくて、何となく可笑しみがあって、良いかもしれないわね。この紙を諾子さんにあげるから、いま言ったような、日常を題材にした、肩の凝らない、楽しい読み物を書いてみてよ。諾子さんならきっと面白いものが書けると思うわ」
そう言って定子から下げ渡された紙に、清少納言は心に思い浮かぶまま、あれやこれやと書き綴っていたのである。最初は自分の感性や好き嫌いを表現する短い文章から始めた。「猫は」とか「星は」とか「見ならひするもの」とか。書いていくうち次第に文章が長くなり、「春はあけぼの」のように思考の流れを書き綴れるようになると、次は中関白家での楽しかった日々が思い出され、それが無性に書きたくなった。こうして書き始められたものが、後に『枕草子』として結実したと考えるのが通説である。
清少納言が執筆の日々を送っていたある日、居場所を知っている数少ない一人である橘則光が尋ねてきた。
以前も書いたが、則光は清少納言の前夫であり、現在は蔵人として藤原斉信の部下として働いており、清少納言とは兄妹の関係であると公言していた。藤原実方が陸奥へ赴任した後、清少納言と則光は再び男女の仲になっていた。
「いやぁ、昨日は本当に参ったよ」
家に入って来るなり則光はそうぼやいた。
「どうかしたの?」
清少納言が白湯を出してそう尋ねると、則光はその白湯をグビグビと一気に飲み干し、一息ついてから語り始めた。
「斉信さまが、兄の貴様が妹の居場所を知らないわけはない。諾子はどこにいるのだ? 吐け、諾子はどこにいるのだ? と俺を厳しく問い詰めるんだよ」
「あらまぁ」
「斉信さまは、どうしてもおまえを諦めきれないみたいだ。それに中宮さまのお側を離れたのなら、ちょうど良い機会だからと、次は道長さまのご長女である彰子さまの教育係におまえを推薦して点数を稼ごうと企んでいるのだろう」
「まぁ、わたしは中宮さま以外の人にお仕えする気なんか、さらさらありませんよ」
「それは俺なんかはよく分かっているけどさぁ、斉信さまはあの通りの野心家だろう? 利用できるものは何でも利用して道長さまのご機嫌を取るつもりなのさ」
「それで、わたしの居場所は明かさなかったのでしょうね?」
「うん。もう少しで明かしそうになったけど・・・」
「けど、何?」
「いや、斉信さまがあまりにもしつこく問い詰めるものだから、さすがに俺も根負けしてしゃべりそうになったので、近くの食卓に置いてあったワカメを鷲掴みにして口の中に無理やり放り込んだんだ」
「えええ?」
「それで苦しそうに口をもぐもぐさせていたら、斉信さまが驚いた表情で、どうしたんだ、急に? とお尋ねになって・・・」
「うん、うん」
「俺が、とつぜん腹が減って我慢できなくなりました、と答えて・・・」
「はぁ?」
「斉信さまが、変な奴だなぁと呆れちゃって話がうやむやになり、何とか秘密を守り通したというわけさ。どうだ? 偉いだろう?」
「ああ、偉い、偉い。今後もそのワカメ作戦で秘密を守ってね」
清少納言は苦笑しながらそう言って則光を褒めてやった。
別の日、今度は源経房が訪問してきた。経房は、そのむかし左大臣として権勢を振るい、紫式部の『源氏物語』に登場する光源氏のモデルと目されている源高明の息子である。高明が藤原一族の陰謀により都を追われた《安和の変》が起きた安和二(969)年に生まれたのだが、姉の明子が道長の側室であったお陰で順調に出世し、現在は則光の同僚として斉信の下で働いていた。
「最近の斉信さまは絶対に諾子さんの居場所をつきとめるぞという執念を燃やしていらっしゃって、居場所を知っていると疑っている則光どのの動きには異常なほど目を光らせ、四六時中監視を怠らず、則光どのが外出でもしようものなら下人たちに後をつけさせる有様ですので、こうなるとしばらくはもう則光どのはこちらへ参上できません。そこで代わりに私がおじゃましたというわけです」
経房が訪問した経緯をそう説明すると、清少納言はさも可笑しそうに笑った。
「それは則光も災難ね」
「近くで見ていてホント可哀想になります」
「それで、あなたは大丈夫なの?」
「え? 私ですか?」
「そうよ、あなたには監視をつけられていないの?」
「私は大丈夫ですよ。諾子さんとは何の接点も無いと思われておりますから」
「則光の友人だから何の接点も無いわけはないのにね」
「則光どのは誰とでも仲良くして敵を作らない人ですから、私なんぞは単なる仕事上の付き合いだと思われているのでしょう」
「則光は昔から根っからの善人ですものね」
そう言った後、則光の人が良さそうな笑顔を思い浮かべて清少納言がボーッと物思いに耽っていると、ヤボな経房がその沈黙の時間を破った。
「それでね、諾子さん、私が今日お伺いしたのは、中宮さまの最近のご様子をお伝えしようと思ったからなのですよ」
中宮と聞くや、清少納言はハッとして我に返った。
「え? 中宮さま? 中宮さまはお元気にしていらっしゃるの?」
「それがですね、このあいだも用事があって中宮さまのところへお伺いしたのですけど、現在の中宮御所である小二条殿は狭くて、古くて、うらぶれていて、《梅壺》の華やかな様子を知っている私なんぞは何だかお気の毒な気持ちになるのですよ」
そう言って経房はため息をついた。
「あ、そうなんだ」
と、清少納言も表情を曇らせた。
「しかしながら中宮さまご自身は相変わらず意気盛んでして、いま思えば草を刈ってくれる下男もいないほど困窮なさっていたからでしょうけど、その時は何も考えずに庭が草ボウボウになっていたものですから、不躾ながら私がなぜ草を刈らせないのですかとお尋ねしたのですよ。そうしたら中宮さまがこうおっしゃるではありませんか。草の葉に残る露を眺めるのもまた一興なのよ、と。痩せ我慢にも品がある。さすがは我らの中宮さまだと感心した次第です」
「お可哀想に・・・」
「そう、お可哀想なのです。現在の中宮さまは決して恵まれた生活をしていらっしゃらないので、こういうに時こそ諾子さんに側にいて欲しいみたいなのですよ」
経房がそう熱く語ると、清少納言は自信なさげにうつむいた。
「でも、わたしは道長さま派だと思われて、皆さんから嫌われておりますから・・・」
「道長さま派の人間が斉信さまを避けるわけがありませんがな。もう誤解は解けているのです。ですから・・・ん? これは何だ?」
そこで初めて経房は、部屋の隅に無造作に置かれていた数十枚の紙に気づき、それらを拾い上げた。
「あ、いや、それは何でもないんです」
清少納言が慌てて取り返そうとしたが経房は返さず、その場でざっと目を通した。それは清少納言が定子から貰った紙に書き留めておいた『枕草子』の第一稿と呼ぶべき代物だった。
「面白いですねぇ・・・実に面白い・・・これほど感性豊かな文章を読んだのは生まれて初めてです」
『枕草子』をいっぺんで気に入った経房は、「ダメよ。これはダメですって」そう言って嫌がる清少納言を「まぁまぁ、必ずお返し致しますから」と無理やり説得し、紙の束を持ち帰っていった。
数日後、定子から新しい紙が届けられた。持ち帰った『枕草子』を経房はさっそく定子に見せたらしい。定子は『枕草子』をとても気に入り、「もっと書け」とばかりに紙を贈ってくれたのである。清少納言は贈られたまっ白い紙から定子の「戻ってきて欲しい」という無言のメッセージを感じ取っていたが、それでも出仕する決心がつかずにいた。
すると定子から再び手紙が届いた。手紙には山吹の花びらが同封されており、ただ「言はで思ふぞ」とだけ書いてあった。『古今和歌集』に収録された二首の有名な和歌が、すぐに清少納言の頭に思い浮かんだ。すなわち
「山吹の 花色衣 ぬしや誰 問へど答えず くちなしにして」
「心には 下行く水の 湧き返り 言はで思ふぞ 言ふにまされる」
二首の和歌を合せて解釈すると、おそらく
「クチナシの染料で染める山吹色みたいに、あなたは口なしで何も言って来ないけど、口にださずに想う気持ちは、口に出して言う気持ちに勝るので、きっと心の中で強くわたしを想ってくれているのでしょう。ちゃんと分かっているから戻ってきてね、諾子さん」
こういう意味であろう。それにしてもしゃれたお誘いだ。中宮さまがわたしの出仕を切望なさっている・・・ようやく決心がついた清少納言はおずおずと出仕した。すると定子は女房の中に混じっている清少納言を目ざとく見つけて、
「あそこに控えている、あれは新人か?」
と嬉しそうな声で冗談を飛ばした。それから清少納言を近くへ呼び寄せ、
「やはり諾子さんが側にいてくれないと心が落ち着かないわ」
そう言って清少納言に向かって微笑んだ。清少納言は以前と少しも変わらぬ定子の姿に安心して、こちらもにっこり微笑み返した。




