零話 Ⅱ
「さて、と。まずは、汝の誤解を解いておいてやろう。我は、この地の守り神のような存在では無い。彼の柱は、既に隠れてしまっているのだ」
中々に、面白い奴だったのだが、と。狐さんの子…いや、狐さんは呟きます。どこか、懐かしげな、表情を見せながら。
昔を懐かしむような表情で、そして、柔らかな、声色で。
集落の中の、唯一崩れずに残っていた空き家の軒下に。僕と、狐さんは体を寄せ合って座っています。一緒に、目の前でごうごうと流れる、小さい川をぼんやりと見つめながら。電気も無いので、殆ど真っ暗です。埃や黴と雑草が入り混じった、何とも古ぼけた匂いが鼻につきます。腰を掛けている軒も、みしみしと軋んでいます。それこそ、まるで今にも壊れそうな。
でも、こういうの。嫌いじゃないです。嫌いになれる、筈がありません。
僕は、狐さんに。問いかけます。目の前の川を眺めながら、ですけど。
「それでは。狐さんは、何者なんですか?」
ふむ、と。一呼吸おいて。
「聞いて驚くなよ」
と。狐さんは、一度。言葉を区切ってから。
「我は、須らくの忘却と記憶のを司る、守り神だ」
と。にっこりと、笑って。柔らかな声色で、告げました。
「神といっても、我には汝ら現代人が想像するような大業や奇跡を為す力は一切無いからな?そこまでの神格、もとい役柄は、我には与えられていないのでね」
…ええと。記憶と忘却、って。
神様って。
どういうことなのでしょうか?
「じゃあ、狐さんは…ええと、じゃなかった、お狐様は…その、どういったことをしているのですか?というか、どんな神様なんですか?」
「ほう。汝は即ち、我に課せられし役を問うているのか」
始の質問にしては中々、と呟き。少し考える仕草をしてから。お狐様は続けます。
「我は、名も無き民、寄る辺無き民が抱く、素朴な信仰によって具現化した概念だ。…彼のものどもが抱いた、ただ一つの願いー忘却されたくない、されたくなかった、そのような意志を、祈りを叶える身である」
…ええと?
「世間から忘れられし者、或いは、見捨てられし者。自らの物語を一切語ることなく、また、語る機会すらも与えられず、後世に何も遺すことなく、ただ無常の死を遂げた者。…そのような境遇に置かれた者が、どうしようもなく絶望した際、或いは、ただひたむきにそう望んだ際、若しくは、己の最期を迎えた際。その者どもが自らの生の有り様を聞いて欲しいと強く希求した時、我は眼
何せ童と語るのは久方振りだからな、と。お狐様は、その小さな手を、顎に当てて。どうやら、悩んでいる前に現出する。そして、者どもが紡ぐ幾多の物語に、耳を傾けるのだ」
…うーん、いまいち分かりません。何とも、小難しいです。複雑です。いや、本当に。
「少し抽象的に過ぎたか。ううむ、何と説明すれば良いのか」
随分と、深く。考え込んでいるようです。眉間にも、小さな皺が寄っています。ぴんと、立っていた耳も。心なしか、少し萎れているような。
「…ふむ。演繹的に、我が存在を我の役柄から規定するならば。我は記録者、と称される存在に近いのかもやしれん。忘れられたくないと望む者の眼前に現れ、その者に寄り添い、その語りを記録する。即ち、我はそれらの役柄を引き受ける柱だ」
…分かるような、分からないような。記録する、神様?
「つまり、お狐様は…ええと、その、人の話を聞いて…それで、その悩みを何とかする、みたいな?」
つまりは、カウンセラーのようなものなのですか?
「まあ、概ねそのようなものと思って貰っても構わぬが。最も、我は他者の救済には一切関与せぬがな。我はあくまで、その物語の聞き手を務めるだけの存在に過ぎぬ」
と、一度切ってから。お狐様は。囁くように、でも、とても力強く。続けます。
「その意味に於いて、我は神と呼ぶべき存在には値せぬかもや知れぬ。我はただ、極めて永い時に渡り、零細の民と寄り添っていただけの存在なのだから」
そう、でしたか。と、いうことは。
「え…?それじゃあ、神様がすることって、ただ、話を聞くだけ?それも、ええとその、どうしようもなくなっちゃった、人の?」
「うむ。その理解で差し支えない」
「…神様なのに?」
神様、なんだから。その、話をしている人の。悩みというか、そうなっちゃった状況を出来ないんでしょうか?
だって、その人たちって、えっと、要するに追い詰められているんですよね?だから、お狐様に話しているんですよね?零細、だとか、絶望している、だとか。とっても難しい言葉で言い表していましたけども。
だったら。そうなっちゃった状況を、ええと、解決した方が良いんじゃ?
そう、尋ねると。お狐様は、呆れたような、戸惑っているような。色々と、入り混じった、表情を、浮かべました。気を害している、ようには見えないのが救いですけども。
「だから汝に伝えただろう?我は、汝が想像するような偉大を為す力は保有しておらぬと。それらの役柄は、他の柱共が担う領域だ」
…へえ。
こういうの、何て言うんでしたっけ?
…ええと、むのう?
「汝、邪な考えを抱いただろう?」
あれ、まさか。
ばれた?
「我を無能と罵るとは、良い度胸をしているではないか」
別に、罵ったりしてませんって。
と、いうか。何で僕の心を読めるんですか。
「汝の表情は実に分かり易いからな」
え。まさか、そこから?
「自己弁護という訳では無いが」
僕の考えを、断ち切って。お狐様は、ちょっと呆れているような声色で。そして、目を細めて、僕を見つめて。こう、告げました。
「そもそも、の話だ。我を含む神々と呼称されるものどもは、汝らが抱える問題やら悩みとやらを魔術や霊力で解決するような、都合の良い存在では無いぞ?我らは汝ら人間が抱いた信仰が結晶化した概念体であって、それ以上でもそれ以下でも無い」
いつの間にか、ぽつり、ぽつりと。漆黒のお空から、雨粒が段々と降ってきました。少しずつ、勢いを付けながら、降り注ぐそれは。雑草や土を、だんだんと銀に浸していきます。
左の太ももに跳ねた、銀の雫を、眺める僕を。横から、見つめる、お狐様は。
「我ら神々は須らく、汝ら人間の頭の中の妄想が具現化した存在に過ぎぬ。我が知るところの言の葉で表現するならば、そうだな、汝は気狂いである、或いは、特異な形式の分裂症を発現しかけている、とも言える」
とても穏やかな声色で、語ります。
それも、いつの間にか。僕から見た、下から。
ふさふさの、黄金の、髪を。僕の膝に、横たえて。寝ころんで。足を、延ばした状態で。
いつの間にか。僕は、お狐様の、膝枕をしていました。ぴょこぴょこと動く耳が、お腹に当たって。少し、くすぐったいです。
それは、神社の時と同じで。本当に、いつの間にか、そうなっていた、そこに在った、としか言えないような、自然さで。
不思議、ですね。本当に。不思議です。
「つまり、僕の隣にいて、今僕が話しかけているお狐様は、…その、僕が想像している存在なのでしょうか?」
「当たり前だ。我との会話も、汝が心の中で広げている、いわば禅問答のようなものだ。心霊とは、須らく、そのようなものなのだからな」
「それは、どういうことですか?」
さっき、お狐様に心を読まれたのって。
「…全く本当に、汝という奴は…」
どうしようもないぐらい、救いの無い奴だな、と続けて。お狐様は、僕の、身体に。寄りかかります。そのまま、僕の顔を見上げる、形に。
「神、霊、妖、怪異、その呼称はどうでも良い。我らは全て、現実と虚構の間にのみ在ることを決定付けられた存在だ。そのようにしか存在出来ないと人に定義付けられているのが、我らなのだ」
下から、僕を、見つめ続ける。神様の琥珀の瞳は。でも、僕は映っていないようでした。
僕の顔の先の、真っ暗なお空の上に、隠れてしまっている。星々を。そして、その遙か先にある、黄金の、お月様が。映っているように、思えました。
「どうしようもなく苦しい時、悲しい時。或いは、突然の災厄に見舞われた時。人は、何故、私だけがと、神に問う。理解不能の現象に直面した際に、怪にその根拠を求める。親しき者直面した際、まだ現世にその残滓がある、と霊を信じる」
しずしずと、降り注ぐ雨を背景に。お狐様は、ゆっくりと。言葉を、紡いでいきます。
「現実と虚構の境界線上を揺れ動く我らは、無意識の中で、真なるものと判断された際、或いは、真であって欲しいと望まれる際に、初めて現実として顕現する。その者のみの心象として、いわば、無意識が意識に顕現するといった形で、眼前に立ち現れるのだ」
彼方から、此方へと。瞳の焦点が戻ります。そして、僕の顔を見て。にっこりと笑いました。
「故に、だ。我が先に、汝らが抱える悩みを解決する力などを持たぬ、と告げたのには、このような理由があるのだ。人間が現実で為し得ぬ物事を、人より遥かに繊細な存在である我らが出来る筈も無い。ただその者の傍に寄り添い、その言葉を聴く。我には、それしか出来ぬのだ」
そう言って、お狐様は。僕から、顔を戻して。目を瞑ります。眠そう、なのでしょうか随分と、気持ちが良さそうです。
お狐様を膝枕しながら。いや。お狐様を、膝枕をしていると、そう思い込みながら、とすべきなのでしょうか?僕は。静かな声で。
「それでは、僕が、信じなくなれば。お狐様は消えるのでしょうか?」
「理屈では確かにそうだが、そう簡単には為し得られぬぞ?」
目を瞑ったまま。小さな、吐息が。そのまま聞こえるような、距離で。お狐様は。悪戯っぽく、笑います。
「我を消滅させ得るには、汝は汝自身の無意識を変革させねばならぬ。だがな、正しき意味での無意識を、汝が意識的に操作することは概念的に不可能だ。何故なら、知覚できない領域に存在するのだからな」
「そう、ですか」
「うむ。汝の想像に規定される存在でありながら、我が想定外の言動を取り続けるのは、我は汝では制御できない領域に属しているからでもある。最も、自覚的に意識を変化させるように行う、と見せかけた振る舞いは可能であるがな」
また、稲の匂いが、ほのかに。
「それ故に、我の発言や存在の真偽を問うことも、無意味に等しい。我は正否で語れる、理性の、そして現実の次元から隔たった位相にいるのだからな」
「なる、ほど」
すとん、と。
お狐様の、ひとこと、ひとことが、僕の中に染み入って来ます。決して、僕では、分かりない。でも、やはり。僕の一部だからなのでしょうか。諭すような、あやすようなお狐さんの言葉は、とても、分かりやすいと、思いました。
「さて。我の至極下らん良い神義論はこの程度にしておこう」
と、告げて。寄りかかっていた、体を起こして。お狐様は、真正面から、僕を覗き込みます。
とっても、近いです。小さな吐息が聞こえる距離です。なんだか、ちょっと。いや、とっても。恥ずかしいですね。
「汝は、何故に此の地に踏み入れたのだ?地図にすら名を遺していない、忘却された大地に」
続けて。
「我が視え、そして我と語り合える以上。汝もまた、忘却されし人々の墓標に名を連ねる、零細の民の一員なのだろう?」
そして。
「汝は、我に対して、何を物語りたいのだ?」