零話 Ⅰ
「あなたが、この村の守り神ですか?」
あちらこちらがボロボロに剥げてしまった道を、長いこと歩いて。人ひとりっこいないような集落を幾つも通り過ぎて。使われていないまま、放っておかれた車の中で寝泊まりしながら。
一人ぼっちで。ずっと、ずっと。歩き続けて、ようやく。僕は。
草がぼうぼうと生い茂っていて。たった一軒、取り残されたかのように、ぽつんと立っている、空き家と。風に吹かれて、ひとりでに揺れる、錆びついたブランコと、その向かい合わせに立っている滑り台と。そして、とてもとても、ちっぽけな、ぼろぼろの社だけが残されている。そんな、とっても小さい、集落の残骸とでも言うべきような場所に。僕は、ようやく辿り着きました。
当然ですが、他のひとは、いません。あるのは、風に吹かれて揺れる、碧の草むらの音色と、空き家の裏をごうごうと流れる、川の音と。
それと。僕の、問いかけだけです。何もない、空っぽに向けて、響いた。
答えなんて、返ってくる筈も無いのに。そんなことは、分かっているのに。
もう、どんな地図にも載っていないような、それこそ、古い郷土史の中か、あるいは、人々の思い出の中にしかないような場所です。何もかもが、昔のままで、取り残されて、あるいは凍りついて。それでいて、少しずつ、ぼろぼろと、あちこちが解れて、崩れ落ちて、そして、溶けていってしまっているような。そんな場所です。
こんなところの、社の前に、わざわざ来て。そして、誰もいないのに、問いを口にするなんて。僕は何がしたいのでしょうか。
どうして僕は、こんな。此方に、いるのでしょう。
どうして、僕は。彼方に、留まれなかったのでしょう。
何もかもが分からないまま。それでも、いや、だからこそ、なのでしょうか。問わずには、いられませんでした。それが、例え、何もない。空っぽを相手にして、であっても。
僕は、もう。僕自身の行動を、説明できません。
本当に、僕は。何を求めて、ここに来たのでしょうか。どうして、ここにいるのでしょうか?いや、どうして、ここに。来てしまったのでしょうか。
ふと。
「…ったく、久々の来客と喜び勇んで出てみたら…来ているのは、ただの年端のいかない童じゃないか。早く帰れ」
誰もいない筈の、空間を。柔らく裁断する、声が。暖かな、橙の声色が。
さっきはいなかった、とか、今出てきた、とか、そんな風な感じでは無く。ずっとずっと、ただそこに、あったとでも、言うべきなのでしょうか?いつの間にか。社の中の、辛うじて朽ちないで残っている、お賽銭を入れるところに。
袖や紐があちらこちら解れている、ぼろぼろの、和服を羽織った。僕と同じくらいの歳の子どもが、腰を掛けて座っていました。
男の子なのか、女の子なのか。いまいちよく分からない見た目です。ただ、ぴょこんと、頭から生えている狐さんの耳と、ふさふさとした黄金色のしっぽ。そして、お月様のように、まんまるとした琥珀の瞳。人ではないことだけは、間違いなく確かな。そんな、見た目をしています。
その子は、僕のことをじっと見つめています。それも、少し、怒ったような顔で。
「ほら、帰った帰った。こんな場所に、汝のような者が来るんじゃない」
あまり、神様っぽくない。そう言ってしまっては、少し失礼になってしまうのでしょうか?随分と可愛らしげな声です。舌足らず、というほどではありませんが。ひとことひとこと、ゆっくりと噛みしめながら話している。そんな感じです。
どうしてかは、よく分かりませんが。僕は、そんな不思議な光景を見ても。そう驚きませんでした。
さっきの問いかけを、もう一度。今度は、目の前に座っている、不思議に可愛らし気な狐さんの子に、向けて。
「やっぱり、あなたがここの神様ですか?」
狐さんの耳が、ぴんと立ちました。ほう、とでも言いたげに。琥珀の瞳を細めて、僕の顔をまじまじと見ます。興味の色が、顔に津々と浮かんでいました。
「ほう。汝には、我が見えるのか。これはこれは、まさかこの平成の世にこんな童が現れるとはね」
思わず、答えを返してしまいます。
「はい。…僕は、此方側の人間ですから」
…ん?
言ってから、気づきます。此方側、とは、また。どうして、僕は。そのような言葉を、選んだのでしょうか?
「しかも、ただ見えるだけでなく、我と話せてしまう、とは」
混乱する、僕を余所にして。
声に、微かな喜びを交えて、そして、顔に、懐かしさを灯しながら。ゆっくりと尻尾を揺らしながら、僕を見る狐さんの子からは。さっきまでは少しあった、警戒心のようなものが無くなっていました。紡がれた、次の一言には、穏やかさと。少しの、笑いの含みが。
「立ち話も辛かろう。社の裏手にある屋で、永く永く、物語ろうじゃあないか」