第11章 二条の宮
道隆は、正暦五(994)年二月二十一日、積善寺にて父・兼家を弔う法要を盛大に行う事にした。この法要には兼家の娘で円融天皇の女御だった詮子を始めとする一族全員が出席するので、それならわたしもとばかりに定子も出席を決めた。一条天皇は嫌がった。定子がそばを離れるのが寂しくて仕方ないからである。四六時中、定子と一緒にいたいと願う甘えん坊の一条天皇に対し、年長の定子にはそこまでの執着心は無かった。
(どうせ半月もしたらまた会えるのだし、わたしだってたまには外の空気が吸いたいわよ。実家へ帰って羽根を伸ばしたいわよ。母や妹の顔が見たいわよ・・・それに陛下には、もう少し大人になってもらわなくては困るわね・・・いつまでもわたしに依存してばかりいても・・・たまには冷たく突き放してやる教育も必要ね・・・)
そう考えた定子は、ぐずる一条天皇をうまく言いくるめて、二月六日に道隆が屋敷内に新たに造営した二条の宮へ出発した。
定子が二条の宮へ行くとなれば、彼女に仕える大勢の女房たちも一緒にお供して行かなければならない。何台もの牛車に分乗して行くのだが、みな「遅れてはならじ」とばかりに牛車へ殺到したものだから、こういう事態に慣れていない清少納言は乗り遅れてしまい、いちばん最後の牛車に乗るハメになってしまった。
二条の宮は、さすがに新築したばかりとあって、白壁がピカピカ輝いている明るく美しい御殿だった。しかも驚いた事に庭には満開の桜が咲き誇っていた・・・まだ二月だというのに・・・梅が咲き始めたばかりだというのに・・・よくよく見れば、それは造花だった。いかにも派手好みの道隆がやりそうな事だが、冷静に考えてみれば奇怪な趣向である。それでも定子は大喜びで、庭のあちこちを見て回った。中宮大夫である道長と腕っぷしに自信のある隆家が警護を兼ねて付き添っていた。定子は始終よくしゃべり、よく笑っていた。そこへ
「姉上、おかえりなさい」
小さな妹たち、すなわち頼子と幸子がそう言いながら駆け寄って来たものだから、定子の興奮は絶頂に達した。天皇の中宮であるという立場を忘れ、子供のころ隆家とよくそうしていたように、歓声を上げながら庭で妹たちと遊び始めたのである。
「これ程ハシャがれた中宮さまを拝見するのは初めてです」
道長がそう言うと、隣に立って定子の姿を見ていた隆家は、
「いいえ、子供の頃はいつもこうでしたよ。私といつもこのように暴れ回っておりました」
平然とそう答えた。
「そうでしたか。それは存じ上げませんでした。隆家どのを始め御兄弟は、みな活発なご気性でいらしたのですね」
「私と姉だけですよ、活発なのは。兄の伊周は勉強ばかりしておりました」
「あはは。なるほど」
と道長は苦笑した。
遊び疲れた挙句、自分の為に用意された豪華な部屋へ入りホッと一息ついた定子は、ここでようやくいつもそばに控えている清少納言がいない事に気がついた。
「あれ、諾子さんは、どこ行った?」
結局、清少納言が二条の宮へ到着したのは夜になってからだった。到着したばかりの清少納言を前にして
「・・・ったく、どんくさいのよ、あなたは」
そう言った定子の目に清少納言がひどく年寄りじみて映っていたのは、久しぶりに実家へ帰った定子の心が少女時代のそれに戻っていたからであろう。
定子の部屋へは昼も夜も母親の貴子や妹たち、伊周、隆家、隆円などがやって来て、賑やかな笑いが絶えなかった。もちろん道隆もしょっちゅう顔を出した。ある日、いつものように酒に酔って上機嫌な道隆は、室内にずらりと居並ぶ女房たちを見回してレロレロの口調で
「皆さん何とお美しいのでしょう。そりゃあそうですよね、国じゅうから選り抜きの美女、才女を選んだのですものね。また、皆さんの御召し物の素晴らしいこと。中宮さまから頂いたのですか? わたくしは中宮さまがお生まれになった時から大切にお育て申し上げておりますけど、まだお下がりの一つも頂戴した事が無いんですよ」
そう冗談を言って女房たちを笑わせた。
「父上、お戯れはそれくらいになさいませ」
定子にそう注意された上に、貴子から
(いい加減にしろ、この酔っぱらいが)
と、きつく睨みつけられても道隆の口が止まる様子は一向に無く、
「本当なんですよ。わたくしは陰口が嫌いですから、この際はっきりと申させて頂きますけどね、わたくしは下着の一枚も頂戴した事が無いんですよ。皆さん、お笑いになっていらっしゃいますけど、これは本当の話なんですよ」
この後、酩酊のあまり人事不省に陥った道隆が、伊周と隆家に両側から抱きかかえられて部屋を後にしたのは言うまでもない。そんな最中にも宮中から一条天皇の手紙が届き、寂しいから早く帰って来ておくれという趣旨の内容が書かれていたが、定子は適当にあしらっていた。一条天皇の手紙は定子が宮中へ戻るまで毎日届いた。
道隆が庭に拵えさせた桜の造花だが、日に日にみすぼらしくなっていった。特に雨が降った翌朝がひどく、思わず清少納言が、
「恋人と泣き別れした時の顔よりブサイクですわね」
と皮肉った程だった。
「もういちど雨が降ったら、どうなるのだろう?」
そう定子が心配した日の翌早朝、庭で大勢の人間が動き回る物音に目が醒めた清少納言が、不審に思って雨戸の隙間からそっと庭を伺うと、夜明け間近の薄明の中、隆家が下人たちに
「父の命令だ、暗いうちに全部きれいに取っぱらうんだぞ」
と言いながら桜の木を取り払わせているのが見えた。
「もうすぐ夜明けだ。皆が起きて来るぞ。急げ」
隆家がそう檄を飛ばすのを聞いた清少納言は俄かに悪戯心が芽生え、わざと外へ聞こえるように
「桜ドロボウがいるのかしら?」
と呟いてやった。するとさっそく隆家の
「まずい。誰か起きたみたいだ。急げ、急げ」
と焦る声が聞こえたので、清少納言は可笑しくて笑いを堪えるのに必死だった。
朝になり、廊下に出て庭を眺めたところ、昨日まで確かにあった桜の木が一本も無くなっている事に驚いた定子が、そばに控える清少納言に
「朝方、桜ドロボウがいるという声を聞いたように思ったので、枝の一本や二本を持ち去るのかと思っていたら、根こそぎぜんぶ盗んで行くとは、何と大胆なドロボウさんかしら。諾子さん、あなたドロボウの姿を見た?」
と尋ねたので、清少納言は空とぼけて答えた。
「いいえ、見ておりません」
「それではドロボウの仕業ではなく、父上がこっそりお隠しになったのかしら?」
「いえいえ、春風の仕業でございましょう」
「相変わらず上手いこと言うのね、諾子さんは」
定子がそう言って笑っているところへ、道隆が鼻の穴を膨らませ、何やら得意気な様子で現れ、庭の有様を一瞥するや、定子に仕える女房たちに向かって、わざと大袈裟に呆れたフリをしながら、
「これは、これは、桜の木を一晩でぜんぶ盗まれるとは、どういう事でしょう。それにしても、だらしがないね、君たちは。グーグー寝ていて誰ひとりドロボウに気づかなかったとはね、まったく」
そう言ってからかったものだから、負けじと清少納言が道隆のそばへツツーッと近寄り、そっと小声で
「でも、わたくしは『我より先に』に起きていた人がいたのを知っておりますよ」
と囁いた。これは壬生忠見の家集『忠見集』にある
「桜見に 有明の月に 出でたれば 我より先に 露ぞおきける」
という歌を前提にした答えであり、道隆が先に起きて仕組んだ仕業である事を、こちらは先刻承知の上だと暗に仄めかしたのだった。
言葉の意味を理解した道隆が清少納言へ気まずそうな顔を向け、
「やっぱり、あんたらは騙せないね」
と苦笑いすると、定子がすかさずこう言って笑った。
「それなのに諾子さんは春の風に罪を負わせたのよ」
今度は紀貫之の歌
「山田さへ 今は作るを 散る花の かごとは風に 負ほせざるなむ」
を前提にした言葉だったが、定子の鮮やかな返しには、思わず清少納言も「お見事!」と絶賛した程だった。そのやりとりを直に見ていた道隆は
「何がお見事だ。諾子がしゃべったのは、かごとではなく、そら言よ。山田だって今はもう作っているだろうしな」
と《自分だってちゃんと貫之の歌だという事ぐらい分かっておりますよ》という点をちゃっかりアピールした上で、
「あれほど気づかれぬよう暗いうちに上手く処分しろと隆家に言いつけておいたのに、諾子のような監視役が常に目を光らせているようでは埒が明かんなぁ」
そう言って自分の立てた策略が失敗したのをさかんに悔しがっていた。




