その理由を
「どうぞ」
返事で扉を開ける、白衣を着ても細身な男性がこちらを見た。
いつもよりも彼の表情が柔らかい気がする。彼はこの研究所の副所長をしていて、僕としても付き合いは長いがこんな表情はあまり見たことがない。今回の事件が余程嬉しかったのだろう、彼の笑顔に繋がっているようだ。
彼はいつも一人でそして寡黙だ。自身から話すことはない、故に彼は無表情で何を考えているかよくわからないと言われる。
「まさかこのようなことになるとはね、まぁ君を失わずに済んだのは幸運だと思っているが」
「…M-316はこれからどうなるんですか」
「君の判断次第だね、聞かなくても答えはわかるけど」
副所長は眼鏡の位置を直す、彼には僕の考えなどお見通しのようだ。僕は安堵から息を漏らす、それを見た彼は口角を釣り上げて笑った。
「安心だろうね、職員を殺した個体は基本処分だろうから」
実験中に暴走した個体に対して、射殺が許されている実験施設が多い。この施設もそうだ、実弾が許され実際に射殺された個体もいる。
死なずに捕獲されたところで処分は変わらない、もしくはサンプルとして保存されるか。どちらにせよ生きる余地などないのだ。
笑っている彼に対して僕は感情を抑えて話す。
「なんとも思わないですか」
「その問いはどちらに対してかな? 」
副所長は腕を組みながら返した、僕はもちろん両方に対してだと伝えると彼は鼻で笑う。分かっていて僕に聞き返しているんだろう、僕とは対照的でその表情を変えることがない。
「そういうところは相変わらずだね、君は実験体にも同僚にも肩入れし過ぎじゃないかな? 」
「僕はそうは思わないです」
「ふふそうかね。マイカの死に関してはまぁ、仕方ないだろうね。M-316が行ったことは正当防衛だろう、なんせ君を護ろうとしていたようだし」
そう僕はM-316に救われたのだ、それに関しては相違ない。
目の前で人間が氷漬けになった、信じられないと瞬きする間もなくだ。マイカの足元から放たれた冷気が広がり、そのまま彼女を覆ったと思ったら凍り付き始めたのだ。
彼女の脚が凍って止まり、そして彼女自身が凍りの枝となり最期は氷の柱に閉じ込められた。閉じ込められた彼女は叫びを上げるどころか、息すらできないままそのまま死亡した。
M-316が魔導の力を使ったことにすぐ気が付いたが、氷の柱から視線をそちらに向けるとぐったりと倒れた彼女が居た。
彼女を抱き上げ、その場を離れた。他の職員に助けを求めるとすぐさま人が集まり危機から脱したが。
狂気に堕ちた彼女の体は厚い氷に閉じ込められたまま、現在分析のために回収され冷凍室の中で保存されている。
M-316は対魔導室で拘束、僕と言えば斬られた手を手当てされここに呼ばれたぐらいだ。
副所長はマイカにもM-316にも言葉なんて掛けない、ただ事象を受け止めるだけで興味などない。淡々としていた。
僕と彼の感情の差が空気を冷たくする。
どこまでも他人事の彼と、どこまでも他人と割り切れない僕。
「同情の余地があるとでも? 君は殺されかけたのに、君はとても甘い」
「あなたにはこうなると分かっていたのでは? 」
「…ふふどうでしょう」
マイカを追い込んだのはおそらく彼だ。彼女の狂気に一番気が付いていながら追い詰めた。そうでなければ、彼がこんなに落ち着いているはずがない。
わざと追い込んだ、それ以外に考えられない。
「君にはこのままM-316の件を担当して頂きたい、よろしく頼みますよ」
そう、笑顔で僕に言った。
***
僕は急いで扉を開けた、対魔導室に入ると白衣を着た者たちがこちらに振り返る。彼らの輪を遮るように歩いていくと大窓の向こう側に少女が居た。
チューブで機械と繋げられた少女はぐったりと床に倒れている、拘束をされ自由を奪われていた。
魔力が暴走した個体を部屋に隔離し、個体の魔力を引き抜く緊急的な対応であり正しいことである。対応は間違いではないはずなのに、その光景がとても残酷だと感じた。
他の職員が制止する中、僕は副所長に一任されていることを伝えて彼女の拘束を解くように指示を出した。
大窓の向こう側の彼女を抱き起しても意識がないまま、とても体が冷たい。低魔力状態なのだろう、安静にすれば回復するだろうがここでは駄目だ。
重たい枷を外すなり、僕は彼女を抱えたまま部屋を出ていった。
僕の部屋は完全に閉鎖されているので、副所長に手配された部屋に入っていく。生活感はなく、必要なものだけが急遽用意された場所だ。そのせいか、ベッドにはシーツもかかってない状態で僕はため息を吐いた。急いでいるのに、M-316をゆっくり床に降ろしてベッドメイクを急いだ。
***
…ここはどこだろう。
すごく寒いの。とても冷たくて、胸の奥が痛くなって。
息が苦しくなってしまう。
叩かれて、髪を引っ張られて、怒鳴られて。
どうしていいか、わからなくなる。
胸を抑えてうずくまっているとどこからか声がした。
『あなたはどうしたいのですか?』
…誰?
『決めるのはあなたです』
私はただ光を見上げるだけ。その声の主は光の中に居るようで、よく姿が見えないけれど…優しい声だった。光が強くなっていき、反射的に目を瞑る。
再び目を覚ますと私は天井を見ていた。あの優しい声は聞こえなくなっていて、知らない部屋のベッドに寝かされていた。
ふと寝息のする方に視線を向けると、博士が椅子に座ったまま揺れている。寝ているみたい、私は博士を起こさないように体を動かそうとしたが腕も脚もピクリとも動かなかった。
体は鉛のように重たくて不思議なぐらい自分の感覚から遠くに思える。動くことは難しい、諦めて私はしばらく横になっていた。
私は一体どうしてここに居るのだろう。
最後の記憶を辿るように目を瞑った、私は確か博士を護ろうとして…どうしたんだろう。あれは夢だったのかもしれない、そう目を開いた。博士の手を見て、あぁ夢じゃなかったと再び目を閉じる。
博士の手には白い布が巻かれていて、どう見ても怪我をしていた。
夢なんかじゃなかった。
私は博士を護りたいと強く願ったことは、事実だったんだ。
どうしてそんなことを思ったんだろう、私は博士が傷付くところを見たくなかった。私と同じように、痛い思いなんてしてほしくなかった。
…それだけ?
それだけで、怖かった人に大声を出して立ち向かっていけるの?
「…私は」
私の中で何かがぐるぐると巡っている感覚がある。
女の人はとても怖かったのに同じ立場の人なのに。どうしてなんだろう。私はどうしてこの人は怖くないんだろう。
「博士、は」
ゆっくり思い出していく、博士は刃を振ってくる女の人から私を護ろうとしてくれた。
理由はそれだけなのかもしれない。
私は動かない手を無理矢理動かして博士の手を掴もうとする。
この人が私を護るというなら私も、彼を護りたい。
それだけでいいのかもしれない。
手が届かない、体をゆっくりそちらへ動かしていく。あと少し、指を掠めて離れてしまう。少し勢いをつけてやっと博士の手を掴んだ。
博士の手はとても温かくて、落ち着いた。
私はここに居ていい、そう言われているようで。