刃を向ける相手は
何年振りか、煙草に火を。
煙をずっと奥まで吸い込んで、止める。ため息と一緒に煙が逃げた、天井に広がる頃には見えなくなり臭いだけが残る。
灰皿もないから床に灰を落とす、視界は天井を向いたままで瞬きも忘れた。
煙草は好きじゃない、むしろ嫌いだ。父親は機嫌が悪くなると決まって吸っていた、部屋が煙くて嫌な臭いがして。絶対に父親みたいにならないと決めていたのに。
私は同じ道の上にいる。
父親は家庭のことを考えない人だった、家にだってまともに帰ってきたことがない。そういう父親が私は嫌いだった。
なにかと実験、研究と家に帰って来ない。帰ってきても部屋で煙草を吸うし、お酒だって飲む。別に暴れるわけでもないけれど、特別これといって話すこともなかった。
そんな父親を別に母親は責めなかった、でも私は違う。父親を憎んでいるし母親も憎んでいる。甘えたいときにいない父を、庇う母も私は嫌いだった。
それなのに父親と同じ道に立っていた。
こっちに来たときに煙草も酒もやめたが、今日はダメだったらしい。煙が自室に広がるたびに父親の顔を思い出していた、父親も何かで立ち止まった時にこうやって煙草を片手に天井を見ていた。
私と父が違うところといえば、研究テーマぐらいだろうか。
私のテーマはパルテオルについての研究だ、M-316のような人工生物の研究をしている。私の国では、遺伝子を取り扱うような研究に対して理解が進んでいない。おかげさまで大学ですら私の存在は浮いた。
そんな考え、遅れている。
私がどんなにそう思っても、彼らは意見を変えることはなかった。
そう、私の両親ですら。
個人レベルの研究で終わると思っていたが彼が私を見つけてくれた。
忘れもしない、彼からのメール。外国語で書かれた文面をぼんやりと読んでいたが、彼はマザルス研究所で副所長をしており私の研究が気になったと連絡をしてきたのだ。
最初は冷やかしだと思っていた。
私の研究の理解者なんて絶対に現れないと思っていたのに。
「…あぁ」
吸い殻を投げる、私は特別じゃなかったようにゴミと同じなのだ。理解者を唯一とし、そしてそれは私だけの話だったということ。
私は私だけが特別だと思っていた。
『M-316の件は僕に一任された。君にはこの実験から降りてもらうことになったんだ』
違った、私は特別じゃない。
彼にとって特別なんかじゃなかった。
私はただの科学者だった、そして結果が出ないなら。それ以下だということだ。
嗚咽が漏れそうになるから、また煙草に手が伸びる。不安、怒り、そして悲しみと惨めな気持ちでいっぱいになる。
私がやっていたこと無駄だったのだ。どんなに足搔いても、手を伸ばしても答えと結果にたどり着くことはない。それは科学者としてあり得ないことなのだろう。冷静に考えればそうだ、私はどうして「私だけは大丈夫」なんて高を括っていたのだろう。
再び、煙が天井に広がる。
「…何が違うの」
私とユウキでは何が違うのだろう。
あいつは全部に恵まれているのかな、人望とか、運とか。私よりもずっと恵まれているに違いない。だってそうでなければ彼があいつを選ぶ理由なんて思い浮かばない。
体がカッと熱くなる酒を飲んだのもだいぶ久しぶりだ。
「…私は結局」
それ以上言ってはいけない。
声が瞬間的に出なくなった。言葉というものは不思議なもので、言った言葉は枷となるのだ。特に私はその影響を受けやすく、言えば言うだけその気持ちが加速していく傾向があった。
客観的に私を見ているはずなのに、その胸の奥に広がったどす黒いものを吐き出したくて仕方がない。
この黒い塊を何かにぶつけるように私は研究を続けていた。そうでもしないと私に存在意義がないからだ。何か、何か形にしたかった。
褒められたかった、認められたかった、愛されたかった。
だから、誰も見やしないとわかっていたのにわざわざ誰かから見られる空間に載せ続けていたんだ。
私が私でいるために、自分を保つために。
でももう。
「終わりだ」
その黒い言葉が空中に投げ出される。
保っていた何かも、壊れないようにしていた何かも、崩れていく。諦めで私の世界が幕を閉じるなら大いに歓迎だ。
私は吸い殻を投げて裸足でフローリングを歩いた。ひたひたと歩く音、冷たい床、背筋が寒くなった。ずっと一人ぼっちの頃を思い出して寂しくなる、子供の頃からその狂気に囁かれていた。
小さなキッチンには生活感はない、そこから使いもしなかった包丁を取り出す。
狂気は囁く、身を委ねろと。
その刃の冷たさに温かな命の終わりを描けと。
刃先を自分の首に向けて息を止める。
最初からこうすればよかった、期待なんてしないで。最初からこうすれば、私は絶望なんてしなくて済んだのに。
あいつが、私の世界を奪った。
私の研究も、副所長の気だって全部奪っていた。
…でもそれで私の世界が終わるなんて理不尽だ。
本当に刃を向ける相手は誰か、もう私は知っているはず。
「…あぁ、そうか」
少し切れた首を撫でながら私は包丁を下ろした。
血に濡れた感触と温かさに乾いた笑いが冷たい部屋に響く。