壱話 Ⅲ
旗本が西都への転任を命じられた、所以とは。彼の暮らしが、あまりにも奢侈を極めていたからに他ならなかったである。質素倹約を範とすべき、士族としては、彼はあまりにも贅を尽くし過ぎていた。だが、この人事はまた、百年余り和を保ってきた東都の官僚機構が、決して愚かでは無かったことの証左でもあった。優秀な人物であることは疑いようがない旗本を、一時的に江戸から退けることで、彼に自省と自重を促したのである。一時的な懲罰人事-この采配は本来、それ以上でもそれ以下でもないものの筈だった。
最も、それを当人が解せていれば、の前提に基づく話であったが。旗本からすればしかし、この人事は大変な屈辱と映えた。己の名誉に傷が付いた、というのは勿論のこと。それ以上に、彼は自身が長い時間、心血を注いで丹念に作り上げてきた、己の生の現身にも等しい屋敷から離れることへ、耐えがたい苦しみを感じていた。非常な哀しさとやり場のない怒りを覚えていた、と形容しても、決して過言ではないかもしれない。だが、士族の一端として名を連ねる身である以上、上の命への背反は許されない。己の最も信頼する召使に屋敷の管理を任せ、旗本は西都へと旅立った。その傍らに、少年を連れて。
同時代において、極めて富貴な社会的地位にあり、多分に裕福であり、そして非常に賢かった者ですら。終ぞ、自己の運命を決定することが出来ず、上の決定に従うがままの生を送らざるを得なかった。それもまた、或いは、封建社会の悲劇性と表象し得るかも知れないが、それはまた、別の時に語ることとしよう。
さて。上の目論見、もとい、願いとは異に、旗本の豪華絢爛な生活は、西都へと移り住んだ後も変わることはなかった。それどころか、東都の邸宅にいた時よりも、幾許か過剰にすらなっていた。大阪にて彼を諫める者が、誰一人とて存在しなかったことが、これに拍車をかけていた。偶然ではあるものの、旗本の新たな主となった西都の城代は、彼の学弟であったが故、その振る舞いに強く口出しをすることが出来なかったのである。
そんな中で、少年は少女と巡りあった。だが、どのようにして出会ったか、どのような言葉が交わされたか。二人の間で、どんな物語が紡がれたか。それらは彼らのみぞが知る。ただ一つ、観測し得る事実とは、この二者の間にで、夫婦になりましょう、と。契りが交わされたことである。
少年は、救われたのだろう。嬉しかったのだろう、彼はもしかすると、生まれて初めて、喜びという感情を、知覚し得たのかもしれない。唯一の肉親によって振るわれた暴力と、それによって形作られた、真っ黒な絶望に塗り潰された牢獄。そんな底のない暗闇に、生まれてからずっと、囚われ続けてきた彼の心が。一体どれ程、少女の存在によって、どれだけの光を得られたのか。彼女が、どれ程の明かりを灯したのか。それらの事実は、第三者である我らからは、決して推し量ることは出来まい。
例え、それがどれだけ陳腐な出会いであったとしても。どれだけ、有り触れた物語であったとしても。少女と出会ったその時、その瞬間に。彼の凍えた心を照らした光は。彼に宿ったその思いは。彼だけの、彼固有のものであろう。他のものが触れること、まして、計量して分析することは、決して出来はしまいだろう。
近付くことは出来ても、触れることは許されない。聴くことは出来ても、分かった気になってはならない。観測者が出来うるのは、ただ一つ。その者の歩みを辿り、それらが残した足跡を、その朧気な輪郭を、細い指先で、なぞるだけ。その心、肌で、音で、光で、匂いで、感じ取るだけ。
己ではない人が掲げた思いに、心に思いを馳せるということは。つまりは、そういうものだ。
絶対に、永遠に。
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しかしながら、少年を取り巻く環境は、刻々と悪化していた。転任の命で今まで以上に鬱憤を抱え込んでいた旗本は、以前にも増して、暴君のように振る舞った。皮肉にも、少年の心を救った女の子の存在が、その傾向に拍車をかけていた。時代に取り残された、如何にも武士らしい武士であった父は、少年と少女の間で交わされた契りを、決して許さなかった。何ゆえにお前は、己より低劣な階級の女を見初めたのだと。ただでさえ未熟で愚鈍な上に、全うな女すらまともに選ぶことが出来ないのかと。旗本の苛烈な憤怒は、それにより強固に組み立てられたどす黒い楔は、少年のを捉え、決して離すことはなかった。
故に、少年は苦しんだ。自分が愛する少女と、正式な婚姻を結びたい、と。契りを結びたい、と。だが、父はそれを許さない。そして、自分は、絶対に父に歯向かえない。では、どうすれば良いのだろう、どうなれば良いのだろう。一体何をすれば、父の許しを得られるだろう、と。少年は、考えに、考えに、考えた。考え続けた。だが、彼は、何も出来なかった。幼少の頃から、抵抗の根を丁寧に摘まれ続け、闘うという択を奪われ続けてきた彼には、他にどうしようもなかった。剛毅で勇猛で、賢才であった父を相手に、真っ向から勝負を挑むには、彼は、あまりにも弱く、優しすぎた。……少年は、その父である旗本と同じく、しかし、全く正反対の理由で。江戸の末期に近い時代を、士族階級として生きるには、致命的なまでに、向いていなかった。彼は、あまりにも臆病で、あまりにも優しすぎたのである。
それでも、あとほんの僅か、ほんの少しだけの時間があれば、少年が紡ぎ続けた思考の意図は、何らかの結論を導き出せたかもしれない。史実とは異なる、別の結論に辿り着けたかもや知れない。だが、無常にも、運命が彼の味方をしてくれることはなかった。それは、父旗本が、幕府の命で再び江戸へと戻されたが為であった。栄誉の凱旋でもない。懲罰が完了したからでもない。まして、その能力を要する緊急の事態が発生したからでもない。大阪への出向を命じられたのと同様の理由、即ち、懲罰として、父は再び、江戸への帰還を命じられたのである。
その罪状とは。僅か壱弐にも満たない公家の少女を、己の正妻として招いた、故に。
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旗本は、至らない息子に愛想を尽かしたのかもしれない。公家の血を招入れることで、家の格を上げたいと願ったのかもしれない。もしくは、より単純に、高貴な身分である若い女に対して、劣情を催したのかもしれない。だが、動機はどのようなものであろうと、彼の行為は、当時の価値規範においてすら、許されるものではなかった。それはまた、彼の日常の素行である、過剰に豪奢な生活とは、比較にならないほど、重い罪状であった。内々で留まっているのなら未だしも、他家を巻き込んでいるのならば、最早見過ごすことは出来ない、と。上は、父を呼び戻し、仮初の罰ではなく、実刑、即ち厳重な降格処分を下した。それが誇り高い旗本にとって、どれ程の屈辱を与えたかは、想像するに余りある。例え、それが己の不徳故の結末であったとしても。そして、それ故に。父に歯向かうことが出来なかった少年は、再び、父に引き連れられ東都へと引き戻されることになった。
彼は、少女のことが、恋しかったのだろう。少女の存在は、彼の中で、心の救いであったのだし、生きる目的の一つとして、昇華されていたのだから。それ故、少年は二回に渡り、江戸の生家を出奔し、大阪へと足を向けた。一度目は、道半ばにて心に迷いを抱き、断念し、江戸へと戻った。もうこれが最後であっても良いと、心に誓って出奔した二度目は、少女の生家まで辿り着いたものの、そのあまりにもみすぼらしい姿に驚いた、少女の母より、門前払いを食らった。決死の覚悟を決めた、二度に渡る長旅の果てにも、彼は終ぞ、少女に顔を合わせることが出来なかった。或いは、彼が、僅かばかしでも、己の父の気質を受け継いでいれば。少年は再び、少女に逢い見えることが出来たかもしれない。少女の母を乗り越え、再び、言葉を交わすことが出来たかもしれない。だが、彼にはそれが出来なかった。彼は失敗した。失敗する他なかったのだ。
少年にとっての更なる不幸は、彼が、己の矛盾―武家の長男であるにも関わらず、それらしい気質を何一つ持ち合わせていない、ふがいなさーに、幾分か自覚的であったからことである。一度目と二度目の旅の間に、彼は出家を試みていた。こんなにも苦しいのなら、いっそ全てを忘れてしまおうと。俗世間を捨て、武士としての己を捨て、そして、少女のことまでも捨てて。全ての手放し、聖者としての生を歩もう、されど、彼には出来なかった。少女への思いを捨て去るほどの覚悟を、彼は持ち合わせていなかった。その情は、浅くなかった。どこまでいっても、少年は臆病で、弱虫で。愛情深く、優しすぎた。そんな自身を、しかしながら、彼は深く恥じていた。どうして、自分は父のようになれないのだと。武士になれないのだと。
……もしかすると。この物語の真の悲劇とは、このように言い換えることが出来るかもしれない。即ち、少年が生来持ち合わせていた優しさ、その深い愛情とひたむきさを、正しく評価する者は、当時の社会において、誰一人として存在しなかった。彼の抱える気質が、その真摯さが、人間存在にとって、どれほどの美徳で、美点であるか、気づく者は誰もいなかった。
少年自身、すらも。終ぞ、気づくことができなかった。