第17章 疫病と道隆の死
都では天然痘が猛威をふるっていた。当時一番の死病である。人がバタバタと死んでゆき、都のいたるところに死体が転がり、それを野犬が食べているという何ともおぞましい地獄絵図の状況であった。すべての寺で加持祈祷が行われたが、一向に終息する気配が無かった。
道隆は天然痘ではなかったが、長年患ってきた糖尿病がいよいよ悪化し、最後の力を振り絞って実現させた原子の入内後、遂に力尽きて寝たきり状態となってしまった。こんな状況では疫病対策をまともにおこなえないし、長徳元(995)年一月九日に自宅である二条殿が火災で焼失したが、その再建も難しい。
そこで道隆は、自分が死んだ場合に備える意味もあって、朝廷に辞表を提出し、自分の代わりに伊周を関白にして国政の指揮を執らせて欲しいと願い出た。一条天皇は伊周を一足飛びに関白にするのには躊躇したが、かと言って政務の停滞を放置するわけにもいかないので、とりあえず道隆が病気の間に限りという条件付きで、伊周を内覧という関白に準ずる地位に就けた。
この時、悪知恵を働かせた伊周が、「道隆が病気の間」という文言を密かに「道隆が病気の替」という文言に書き換えさせ、道隆の病気が回復した後も内覧の地位を失わないようにしようと画策したが、これはすぐに露見し問答無用で拒絶された。道隆は隆家を中納言にするようにも願い出たが、こちらはあっさり認められた。
その間にも三月二十日に大納言・藤原朝光が天然痘で死去し、大納言・藤原済時もやはり天然痘に罹患し、生死を彷徨う状態になった。二人とも道隆の飲み友達である。
貴子による懸命の看病にも関わらず、道隆の病状は悪化する一方だった。伊周も道隆の回復を願い仏に祈り続けた。正直、現段階においては伊周に一人でやっていく自信は無かった。もう少し道隆に側についていて欲しいというのが本音だった、せめてあと半年で良いから・・・
隆家の方も、せっかく中納言に推挙してもらったものの、道隆がこんな状態では喜びは無かった。道隆亡き後の世界を想像すると、隆家は暗雲たる気持ちになった。
「もうすぐ親父が死ぬ」
隆家は傍らにいる房子にそう呟いた。律子を正室に迎えたものの、まったく興味を示さない隆家は、相変わらず房子の家にばかり入り浸っていた。左大臣・源重信から「婿どのは、ちっとも律子のもとへ通ってくれない」というクレームが来たので、いちど伊周が注意した事があったが、
「ふん、あんなババアを俺に押し付けやがって」
と憤慨するばかりで隆家は聞く耳を持たなかった。そんな時の隆家のふくれ面を見て、房子だけは「キャハハ。ざまぁないわね、隆家」と爆笑していたが・・・
「関白さまは、いよいよ危ないの?」
房子にそう訊かれた隆家は暗い表情で答えた。
「うん。あと十日も持たないだろう」
「関白さまがお亡くなりになったらどうなるの?」
「兄貴と俺で家を盛り立てていかねばならぬだろうな。でも・・・」
「でも、何?」
「俺たちは朝廷内で憎まれている。特に兄貴が。あの若さで親父が強引に内大臣にまで引き上げたからな。生意気な若輩者は失脚して地に堕ちれば良いんだ、ざまあみろ、いい気味だ・・・そう思っている連中が多いはずだ」
「隆家も嫌われているの?」
「俺はそれほどでもない。兄貴ほど特別待遇されなかったからな。つまり俺なんか初めから眼中に無いというわけだ。俺は単なる《さがな者》さ。政敵どもにとっては、どうでも良い奴。狙われているのは兄貴だ」
長徳元(995)年四月六日に出家した道隆は、その四日後、貴子や伊周に見守られながら静かに息を引き取った。享年四十三歳。最期の言葉は冗談好きの道隆らしく
「あの世へ行ったら朝光と済時と三人でまた酒を飲もうかな」
というユーモラスなものだった。その言葉に誘われたかのように済時も二十三日に亡くなった。
道隆が亡くなると、さっそく朝廷内では《次の関白を誰にするか》その議論が始まった。一条天皇は、定子の兄であり、親友でもある伊周を関白にしたかった。しかし、反対意見が多かった。若すぎるし経験不足だ、というのが主な反対理由だった。確かにもっともな話だとは一条天皇も思った。
伊周に人望が無い事は、一条天皇もよく知っていた。一月に伊周は内大臣として《大饗》という正月恒例の儀式を主催したが、主だった有力者は誰も出席しなかった。また、二月に詮子の石山寺参拝に同行した際には、急用で引き返すため詮子の車に自分の車を寄せて挨拶しようとしたところ、騎馬で警護していた道長から随行した貴族たちの面前で「行列を遅らせるな!」と頭ごなしに叱責され、大恥をかかされた事があった。道隆が病気の間に限り内覧に抜擢したものの、疫病対策では特段の成果を上げていないし、自宅である二条殿の再建ですらうまくやれていない。そんな伊周が果たして朝廷をうまくまとめていけるのだろうか?
そう心配していた一条天皇のところへ、母親の詮子が鼻息荒く乗り込んで来て、道兼を関白にするように要求した。伊周では関白として力不足だ。それならば兼家の長男である道隆亡き後、次男の道兼が関白職を継ぐのが順当である。心配しなくても伊周は若いので、この先いくらでも関白になれる機会があるから、というもっともらしい理由を述べて。詮子に説得された一条天皇は、道兼の側室の繁子が乳母だったという事もあって、道兼を関白にする事に同意した。後に一条天皇は定子に詫びた。
「すまん。今回は我慢してくれ。次の機会には必ず伊周を関白にするから」
ところで、詮子は道兼を最初から好いていなかった。道兼を関白にしたいと思った事なんか一度も無かった。詮子が関白にしたいと思っているのは、昔からずっと道長だった。しかし、次男の道兼が現にいるのに、それを飛ばして三男の道長を関白にするのは、いくら《国母》である詮子にも出来ない相談だった。そんな自分勝手な人事を強行したら世間の大きな非難を招き、結果的に道長の政治生命を縮めるおそれがあったからである。だから道長を関白にする為には、どうしてもいったん道兼を関白にする必要があった。それでも道兼がまったくの健康体だったら、詮子はこの作戦を採用しなかっただろう。詮子が安倍晴明に密かに探らせて入手した情報によれば、どうやら道兼にも天然痘の兆しがあるらしかった。道兼の命は長くない! それを知っていたから、詮子は安心して道兼を関白に推挙できたのである。
長徳元(995)年四月二十七日、右大臣・道兼が関白に就任した。道兼はもちろん繁子を初めとする道兼の家族や家来全員が大喜びで、さっそく屋敷内で祝宴のどんちゃん騒ぎを始めた。皆の祝福を受けながら道兼は、花山天皇を退位させてから今までの年月をあれこれ思い出しては、
(ようやく長年の苦労が報われる時が来た・・・がんばったよなぁ、俺・・・うん、うん、がんばった・・・よくやった・・・)
と感涙にむせんだ。そんな道兼が関白宣旨を受けに意気揚々と内裏へ参内したと思ったら、従者に抱えられながら死にそうな顔で帰宅したので、家族と家来一同は驚愕して言葉を失った。
「なぁに、ちょっと疲れが出ただけさ。少し休めば良くなる」
道兼は虚ろな表情のまま力なく微笑してそう言ったが、そのまま寝たきり状態となり、日に日に衰えていった。明らかに天然痘の症状だった。詮子の予想していた通りの展開になった。繁子は回復を願って懸命に看病したが、もはや道兼の死が避けられないのは、誰の目にも明らかだった。
藤原実資が見舞いに来た。この時代の出来事を詳しく記した、極めて資料的価値の高い日記『小右記』の著者である実資は、藤原北家小野宮流の当主であり、当代随一の学識人であり、スジの通らない物事が許せない気骨ある人物として世に知られていた。道兼とは花山天皇の蔵人時代からの付き合いで、年齢が近い事もあって親しく語らうようになり、それ以来、人から好かれる事の少ない道兼の唯一の友人と呼べる存在だった。
「道兼、気をしっかり持って病気を跳ね退けろ。君はこれから関白として大いに活躍しなければならないのだぞ」
知的で誠実で厳格な容姿を持つ実資が真剣な表情でそう励ますと、御簾の奥にある寝床から、か細い声で道兼が返事した。
「ありがとう、実資。でも、俺はもうダメみたいだ」
「弱音を吐くな、道兼。この病気から治った人も現にいるのだぞ」
「まったく運が無いよな、この俺は。せっかくこれからだというのにさ。関白になったら、君にもさらに上の地位を与えてあげられると思っていたのにな」
「私の事なんか気にするな、道兼」
「君には心から感謝しているよ、俺みたいな嫌われ者の友達になってくれて。君だけだ、俺を嫌わなかったのは。他はみんな、父上でさえも俺を毛嫌いした。一所懸命尽くしたんだけどな、父上には」
「君の良さは私がちゃんと分かっているよ。だから心配するな」
「そして今は天にも見放された。世の中には運の悪い人間が実際にいるんだな。まさに俺がそうだ。小さい頃から俺は何ひとつ恵まれていなかった。醜い容姿もそうだし、長男に生まれなかった事もそうだし、女にだってモテなかった。そして最後はこのザマだ。ようやく幸せになれると思って大喜びした途端、地獄へ真っ逆さまさ。天はそんなに俺が憎いのか? そんなに俺を苦しめたいのか? 俺が悲しむのを見るのが楽しいのか? 前世で俺はそんなに悪い事をしたのか?」
道兼の言葉は途中から嗚咽にかわった。
「クヨクヨそんな事ばかり考えずに、もっと気を楽に持って、必ず自分は良くなるんだと信じろよ。そういう前向きな気持ちが大切なんだよ、今は」
実資がそう言った時、一陣の風が吹いて御簾を少し巻上げた。そのせいで実資は寝ている道兼の姿を垣間見る事が出来た。黒くひからびた道兼の姿を見た途端、自分の励ましの言葉など、もはや何の役にも立たないという残酷な事実を実資は悟った。それでも実資は励ましの言葉をかけながら病室を去った。親友のため他に何が出来よう?
五月八日、道兼死去。享年三十五歳。関白になった途端に亡くなったので人々から《七日関白》と呼ばれた。
道兼が死んだ同じ日、隆家の正室である律子の父、左大臣・源重信も亡くなった。享年七十四歳だった。これ以後、ガミガミ文句を言ってくる小うるさい義父がいなくなった隆家は、律子に近づく事がいっさい無くなった。




