M-316
正直にいうと私にはもう後がない。
今まで研究していたものが「これ以上の成果を見込めない」と区切られようとしているのだ。失敗は成功の…なんてよくいうけれど私には失敗なんてただの汚点なのだ。
M-310を処分されてしまったことはかなりの痛手だ。唯一安定していた個体だったのに…と結んでもない髪を掻き上げて大きなため息を吐いた。
残されたM-316は完全とは言えない、いつ自然崩壊を起こしてもおかしくない個体だ。だが下手な個体よりはまだマシだ、魔力値の高い個体なのだから。
まだ、実験は続けられる。
研究室の中は真っ暗で誰もいない、この研究は私と彼しかメンバーがいないのだから当然だ。白衣のポケットから職員用のIDパスを取り出すと、檻の扉に当てロックを解除する。
小さな檻の中には少女が一人、檻が開けられるなり怯えた顔でこちらを覗く。簡易的な実験着のまま、暖房もつけられていないこの場所で震えている。
「はぁあんたを処分しようと思ってたのにね」
吐き捨てるような言葉に少女は理解など出来ない。怯えた目のまま、マイカを見上げて黙っている。それがまたマイカをいつも以上に苛つかせた。こんな奴らのせいでなぜ自分が振り回されて、頭を抱えなければならないのか。
乱暴に少女の手を引き上げて檻の中から引きずり出した。
「速く立ちなさいよ!」
怒鳴って引きずって、少女が完全に立ち上がってもいないのにそうするものだから檻から出た少女は盛大に転んでいた。冷たくて硬い床に転んだ少女をまるでゴミムシでも見るような目で見降ろす。
「ねぇ、速く立ちなさいよ。私を馬鹿にしているの?」
ただ転んだだけなのにそれですらマイカの機嫌を損ねる。少女にはどうすることも出来ない、怯えた目でマイカを見つめるしかない。
「あぁ、あぅ」
少女の口からこぼれた声はとても細く震えていた。
「M-316、今から実験付き合ってもらうから」
立ち上がれない少女の髪を掴み上げる、ずるずると引っ張り始めた。
「うっ、うぅっ!」
髪の毛と頭皮に少女自身の体重がかかる、さすがに痛いのか涙声で痛みを訴えていた。なかなか立たないお前が悪いと言わんばかりにマイカは振り返らない。
非道で少女を生き物とも思わない行動は止まらなかった。
少女もどこかでは諦めていて、止めてくれる人もいないのだと知っていた。
少女はたくさんの子供のうちの一人だったが皆息絶えたり、いつの間にか居なくなったり。やがて檻には彼女が一人だけとなった。
だからもう諦めていた、どんなに酷いことがあっても終わってしまえば他人事になってくれる。少女は静かに割り切っていたのだ。
そう思っていた。
パンッと乾いた音がした。
最初はきっと叩かれたのだと少女は思っていたが、痛みで瞑った目を開くと知らない人が止めていた。
あの女の人を払いのけて。少女とあの女の人の間に護るように立ってくれている。
その非道で日常的な行動を止められた、驚きに目を見開いた。
「マイカさんやっぱりおかしいよ、これは」
払いのけられた手を擦りながらマイカはその男を睨んでいる。他人の研究室に勝手に入ってこの男は私を止めたのだ。
「なんなのよ!邪魔しないでよ、私は」
「いや邪魔する、例え研究をするにしてもこんな扱いをする個体で良いデータが取れると僕は思わない。君だってそう思うはずだ、普通なら」
生体の実験は個体差が出ないように一定の環境下で実験を行わないとならない。特に室温や湿潤、明暗など重視にされているが、生体に対するストレスは限りなく無にしなければならないのだ。
それなのに彼女は。
「…っ、なんなのよ」
「僕はこのことを所長に告げ口したっていい。どういう意味かわかるはずだ」
彼女は後退りする、所長に告げ口をしたって彼女的には構わないだろうが問題はその後だ。
副所長にまでその話を回されるのは彼女がきっと嫌なのだろう。
「私はっ、なにもっ」
彼女の表情は歪み、歯を食いしばり言葉を失っている。追い打ちは掛けたくないが仕方がないと僕は目を伏せながら話した。
「M-316の件は僕に一任された。君にはこの実験から降りてもらうことになったんだ」
「そんなっ、うそ。あの所長何を考えてるのよ!」
そうだ。きっとこうやって取り乱すと思ったから、僕からはこの話はあまりしたくなかった。だが彼女はもう限界だ、周りが見えなくなってきている。
「…所長の命令じゃない」
だって所長の命令だって信じ込んでいる時点でいつもの彼女じゃない。
彼女は疲れている。だからきっと自分の気持ちだけで勢いをつけて進み続けるしか道がない。だから主観でしか話ができない、いつもの彼女からかけ離れた存在となってしまっている。
「所長の命令じゃないなら」
「副所長の…エヴィンスさんの命令なんだ」
彼女が最も信頼している彼から告げられた残酷な命令を僕の口から告げたくなかった。彼女の絶望している顔が僕には容易にわかる。
だから床だけを僕は見ている。
研究室の機械音だけが僕らの静寂の間を埋めていた、彼女は一言も発することもなく揺れる足取りで研究室を出て行く。足音はとても小さく、周りの機械音に負けてしまうほどだった。
僕はそんな彼女に言葉をかけることなく、後ろにいる少女に振り返った。
「…大丈夫?」
僕は少女に手を伸ばす、僕ら科学者から作られた最後の少女はただ瞬きをして僕の手を見つめるだけだった。