壱話 Ⅰ
「昔々、あるところにおじいさんとおばあさんがいました。おじいさんは山に芝刈りに、おばあさんは川に洗濯に行きました―。」
「と、いうような話を。我は語らうつもりはない。我の語りの登場人物は、何らの冒険もしないし、何らの戦いもしない。何らの英雄的な行為をもしない。それどころか、正しく振る舞うことすらもしない。みんな幸せに暮らしました、めでたしめでたし、で終わることもない」
「我の物語は更に、何らの優れた教訓を齎すことをもしない。正しいことをしましょう、だとか、頑張って生きましょう、だとか。そういったことを暗喩するつもりはない」
「我が語ること、触れること。我が紡ぐ語り。それは、時代性に縛れ、正しく生きられず、それでも藻掻き続けた者が、今際の際に紡いだ、回顧録だ」
「即ちは」
「ある、愚かな男の物語だ。少年のままでの心で、時が凍り付いてしまった、哀しい男の話だ」
「時代と、天運と、武士の後継としての身分と。何よりも、己の裡なる純朴さに導かれ、全てを失ってしまった」
「凡庸な少年の、人生の、物語だ」
「……その歩みを、愚かと嗤うも宜し。その優しさを正しきと、感じ入るも宜し。かの少年の生を、どう判断するかは、汝の了見に任せよう」
「何せ、ここで語られる全ては、遥か過去にて既に決着がついてしまったことなのだからな。……この後に及んで今更、彼を嘲笑おうか、或いは同情せしめようが。天より何らの罰は下るまいさ」
「……最も。我とまみえることを可とする汝なら、もう少し風変わった結論を、出せるかもや知れんな。期待しておるぞ?」
「……」
「さて」
「長ったらしい前口上は、これぐらいで良いだろう」
「しからば、長き夜を始めるとするか」
「ただただ、優しいだけであった、愚かな少年の、物語を」