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さがな者隆家  作者: ふじまる
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第2章 陰謀

 懐仁やすひと親王(後の一条天皇)の教育係を務めた高階成忠たかしなのなりただは、現在の学者の中にもたまにそんな人を見かけるが、頭の良さや学識の豊かさにかけては群を抜いているものの、人間的にはちょいと変わった、いわゆる奇人変人の類いだった。中身のみならず外見もまた異様だった。獅子のたてがみの如く逆立った白髪頭にギョロギョロしたガマ蛙のような目。ぶ厚い唇と出っ歯。猫背で、ずんぐりしていて、ガニ股で、短足。このように常人とはかけ離れた容姿をしている上に、近頃では正規の学問以外に怪しげな呪術祈祷の研究まで行っているとあって、世間の人からは狐か鬼か、はたまた愛宕山の太郎坊天狗かと気味悪がれ、誰も成忠の屋敷へは近づこうとはしなかった。

 変わり者の成忠は女子教育に関しても独自の考えを有していて、女性に学問は不要であり、良家の娘は結婚するまで生家の中で過ごすべきだと思われていたこの時代に、女性も学問をするべきだし、積極的に社会へ進出すべきだと考えていた。そして、その考えを実践すべく、自分の娘たちに幼少の時からびっちり学問を仕込み、長ずると宮中に出仕させた。長女の貴子たかこは、少々ぽっちゃりした体型ながら成忠の娘とは信じられないほど色白の美人だったが、円融天皇えんゆうてんのうの時代に宮中へ出仕するや、漢詩文に関する男まさりの高い教養と自由自在に言葉を操る鮮やかな文才がたちまち大評判となり、人々から《高内侍こうのないし》と呼ばれて厚遇された。貴子の作った和歌は『新古今和歌集』など勅撰和歌集に五首選ばれている。

 宮中でこの才女をみそめたのが、青年時代の藤原道隆ふじわらのみちたかである。

 女はいくらでもいる。しかし、これほどの教養を身につけた女は、そうざらにはいるものではない。貴子は俺に欠けているものをすべて持っている。貴子と一緒になれば、俺は自分の足りない部分を補い完璧な存在になれる。そして必ずやそれが将来の役に立つはずだ・・・そう考えた道隆はすぐさま猛烈に口説き始めた。道隆は、現在で言えば二枚目映画スターみたいなものなので、その誘惑に逆らえるはずもなく、貴子はたちまち陥落し、道隆の虜になった。ひとり寝の寂しい夜に道隆を恋しがる気持ちを詠んだ貴子の歌が『後拾遺和歌集ごしゅういわかしゅう』に載っている。

「ひとりぬる 人や知るらむ 秋の夜を ながしと誰か 君につげつる」

 貴子の一途な恋心がよくわかる情熱的な愛の歌である。

 道隆は名うてのプレイボーイと評判だったから、どうせ貴子は遊ばれているだけだろうと思い、成忠は最初のうち二人の交際に反対だった。しかし、道隆をひと目見た途端、成忠の認識が変わった。道隆はいずれ大臣にも関白にもなる男だ・・・成忠の眼力はそう確信したのである。それからは高階家をあげて道隆を全面的に支援した。

 結婚後、貴子は次々と道隆の子を産んだ。上から順に、伊周これちか定子さだこ隆家たかいえ原子もとこ隆円たかまろ頼子よりこ、後に《御匣殿みくしげどの》と呼ばれる事になる幸子さちこ。道隆は他の女性にも子供を産ませたが、正室である貴子の子供は以上である。どの子も基本的には貴子の子供に相応しい学問好きな優等生だったが、定子と隆家だけは道隆の血をより多く受け継いだらしく、他の兄弟たちと異なり、やんちゃで、よく笑い、よくしゃべり、家の中で過ごすより外で遊ぶ方を好む活発な性格だった。そのため定子は自分と同じ気質の弟・隆家を殊のほか愛し、いつも二人は二条通りにある屋敷(二条殿にじょうどの)の庭で元気に遊び回っていた。

 寛和二(986)年に藤原済時邸で催された法華八講の最終日である六月十八日に定子は九歳だったが、この日も庭で七歳の弟・隆家と奇声を上げながら追いかけっこに興じていた。暑い日だったので二人とも汗だくである。彼らの後を翁丸おきなまると名づけられた愛犬がワンワン吠えながら付いて回っている。乳母である大輔たいふ命婦みょうぶがハラハラしながら

「姫さま、いけませんよ。もう家の中へお入りください」

 と呼んでも

「まだよ。もう少し隆家と遊ぶの」

 定子はそう言ってぜんぜん止めようとしない。腕白な隆家は、定子に隙があると見るや「エイ!」とお尻の辺りにぶつかって来た。

「コラ、隆家!」

 後ろから押されて躓きそうになった定子は、再び笑いながら隆家を追いかけ始める。隆家はキャッキャとはしゃいで逃げ回る。二人の様子を廊下から無表情に見下ろしながら十二歳の兄・伊周が

「そんなお転婆じゃ立派な皇后になれないぞ」

 と言った。定子がやがて懐仁親王の后になるのは、父の道隆および祖父の兼家にとって既定路線となっていた。懐仁親王が即位すれば定子は皇后になる。子供たちもそれは理解していた。

「大丈夫よ、兄上」

 定子は平気な顔をして言った。

「だって、隆家と同じような男の子の相手をすれば良いだけの話でしょ? そんなの簡単よ。毎日やってる事だもの」

 懐仁親王は定子より三つ年下であり、確かに弟の隆家みたいなものである。

「ま、そう言われれば、そうだけどさ」

 伊周はつまらなそうに顔をそむけた。そこへ原子と隆円の手を引いた貴子が屋敷の奥から現れ、いつもの凛とした表情で

「定子、隆家、中へお入りなさい。お勉強の時間です」

 と命じた。この家において貴子の命令は絶対である。定子と隆家はしぶしぶ中へ入った。定子と隆家が侍女たちに汗を拭いてもらい、身なりを整えて貴子の部屋へ行くと、伊周、原子、隆円が行儀よく正座して待っている。定子と隆家は、上目使いに貴子の顔色を伺いながら、おずおずと自分の場所へ座る。まだ物心のつかない頼子と幸子を除いた子供全員が揃ったところで、貴子は『白氏文集はくしもんじゅう』の講義を始めた。

 いちばん熱心に学んでいたのは伊周である。伊周には些かマザコンの気があり、母親が大好きで、普段から母親に良いところを見せたい、気に入られたいという欲求の強い少年であったから、貴子の期待を裏切らぬよう真剣に勉強していた。定子はお転婆娘ではあったものの決して勉強が嫌いなわけではなく、漢詩や和歌をみんなと一緒に音読し、そこで詠われている事の意味を考え、自分でも詩作してみるのが好きだった。だから上達が早かったし、勉強が苦痛ではなかった。ところが隆家の方は、頭が悪いわけではないし、言葉の美しさを感じ取る芸術心が欠けているわけでもなかったが、そもそもじっと座っているのが苦手らしく、講義中も絶えず体をもぞもぞと動かし、落ち着きの無い様子をしていた。そんな隆家を、いつも定子は貴子に聞こえぬよう小声でこっそり「もうすぐ終わるから我慢するのよ」と励ましていた。

 夜になった。子供たちが寝静まった後、門のところで「ご主人さまのお帰りです」という声が聞こえた。すると、べろんべろんに酔っぱらった道隆が、両脇を家来二人に担がれながら屋敷の中へ運び込まれて来た。見れば冠が脱げ落ちてしまっている。平安時代において男が人前で冠を脱ぐという事は、現在で言えば人前でパンツを脱ぐのに等しい醜態である。すなわち、フルチンの亭主を迎え入れたようなものである貴子は、絶望的な表情で

「一体どうなさったのですか?」

 と道隆を問い詰めた。

「いやね、結縁の八講の後にね、あまりにも暑かったものですから、喉を潤そうと思いましてね、いつものように済時と朝光の三人で、ちょっとだけお酒をね、飲んできたのですよお」

 しどろもどろな口調でそう言ってへらへら笑っている道隆は、酒好きを通り越し、酒に飲まれるタイプだった。健康のため酒を控えるよう、これまでも貴子はさんざん頼んできたが、道隆は一向にやめようとしなかった。こんな状態の時、いくら説教しても無駄なので、とりあえず貴子は道隆を寝かせた。道隆はグーグー高いびきをかきながら平和な顔で熟睡した。

 翌朝、道隆はいつもの通りに起床して、何事も無かったように内裏へ出勤していった。ところが、その夜、帰宅した道隆は珍しく酒を口にしようとしなかった。

「お酒を召し上がらないなんて珍しいですね。どうせ昼間、お父上さまから、お酒の件でこっぴどくお叱りを受けたのでしょう?」

 貴子が嬉しげに微笑みながらそう言ってからかっても、道隆は

「うん・・・」

 と答えるのみで後は黙っていた。珍しく顔に緊張感が漂っている。貴子は急に寡黙になった道隆を変だとは思ったが、おっかない義父のお灸が効いたのだろうと勝手に解釈し、その上でさすがは実の父親だわね、頼りになるわ、とおそらく道隆をきつく叱ってくれたのであろう右大臣・藤原兼家に感謝していた。

 しかし、この時、裏では兼家による現政権転覆の驚くべき陰謀が着々と進行していたのである。陰謀は兼家と花山天皇のそばに仕える蔵人頭である次男の道兼みちかねによって立案された。酔って自分を見失った際にポロリと秘密を漏らすおそれのある酒好きの道隆には最終段階まで計画を知らせなかった。そういうわけで、その日の昼間、兼家から初めて計画のあらましを告げられた道隆は、心臓が飛び出るほど驚いた。もしこの陰謀が失敗すれば我が家は破滅だ。さすがの道隆も酒を飲む気分にはならず、禁酒して決行の日に備えた。運命の日は数日後に迫っていた。

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