悲劇が凍る
M-316は瞬きをしていた。
その目の前の世界は彼女にとってとても明るかったのかもしれない。
僕は彼女を自室に招いたのだ、あの狭く寒い檻は彼女の心を凍えさせてしまう。彼女の世界をあの中で終わらせていいはずがない。
「どうぞ」
扉の前で立ち止まっている彼女に僕は話しかけた。
「…いいんですか」
「どうして?」
僕の問いに彼女は俯いてしまう、きっと突然の待遇の変化に戸惑っているのだろう。今まで床で寝ることが当たり前な彼女はとても困っているのだ。
「…勝手に外に出たら、怒られる、から」
「僕の部屋だからいいんだよ、あそこはとても寒いし。現責任者は僕だ」
俯いた彼女に目線を合わせるように僕は覗き込んだ。僕の表情から少し彼女は安堵したようで、僕の部屋に招かれた。
目の前にはよくわからないものがたくさんなら並んでいる。
ここあ、と同じで博士が作ったものなのだろうか。
博士が私の顔を見ながら作ったものに対して話をしていた、私はただそれを眺めて聞いている。初めてのものばかりで覚えることに集中してしまう、そんな様子を博士はじっと見ていた。
じっと見られることは慣れているはずなのに、いつもとは違う。博士の目が怖くないからだろうか、この人の目はあの女の人の目とは違う気がする。
「作り置きばかりなんだけど、食べられるかな? 辛いかもしれない」
博士にその名前を教えてもらったそれに手を伸ばす。それはたしか、かれーと呼んでいた。渡されたもので掬うのだろう、これはたしかすぷーんと言っていた。
うまく掬おうとしているのに、とても難しくてこぼれ落ちてしまう。ゆっくりでいいんだよ、と博士から言われて私は落ち着いて口の中に運んだ。
ここあ、とは違う。違う味、驚いたのはそれがとてもいろんな味がすることだった。舌の上に広がった、言葉にできない風味。
「…からい?これがからいというのですか?」
「これがカレーの味、どうかな」
「よく、わかりません。けれど…また口に運びたくなる味がします」
再び口にそれを運ぼうと奮闘する、掬い上げて口に運んで。それが止まらない、不思議な味だった。
黙々と食べている私を見て博士は「全部食べていいよ」と笑顔で言ってくれた。
食事を終えると博士が私に服をくれた。たぶんきっと博士のもので、とても大きかった。私はそれだけでも嬉しいのに、博士はここで寝ていいと言ってくれた。
私はとても不安になって俯いてしまう。
「こんなに、いいんでしょうか。不安です」
ぽつりと私は言葉を漏らした、突然の変化が不安にさせる。しかもそれは良い方へと向かっている、ただ良い方へと。
あの檻の中でただ寒さに耐える、あの時とは全然違う。
「今日からはこれでいいんだ、これで」
博士は静かに私の頭を撫でた、その手はとても大きくて怖いはずなのに。博士の手はとても優しい気がした。
***
僕はベッドで眠っているM-316の様子を観察し、就寝することにした。彼女の体は不安定だが普通に生活している分には問題がないのかもしれない、現に彼女が吐血したのは実験中のみだ。
ご飯を食べたり、こうやって眠ったりする分には普通の少女と変わらない。
「なんて残酷なんだろう」
僕らは彼女たちを消耗品のように扱ってきた、普通の人間と変わらないはずなのに。
彼女の眠るシングルベッドから離れ、毛布を片手にソファに座る。Mシリーズの実験報告書を読みながら毛布を広げた。
・旧魔導適合法では限界があるため、我々はパルテオルを使用する【新魔導適合法】を提案する。
・Mシリーズに用いられるパルテオルのPLAは【青の魔導士】の遺灰から回収、増幅を行う。
つまり彼女たち、Mシリーズは【青の魔導士】そのものだ。
しかし完全な復元は難しい。部位の欠損が生じた個体になったり、そもそも魔導回路が備わっていない個体になったり不安定だった。
でも彼らは人間と同じく命がある、生き物のはずだ。319人は亡くなり、最後のM-316だけが生き残った。
…僕らがしたことは決して許されることではない。
その時、扉を叩く音がして僕は体を震わせた。
もう時間は深夜だ、一体こんな時間に誰が…大切な知らせの可能性もあるので無視はできない。少女を起こさないように静かに僕は玄関へ向かった、外をゆっくり伺うように扉を開けると前には女性が立っていた。
僕には一瞬それが誰かわからなかった、言葉が出ないままでいると向こうから口が開かれる。
「ごめんこんな時間に」
口角が少しだけ上がって笑った女性、その声でようやく誰かわかった。
「マイカさん?」
長かった髪はバラバラに切れ、まとまりがなく肩の位置で広がっている。首には包帯が巻かれていてどう考えても異常だ。白衣は着ていたがいつもの彼女と違う。
「どうしたの?それ」
「あぁ、少し切れちゃって」
彼女はヘラヘラとして首の包帯を撫でた。その表情を酷く恐ろしいと思うのは口元が笑っているのに目が笑っていないからだろうか。ふふっと低く笑った彼女の首元を撫でる手は、左手…?
彼女の利き手は右手のはずだ、どうして左手なんか。
「…あはっ」
僕が動いたのはその乾いた笑い声が聞こえたのと同時だった。
扉を閉めようとした僕の手が、彼女の右手に握られている何かを反射的に捉える。視線をそちらに移す、僕の手は包丁を握っていた。僕の体に刺さることはなく、次にやってきた痛みに体が固まった。
彼女は僕を殺す気だ、本能がそう叫んでいる。
「う、うぐっ」
「ねぇ痛い?痛いの?」
彼女の高笑いが聞こえる、赤い血が玄関に落ちて広がって。その血を踏んで体重を乗せて彼女は刃を押し進める。
「私はもっと痛い、この苦痛からどうやって逃れようか考えていたわ、毎日ねぇ」
彼女の目は僕のことなんか見ていない、どこか遠くを見ていて焦点が合っていない。手の奥を切って進んでくる包丁は止まることはなく、僕の胴体を目指している。後ろに下がっても彼女が踏み込む距離を与えるだけだ。
「結果が出ないならお払い箱よ、そうよ、ならこうしてみんな壊すしかないじゃない!」
狂気的な笑い声と痛みで思考が止まる、体だけが本能で彼女に刺されないように抵抗をしているのだ。
どうしてこんなことを。
彼女はここまで追い詰められていたのか。
この状況を切り抜ける思考よりも、彼女のことに思考を巡らせていた。そんなことしている場合じゃないのに。
「は…博士? 」
僕も彼女もその声に振り返った、僕らの方を怯えた目でM-316が見ている。
「来ちゃいけない! 速くにげっ」
「なんであんたがここに居るのよ⁉ 」
僕の声はマイカの怒鳴り声に掻き消された、M-316はその怒鳴り声で足の力が抜けて床に座り込んでしまう。マイカに支配され続けていた恐怖が再び彼女を包み込んでいるのだ。
マイカは突然、包丁を引いて僕を振り払った。痛みで固まった僕の体を簡単にどかして、M-316に包丁を振りながら近付いていく。
「あんたさえ死んでればっ、こんなことにはっ」
包丁から僕の血が点々と飛んで、マイカが少女の正面に立った。少女はただ耳を塞いでじっと体を小さく丸めている、逃げられない。
僕はマイカに突進する、さすがに立っていられなかったのか彼女の体は吹っ飛んだ。庇うように僕は少女の前に立った。マイカは包丁を握りながら立ち上がると再び僕に刃先を向けた。
「あっはは! あははははは! 」
近付いてくる、どうする。このままでは殺される、僕も少女も。
…殺される前に、殺さないといけないのか。話し合いで解決できるはずもない、彼女には誰の言葉も届きやしない。誰の救いも必要としていない。
やるしかない、僕がその覚悟をしたその時。
「…やめて」
少女の声が僕らを止める。
もちろんマイカがそんなことで止まることもない、僕だって相手が止まらないなら止まることは出来ない。
私は震えて動けなかった。息が出来なくて、苦しくて目の前が歪んで…それでも。
博士が怪我をしている、女の人がやった。
それだけはわかった。
「やめて、博士を傷付けないでっ」
博士が私を護ろうとしている、私と初めて会ったときのように。
こわい、あの女の人が怖い。
でももっと怖いのは博士を傷付けられること、だから私は。
「やめて! 博士を傷付けないで‼ 」
叫んで、今度は博士を護りたいと思ったの。博士の前に出て、体が震えているのにそれでも私は立とうとした。転ばないように、そしてもうあの人から逃げないで立ち向かうために。
女の人を睨んだ。
こんな大きな声、出したことがなくて。
女の人も驚いて足が止まった…そう思った。違っていた、女の人はこれ以上前に進めなくなってしまったんだ。
急に辺りが冷たいと思っていたら、女の人の足元が凍り付いていた。高い、音がして、女の人が凍っていく?
ど、うし…
そこで私の目の前が真っ暗になってしまった。