第16章 淑景舎
長徳元(995)年一月十九日、道隆の次女・原子が皇太子である居貞親王(後の三条天皇)のもとへ入内した。十五歳だった。入内後しばらくは宮中で手紙のやりとりをしていたが、二月十七日の夜、原子は居貞親王の寝所へ呼ばれ、名実ともに夫婦となった。その報告を受けた道隆と貴子は夜が明ける前に参内し、定子のいる登華殿(梅壺)へ入った。道隆にすれば、長女・定子が今上天皇の中宮、次女・原子が次期天皇の妃となったわけで、こんなに嬉しい話が他にあろうはずがなく、体調が思わしくないにもかかわらず終始ニコニコしていた。
清少納言が定子の整髪をしていると、道隆が痩せ細った顔で嬉しそうに訊いてきた。
「諾子は原子の姿を見たかい?」
原子は局の名前である淑景舎と呼ばれていたので
「淑景舎さまが入内なさった時、車寄せのところでチラッとお姿を拝見した程度です」
清少納言がそう答えると、道隆は親バカ丸出しで
「それはいかんなぁ。原子が戻って来たら柱と屏風の間からこっそり覗いてごらんよ。すっごく可愛いんだから、うちの原子ちゃんは」
と言ったものだから思わず定子が吹きだした。
「んもう、笑わせないでよ、父上」
原子が淑景舎へ戻ったという報告があったので、さっそく道隆と貴子が向かった。定子も後を追った。道隆に言われた通り清少納言が柱と屏風の間から室内を覗くと、原子と定子が並んで座り、その側に座る道隆そして貴子と一緒に「良かった」とか「めでたい」と言いながら談笑していた。定子はまだ十八歳だが、隣に座る原子と比較すると、ひどく大人びて見える。原子は道隆が自慢するようにお人形のように小柄で可愛かった。そこへ伊周と隆家が現れた。伊周は幼い松君の手を引いている。道隆がいつもの様に松君を膝の上に抱き上げる。キャッキャと喜ぶ松君の声。その様子を笑顔で見守る貴子、定子、原子、伊周、隆家。
そんな一家団欒の最中、道隆が清少納言のいる方向を眺めながら、わざと
「おや、あそこで覗き見している不埒者は誰かな?」
そう尋ねると、定子が苦笑しながら答えた。
「父上お気に入りの諾子が、原子の美しい晴れ姿をひと目見たくて、覗き見しているのでしょう」
「なるほど。諾子の仕業であったか。けしからん奴だ。しかし、あの者とはもう長い付き合い、そう済時の小白河邸以来の付き合いだから今回ばかりは許してやろうかな。それにしても諾子はわしらを見てどう思うかな? まさか憎ったらしい娘が二人いるとは思わないよな」
「諾子がそんなこと思うわけないでしょ、父上」
「そうだよなぁ、だって二人ともこんなに可愛いものなぁ。ああ、可愛い。んもー、可愛い。んにゃー、可愛い。可愛すぎるう」
体調不良であっても道隆はいつもと変わらず陽気であり、冗談を言って人々を笑わせるのを忘れなかった。定子と原子の食事が済んだ際も、いかにも哀れっぽい表情を作っては
「お二人の残り物で構いませんから、この爺さんにも何かめぐんで頂けませんかね」
と冗談を言って笑わせていた。
一条天皇から定子に今夜は清涼殿に泊まるようお願いする手紙が届いたが、定子は両親が来ているので断ろうとしたところ、道隆が慌てて
「ダメ、ダメ、絶対にダメ」
と制し、自分たちの事なんかどうでも良いから、何事も一条天皇優先で考えろ、と諭した。そして、松君をあやしながら
「この子が定子の産んだ皇子だと言っても誰も不思議がるまいな」
と呟いた。すると貴子がそれに同調して言った。
「本当に早く定子にも、陛下との間に、こんな可愛い若君が誕生すれば嬉しいわねぇ」
道隆と貴子に残る最大の願いは、定子が一条天皇の息子を産む事であり、二人はそれを今か今かと待ちわびていた。
原子にも居貞親王から今夜も自分のところへ泊るようにというお誘いの手紙が届いた。定子と原子のどちらが先に行くか、お互いに譲り合ってなかなか決まらなかったが、天皇のいる清涼殿よりも皇太子のいる東宮御所の方が遠方にあったので、遠い方が先にという結論になり、原子が先に部屋を出る事になった。二人の見送りにお供する道隆は鼻高々な様子だったが、まさかこの二か月ほど後にこの世を去る事になろうとは誰も想像していなかった。
話は変わって、行成と共に企てた陰謀により憎っくき恋敵である実方を内裏から追い出す事に成功した斉信であったが、プライドを傷つけられた事による清少納言への怒りは収まらず、陰で「あのスベタめ」と罵ったり、廊下ですれ違う事があっても無視したりしていたが、このままの状態が続くのも鬱陶しいので、今後も清少納言と付き合うべきなのか、彼女は真実その価値のある人物なのかを見定めるべく最後のテストをする事に決め、手紙を送った。その手紙には「蘭省の花の時の錦帳の下」と書いてあり、これに下の句を付けよと付記されていた。これは『白氏文集』にある「蘭省ノ花ノ時錦帳ノ下。廬山ノ雨ノ夜草庵の中」の引用で、斉信は、まさか清少納言も『白氏文集』のこの詩句までは知るまい、と高を括っていたのである。
しかしながら、清少納言はちゃんと知っていた。だから「廬山ノ雨ノ夜草庵の中」と書いて返書すれば良いだけの話なのだが、それでは芸が無さすぎるし、女だてらに教養がありすぎると思われてドン引きされるのも嫌なので、どうしようか迷っていたところ、使いの者が「早く返事をくださいよ」とさかんに催促する。仕方なく清少納言は、炭櫃に残っていた炭のかけらを細い指でひょいとつまみ、手紙の余白に「草の庵を誰かたづねむ」と書いて使いの者に渡した。
返事を受け取った斉信は、清少納言の教養の深さと応用力の高さに舌を巻き、やはりこの女はタダモノでないし、今後も付き合っていくべき人物だと思い知った。しかも、和歌で返事が送られてきたので、今度はこちらが試される番になり、上の句を送り返さなければならない。しかし、すっかり圧倒された斉信には、気の利いた上の句が思い浮かばなかった。窮した斉信は部下の橘則光に尋ねた。
「どうしようかね?」
橘則光は盗賊三人を一人で退治した程の偉丈夫で、このとき三十歳。宮中の修理係等を歴任した後、最近は斉信の下で蔵人を務めていたが、実はこの則光は清少納言の別れた前夫なのである。二人とも同じ場所で働く事になったので数年ぶりに再会したのだが、顔を合わせる事があっても互いに知らぬ顔をしていたし、また元夫婦と知られれば何かと面倒なので、表向きは兄妹という設定にしていた。しかし、清少納言と則光が夫婦だったという事実は、一条天皇と定子を始め誰もが知る公然の秘密だった。
「今後は彼女を《草の庵》と呼ぶ事で勘弁してもらったら如何ですか?」
則光がそう答えると、斉信は苦々しい表情で皮肉まじりにこう言った。もちろん斉信も則光が清少納言の元夫だと知っている。
「そうしよう。それにしても、おまえさんの妹とやらは恐ろしい女だねぇ。とても敵わんよ」
その後、則光はこっそり清少納言を呼び出し、嬉しそうにニコニコしながらこう語った。則光は図体こそ大きいけれど、普段の性格は極めておだやかで、笑うと少年のような愛くるしい表情になる。
「やっぱり凄いね、諾子さんは。斉信さまも、周りにいた蔵人たちも、諾子さんの知恵と教養に完敗状態だったよ。今度から諾子さんを《草の庵》と呼んで敬おうという案まで出たほどだったもの」
「嫌だわ、《草の庵》なんて。何だか古ボケた感じがするじゃないの」
清少納言がそう言って顔をしかめると、則光が苦笑した。
「まぁまぁ、そう怒るなよ。俺なんか《兄妹》ってあだ名がついているんだぜ。もちろん冗談でだけどさ。でも、諾子さんがこんな風に宮中のみんなから一目も二目も置かれているのは、元夫としてとても嬉しいし、誇らしいよ。諾子さんを幸せに出来なかったダメな男であってもね」
「あなたはダメじゃなかったわ。わたしたちが子供だったのよ、あの頃はまだ・・・」
「そういう面もあるかもしれないけど、でも結局は亭主だった俺の力不足だよ。俺は自分の責任を感じている。その罪滅ぼしというわけではないけれど、これからは陰で諾子さんを支えるからさ。諾子さんの出世を妨げるものがあれば、ささやかなおれの力の及ぶ範囲でだけど、全力で排除するからさ」
「ありがとう。あてにしないけど、そう言ってもらえると嬉しいわ」
「少しはあてにしろよ」
「うん。ほんのほんのちょびっとね」
そう言って清少納言と則光は笑った、お互いの顔を熱くじっと見つめ合いながら。
さて、結婚といえば隆家も正室を娶ったが、あらかじめ危惧していた通り律子は隆家より十歳も年上で、しかも前夫と死別した経験のある、いわば出戻りだった。
「なんじゃ、このオバサンは」
さすがの隆家も思わず悲鳴を上げた。




