第20章 氏長者の証し
長徳元(995)年七月二十四日、宮中に参議が集まり、国の重要事項に関する会議を行った。議長は右大臣である道長が務め、内大臣の伊周はもちろん、藤原実資も出席していた。
会議が始まった時から伊周はムスッと黙ったままで一言もしゃべらなかった。伊周には、内大臣就任記念競射大会の時に見せた道長の勝ち誇った憎々しい笑顔、さらに詮子の石山寺参拝の際、馬上より見下ろしながら自分に恥をかかせた時に見せた道長の侮蔑した顔が脳裏から離れなかった。大嫌いな道長と同じ部屋にいて、しかもすぐ近くの席に座り、同じ空気を吸っていると思うだけで腹立たしく、屈辱的であり、殺してやりたい気持ちで内臓が破裂しそうになっていたが、伊周は何とかそれをグッと我慢し、反撃のチャンスを窺っていた。そのチャンスは案外早くやって来た。会議の途中で道長が
「ところで、内大臣どの」
と、伊周に穏やかな口調で話かけてきたのである。
「お陰さまで不肖この道長は、ありがたくも陛下から内覧そして右大臣という役職に任命して頂き、我が藤原一族の長者となりました。そこで亡き兄上のところに未だ保管中であるという話の、氏長者の証しである所領帳と朱器台盤を、当方へお渡し願いたいのですが」
氏長者という言葉にいきり立った伊周は憮然とした表情で、
「誰が氏長者だって?」
と訊き返した。道長はにこやかに微笑みながらも堂々と答えた。
「私ですが」
伊周はムッとした表情で道長を睨みつけた。
「誰が決めたんだよ、そんな話?」
すでにケンカ腰の伊周に対して、道長はあくまでも冷静であり、良識ある態度を崩さなかった。
「誰がと申されましても、藤原一族の中で最高位にある私が氏長者であるのが当然だと思いますけど」
「あんたのどこが最高位なんだよ?」
「私は内覧であり、右大臣です」
「俺だって内覧だし、内大臣だろうが」
「失礼ながら内大臣どのが内覧であったのは以前の話であり、現在の内覧は私ひとりです。また、右大臣は内大臣より序列が上です」
「そうは言っても、あんたは関白じゃねえ」
「は?」
「関白でない以上、右大臣も内大臣も同じだと言ってるんだよ」
伊周の勝手な言い分に道長は呆れた顔をした。
「それは些か無理な理屈ではないでしょうか?」
「とにかく氏長者になれるのは関白だけだ。だから前関白の我が家が依然として氏長者のままだ」
伊周にそう言われ、道長は苦笑した。
「これはまたおかしな事をおっしゃる。その理屈からすれば、氏長者は亡き次兄の家という事になりませんか?」
「道兼叔父は関白になる前に死んだから関白ではない」
「兄は関白宣下を受けたのですよ」
「でも、実際には働いていないから関白とは認められない」
「これは、これは・・・」
道長は駄々っ子を持て余して困っている父親のような困惑した表情で周りを見回したが、他の参議たちは「われ関せず」という様子で目を伏せたまま沈黙していた。
「あのですね、内大臣どの、いずれにせよ現在は関白職が空席である以上、最高位の私が氏長者です。ですから所領帳と朱器台盤をお渡しください」
「嫌だ」
「嫌だとはどういう意味でしょうか?」
「おまえには所領帳と朱器台盤を渡さないという意味だ」
「それでは、あなたは藤原一族の宝を横領なさるおつもりですか?」
「横領だと?」
伊周は今度は横領という言葉にいきり立った。
「横領したのはてめえの方じゃねえか、道長!」
名前を呼び捨てにされ、さすがの道長も堪忍袋の緒がブチ切れた。
「若輩者の分際で藤原家の氏長者を呼び捨てにするとは何事だ!」
「泥棒には呼び捨てで充分だ」
「伊周、貴様まだ俺を侮辱するつもりか!」
怒った道長は中腰になった。負けじと伊周も中腰になり、二人は険悪な雰囲気で睨み合った。
「泥棒に泥棒と言って何が悪いんだよ、道長?」
「こちらが我慢していれば、いい気になりおって。伊周、俺のどこが泥棒なのか言ってみろ!」
「俺から内覧の地位を盗んだじゃねえか」
「あれは陛下が任命してくだされたのだろうが」
「てめえが東三条院のババァとグルになって内覧の地位を簒奪したのは、とっくの昔にお見通しなんだよ、こちとらは」
「ふざけるな。どこにそんな証拠があるんだ?」
「証拠を残さないのが、いつもお得意の手じゃねえか」
「この負け犬が!」
「反則勝ちの卑怯者!」
「貴様、殺されたいのか?」
「おう、やれるものならやってみやがれ!」
あわや道長と伊周が掴み合いの喧嘩をしそうになったので、慌てて参議たちが二人を引き離し、無理やり別室へ連れて行った。
「憶えていろよ、伊周!」
「かかって来やがれ、道長!」
と、別室へ連れて行かれる最中も二人は興奮してジタバタ暴れながら大声を張り上げていた。
自分の屋敷へ戻った後も道長の怒りは収まらず、
「伊周だけは絶対に許さん。必ず地獄へ送ってやる」
そう毒づき、家来に向かってはこう宣言した。
「もう遠慮はいらんぞ。これからは戦争だ。こちらは宣戦布告されたのだ。伊周の家の者は誰であろうと構わん、見かけたら片っ端から痛い目に遭わせてやれ」
もう一方の伊周はというと、これが逆に
「道長の奴に一泡ふかせてやったぞ」
と、鬼の首を取ったかのようにすこぶる上機嫌であり、屋敷内で盛大に祝杯を上げている有様だった。酒がどんどん進む。そこへ隆家が遅れて現れるや、すぐさま伊周は
「隆家、こっちへ来い」
と上座から手招きして呼び、隆家がそばにやって来ると、酔って赤黒くなった顔をすり寄せ、酒臭い息を吐きながら
「おまえに今日の道長の情けない顔を見せてやりたかったぜ」
そう言ってケッケッケッと薄気味悪く笑った。
「道長の野郎、今ごろ俺の顔を思い浮かべては、さぞ悔しがっているんだろうな。ざまあみろ。いい気味だ。俺さまに逆らった罰だ」
さらに、酔って目の据わった伊周は、黙って話を聞いている隆家を見下すようにネチネチとこう述べ始めた。
「しかし、何だな、おまえも《さがな者》と評判だったわりには、あんがい臆病者だったんだな。あんな道長にビクビクしやがってよお。あんな奴、所詮は何の力も知恵も無えんだから、一発ガーンとぶちかましてやれば、このザマなんだよ。俺は道長なんかちっとも怖かねえぞ。ふん、何が《さがな者》だ。《さがな者》が聞いて呆れるわ。本物の《さがな者》は、この俺さまだ」
伊周の暴言に対しても、隆家は沈黙したままじっと我慢していた。
「いいか、隆家。今まではおまえに任せていたけど、今後は俺さまが自ら家来を指揮するからな。家来を指揮して道長の家の奴らを蹴散らしてくれるわ。おまえみたいな臆病者に任せていたら道長にナメられるばかりだからな。今後は俺がやる。俺が道長の首を獲ってやる」
隆家としては、完全に頭に血が昇ってしまっている伊周に対して、今は何を言っても火に油を注ぐだけだと分かっていたので、
「どうぞ、お好きなように」
そう言うより他なかった。
三日後の二十七日、七条大路で道長の家来と伊周・隆家の家来による大規模な武力衝突が起き、幸い死者こそ出なかったものの多数の怪我人が出る騒ぎとなった。中関白家側の司令官は、勿論いけいけドンドン状態にある伊周であり、
「道長の家来は全員ぶっ殺してしまえ!」
と最初から最後まで意気盛んだった。隆家はあえて口を挟まず、伊周の好きにさせていた。
この時代、都の治安を守るため、現在で言うところの警察の役目を担っていたのは検非違使という役人であったが、その実動部隊は《放免》と呼ばれる殺人や強盗などを犯した凶悪犯罪者たちであり、彼らは牢屋から特別に釈放(無罪放免)してもらう代わりに犯罪者の逮捕や処刑の任務を朝廷から委託されていた。元重犯罪者なので凶暴な外見と荒々しい気性を兼ね備えており、都の人々からは忌み嫌われていた。
その《放免》が騒動の張本人として中関白家側の家来だけをしょっ引いて行ったので、それまで静観していた隆家もさすがに「それはおかしいだろう」とブチ切れた。道長が検非違使の役人を買収して自分たちに有利になるよう謀ったのは明白だったので、八月二日に今度は隆家が主導して道長の家来と武力衝突し、この間のお返しだとばかりに道長の家来ひとりを殺害した。憤慨した道長は「下手人をこちらへ引き渡せ」と要求してきたが、隆家は「当方には一切かかわりの無い事でございます」と答えて拒絶した。
都じゅうに一触即発の不穏な空気が漂っていた。




