零話 Ⅲ
しずしずと、そして、じとじとと。降り続ける、雨を後ろに。お狐様は、僕に訊ねます。とっても、真剣な声色で。そう、思えてしまう、ような雰囲気で。
そうですね。
「僕は」
…。
「なんで、ここに来たんでしょうか?」
お狐様の、耳が、ぴく、と。少し動きました。
「いや、問うているのは我なのだが」
「そう、です、よね」
でも。
「分からないんです。…ここに来た理由も」
そして。
「僕が、何をしに来たなのかも」
「…ほう」
お狐様の、尻尾が。ぴん、と。立ちました。琥珀の瞳に、一瞬だけ。少し、陰りが宿ったように見えます。
その、小さな小さな手を。黄金の、髪に、当てて。少し、考え込むような仕草を。して。
「ふむ、では質問を改めよう。汝は、何者なのだ?」
あるいは。汝は、汝自身をどのように規定しているのだ?と。
お狐様は、続けます。その琥珀の瞳に、ややもすると、真摯さを。宿して。
「僕は」
…。
「僕は」
答えを、考えようと、して。返事を、紡ごうとして。
「何者、なのでしょうか?」
分かりません。何も、かもが。
僕が、何者なのか、何で、ここに来たのか。その、全てが。
忘れられて、そして、凍りついた。この場所に来てから。いや、来たから、なのでしょうか。
僕には、何もかもが、分かりません。いや、分からなく、なりました。
本当に。どうして。
僕は、此処に立っているのでしょうか。此処を訪れたのでしょうか。そして、お狐様と会話しているのでしょうか。
いや、あるいは。もしかすると。
実は、遙か、昔から。僕は、何も分かっていなかったのかもしれません。単に、ここに、来たから。それが、くっきりと、見えてきただけの話であって。
本当、なんなのでしょうか。
言葉を、無くして。長々と考え込む、僕を。お狐様は、じっと見つめています。黄金色の耳と、しっぽを、ぴんと、立てたままに。
そして、突然、笑いだしました。
おかしくておかしくて、たまらない、と。いったような感じの、笑い方です。お腹の底から、大きく、大きく、声を上げているような。
そして、また。琥珀の瞳に、大粒の、涙を浮かべて。ところどころ、言葉をつっかえながら。
「はは。これはまた、何とも滑稽だな。忘却されし民である汝が、汝自身を忘れてしまっているとは。己の存在すら規定出来ぬとは。ああ、何とも笑える事態だな。何とも悲劇的で、何処までも救いが無い話だ」
…。
ちょっと、訂正。
お狐様は、面白くて、笑っているといった訳では、なさそうです。
寧ろ。とっても、とっても。悲しそうに、寂しそうに。そう、見えました。
辛いことを、どうしようもないことを。笑い飛ばそうと、しているような。そんな、笑い方に、見えました。
でも、なんで、悲しいのに。笑うのでしょうか。そもそも、なんで、悲しいのでしょうか。
分からない、こと、だらけです。
「汝は一切が分かっていないのだろうな。ああ、分かっている筈も無いだろう」
目尻に涙を浮かべて。お狐様は、続けます。
笑声を、皓々と。息も、絶え絶えになりながら。言葉を、紡ぎ続けます。
「久方振りに物語を興じようかと思えば、まさかこれ程までの悲劇に出逢おうとはな。まだ青葉にすら満たぬ程の童と会話していることが一つ。そして、その童が自己の物語すら紡げないほどに壊れてしまっているのが二つ。はは、何たる悲劇で、果てなく虚しき事態ではないか」
…ええと。その。
「ごめんなさい」
こんな、時は。訳が、分からなくなった、時は。謝れば、良かったのでしたっけ。
すると。
お狐様は、笑うのを止めて。古びた着物の、裾を。目尻に当てて。涙の雫を、拭って。
そして。
「ならば。最後に、もう一つ汝に問おう」
続けて。
「汝、名を何という?」
…。
「分かりません」
「やはりか。そう、だろうな」
我が意を至り、と言わんばかりに。お狐様は大きく頷きます。今度は、僕のすぐ横から。僕の肩に、頭をもたれかけて。
どうやら、また。何時の間にか、移動を、していたようでして。
「汝は即ち、己の名を標に記すことすら許されなかった者なのだな」
と。お狐様は。静かに、呟きました。今度は、僕の顔を視ずに。銀の雫が注ぐ、暗灰色の夜空を見上げて。
つられて。僕も、夜を見上げます。曇っているから、でしょうね。お星さまも、お月様も。何も、見えません。何も、ありません。
そのまま、僕と。お狐様は。何もない、空を、見上げ続けます。
何も、ない。そして、何も、起こらない。時間だけが、刻まれる、凍り付いた世界が。
耐え切れなくなったのは。僕が、先でした。
「僕のことを、助けてくれませんか」
「出来ぬ」
と。お狐様は。
「先に汝に告げた通りだ。我は観測者に過ぎぬ存在だ。汝の救済、ましてや、記憶の再構成を遂行する術を、我は持ち合わせておらぬ」
ぴしゃり、と。
「苦しかろうが、哀しかろうが、辛かろうが。汝は、自らの手で己の物語の幕を下ろさねばならぬ。己自身で己を救う、その行為のみが、汝の紡ぐ終章に齎される救いの記述となる」
僕を、一度たりとも見ることなく。その琥珀の瞳を。空に向けたまま。お狐様は告げました。
やっぱり、とっても難しいです。お狐様の言葉は。
「では、僕は」
ええと。
「頑張って。一人で、全部思い出さないと駄目なのですか?」
どうして、こんな場所に、彼方側に。何のために、何を求めて、来たのか。来てしまったのか。そもそも僕自身が。何者であるか。
そして、どうして。何も分からなくなってしまったのか。
思い出さないと、いけないのでしょうか。たった、一人で。
でも、一体、それは。何のために。
「ふむ」
考えながら、悩みながら。問いをかけた、僕を尻目に。お狐様は。
「確かに我には汝を救えぬが。しかし、汝が思い出す手助けは出来るかもや知れんな」
と。再び、夜から、僕へと。目を移して。
まるで、僕と、同じように。ゆっくりと、言葉を選んでいるようで。
「汝、汝の如き者どもが紡いだ物語に関心はあるか」
それは。
「僕と、同じような、者ども?」
「うむ」
我が意を。得たり、とばかりに。お狐様は。
「汝のように、己を忘れ、物語る能力すらも失った者の話は流石に知らぬが、それでも、だ。我は、汝のような零細の民が紡いだ物語を、幾百も、幾千も、幾万も、存じておる」
と。
「それらの物語の中には、もしかすると汝に近き境遇の者の物語が含まれているかもしれぬ。…断言こそ出来ぬが、それらは汝が己を再び拾い上げる為の一助となるかもしれんな」
僕に、告げました。今度は、その顔を戻して。
僕の、姿見を。その瞳に移して。
「どうする。彼方である此方に留まり、我の話を聞くか。それとも、此方に戻るか。その選択は汝に任せよう」
…それは、僕に。選択がある、ということなのでしょうか。この道を、戻って。どこかへと。再び。
でも。分からないまま。彼方に、帰ったとして。きっと、そこには何もない、のでしょう。
それ、なら。お狐様と話したら、あるいは、もしかしたら。何か、分かるの、かも知れません。そう、思わずには、いられませんでした。
右に、暖かな感触が。お狐様は、また、僕の隣に、座っていました。狐耳と、尻尾を、へたらせて。雨水を、金の髪から滴らせて。
静かな時間が続きます。雨音だけが、響く、とても、穏やかな時間が。
その、時間を。切り裂いたのは。沈黙に、耐え切れなかったのは。また、僕の声でした。
「お狐様。良かったら、ここにいさせてもらえませんでしょうか」
続けて。
「この場所なら、この凍りついた世界でなら。何かとても大事なことを、思い出せそうな気がするんです」
「…やはり、汝はそう選択したか」
お狐様は、遠い目を。ここでは無い、いや、ここにはもう無い場所に、思いをはせている。それでいて、それをじっと見つめている。そんな感じの雰囲気でした。
そして。
「御意に。元より、我が所有する場所でも無いからな」
…そして。
「ありがとうございます。では、すこしだけ。いや、最後まで。ここに」
お狐様は。寂しげに、小さく笑いながら。
「では…。永く永く、語り明かそうではないか。語られることなく潰えた、数多の忘れらし者どもの回顧録を」
物語を、始めました。