ACT-1 求めていた場所=前編
……あぁ、今日も真っ白な世界だ。
地面には雪がたくさん積もっていて、地面なんて見えなくなっていた。空は青く、雲がかかっている程度で、今日はいつもの吹雪なんてわからないほど静かだった。見渡す限り真っ白で、時折陽の光で銀色に見える。
青年の家以外だと何もないに等しいこの近くだが、前方に井戸がある。
それには、今日も透き通って生命の光で煌めく美しい水が張られている。この井戸をとても大事にしてしまっている自分がいるのだが、この井戸より嫌いなものはなかった。
青年は思い出してしまった時にこの井戸の近くに花を置くことにしている。
以前はこの丘地帯の近くを埋め尽くしていたが、最近の嵐でほとんど吹き飛ばされてしまった。だがまた少しずつ増やせている。以前は歪な形のものの方が多かったが、もう綺麗な形を作れるようになった。日々の積み重ねは恐ろしい、と彼はつくづく思う。どうせならあの時も一発で手品のように綺麗に作って見せたかった、と。
ふと井戸を見ると、一瞬金色に輝いた。
しかし次の瞬きの時にはその光は消えていた。
希望だろうか、嬉しみだろうか。そんな思いが彼を包むが、悲しいような複雑な気持ちになってしまう。
……もしかしたら、戻ってきてくれたのかもしれない。…………いや、戻ってきてしまったの方が正しいか。
そんなことはありえない、と目をこすった。
青年はバスケットを片手に、森の方へゆっくり歩いていく。
❄︎
吹雪が目を開けるととそこは一面真っ白な世界だった。
少し山になったようなところはあるが足跡はなく、美しい景色だ。
彼女の住む村を思い出す……が彼女の村は見つからない。周りを見渡しても彼女の髪飾りと同じ花がたくさん落ちているだけだ。
でもなぜこんなにこの花が落ちているんだろう。彼女にとってそれが不思議でならない。
立ち上がって見るとさっきまで倒れていたところにあとが付いていた。
一歩二歩歩くと、まだ新しそうな雪には綺麗に足跡がついた。なんとなく楽しくなって足跡をつけながら歩いていると、花が周りよりもたくさん落ちている井戸を見つけた。
その花に触れると、少し体調が良くなるような不思議な感覚になり、香りもいいので近くの花をたくさん集めて氷で繋げ、花冠のようにして頭にかぶってみる。
こんな冠をどこかで以前こんな風に髪飾りをつけてもらったことがあるような気がしてくる。
目を閉じてそれを思い出そうとしても何も思い出せず、それどころか頭が痛くなってくる。
その記憶は暖かかかったような気がする。雪女の彼女がはじめて見つけた『あったかい』。
──どんなことだったか。
そんなことを考えていると、バサササッ、と近くの森の方から大きな音がした。
木から雪が落ちた音だろう。特に危ないことがあったわけではないと思うが……彼女は人がいるのかも、とそちらに向かってみることにした。
森の中には足跡がついていて、その跡は明らかに彼女がつけたものではなかった。
そのあとの途中途中にもまた花が落ちている。この花を作った本人が通ったのかな、と吹雪は思いながらその足跡を辿った。
途中には寒いところでも自生する冬林檎と呼ばれる林檎の木。さらに先には蜜柑の木の近くに足跡が固まっていた。この足跡をつけた人は食料調達に来ていたのかもしれない。
ここらの景色には見覚えがあった。
確かここの蜜柑がとっても美味しいんだよなぁ……と蜜柑を一つ取ろうと大きく上に手を伸ばして、足元から氷で台のようなものを作る。すると蜜柑の実に手が届いた。その蜜柑は大きく弾けそうなほどの橙でとても美味しそうだ。
皮をむくと蜜柑の甘酸っぱい匂いが吹雪の鼻をつつく。思えばしばらく何も食べていなくて、少しばかりお腹が空いていた。
がぶっと蜜柑にかじりつくと、蜜柑の甘い果汁が口の中に染み渡る。子どもの頃、誰かと一緒に食べたような……
──誰だったのだろうか。
やっぱり、考えても何も思い出せず、頭が痛くなってくる。なんで大事そうなこういうことを忘れてしまっているのか……?
すると、鼻の上に白いかけらが落ちて来た。雪が降って来たらしい。
はっとして後ろを見ると、さっきまで追いかけていた足跡が雪で埋もれそうになっていた。花ももう半分ほど埋もれて見えない。
このままだと足跡を見失う、と思い吹雪は小走りでまた足跡を辿り始めた。
途中、洞窟の周りにも足跡が固まっていた。
それに、洞窟の近くから大きな足跡が増えた。この足跡はおそらくシロクマだ。何かここで寝ていたシロクマを起こしてしまったのだろうか?
もしかしたら襲われているかも、とさらに急ぎめで走った。
走っても走ってもなかなか景色が変わらない。次第に雪も強くなって来て、足跡ももうかろうじて見える程度だ。
すると、雪で見えなかった小石に足を引っ掛けたらしい。「わわっ!」と少し間抜けな声をあげて転んだ。
雪の上にボフッと大の字になると、一気に疲れが出てくる。蜜柑を食べるくらいの休憩しかしていないし、もともとそこまで運動ができるわけでもないんだから当たり前だ。
静かな森の中に、吹雪の呼吸の音だけが透き通って聞こえる。雪は今も勢いを殺さずしんしんと降り続けていた。
すると、ごろごろと音を立てて寝ている吹雪の耳の近くに蜜柑が転がって来た。
思わず起き上がると、近くに底が抜けて壊れてしまったらしいバスケットも放り出されている。シロクマの大きな足音もどすどすと聞こえた。
「もしかしたら──」
近くに誰かいるのかも。そう思うと俄然歩こうという気にもなれてくる。
吹雪は元気よく立ち上がると、上を向いて大きく息を吐いた。花冠が落ちたが、そんなことを気にしようともせずもう見えない足跡の上を、シロクマの足音を頼りに大股で走り追いかけ始めた。
○
青年は大きく右へ跳ぶ。するとシロクマも合わせて大きな足音を立てながらそちらへ跳ぶ。
シロクマが大きく腕を薙ぎ払うと青年はさらに後ろへと跳んで攻撃をかわす。シロクマの目は、青年を餌としか捉えていない冷酷さがあった。
青年は考える。どうしたらシロクマを傷つけずに撒くことができるだろうか。
背中を見せて走れば追いつかれて背中をやられてしまうのは目に見えているし、攻撃されたからクールタイムで逃げ切れる、なんてことはない。雪に顔を埋めたりして姿を隠すのは無理だし、隠れてやり過ごすこともできなかった。
やっぱり拘束でもしなければならないのだろうか? それにしたって何で拘束することになりそうか……
一瞬シロクマに触れられさえすればなんとかなりそうなものだが、うまくシロクマに攻撃されずに触れるのも難しいだろう。
気をそらすだけならさっきまで持っていたバスケットなり、中の林檎や蜜柑を投げればよかっただろうがそれも一度攻撃を防ぐのに使ってもう今はどこに落としたか覚えていない。
雪はだんだん吹雪になってきた。このままでいれば逃げるのは難しくなるだろう。
また飛んできた腕を、今度は左に跳んで避けるがそれを読まれていたのだろうか。シロクマのもう片方の腕の爪がぎりりと青年の左腕に大きな傷をつけた。彼のセーターに血が滲む。
「──ッ」
急いで爪を抜くとさらに痛みが襲いかかってくるが今はそんなことにも構ってはいられない。右腕で腕の傷口を押さえて大きく後ろへ二回跳んだ。
少し止まると腕からさらに痛みが送られてくるが、このままだと回復もできそうにない。
いっそ、玉砕を覚悟にシロクマに体当たりしてしまった方が……
──吹雪が止まった。
まるで魔法のように、吹雪を大きく切り裂いてこの空間から吹雪が止んでいく。その奥に、少女が立っていた。
あの、黄緑色の髪のなびき方は。
あの、思わず見入ってしまうようなあの美しい瞳は。
あの、青年が待ち焦がれていたあの笑みは。
青年は大きく目を見開く。
「助けてあげようか?」
──それは聞きなれた少女の声。
少女がシロクマに向けて手をかざすと、シャアン、と言うようなきらきらとした音があたりに響き、シロクマの周りに大きな鳥かごのような形に氷が出現した。閉じ込められたシロクマは氷を壊そうと懸命に腕を振り回すが、氷は壊れない。
「ほら、いこ!」
走ってきた彼女が青年の方を叩き、シロクマの元から離れるように促す。しかし、青年は動かない。
「…………? あ! も、もしかしてそこ痛い? だ大丈夫? 走れる?」
少女はまくしたてるように慌てた様子で喋る。
「……うん、大丈夫」
青年はそう言うと、左腕の傷口から手を離した。
「行こう吹雪、あっちなら大丈夫だよ」
青年は少女の手を、いや。吹雪の手を取って、来た道を戻り始めた。
しかし少女は首を傾げた。
「……ねぇ、」
「なんで私の名前を知っているの?」
❄︎
吹雪が止んだままの静かな森の中。歩きながら吹雪は青年から話を聞いていた。
もともと、青年と吹雪の出会いはかなり珍しい形で、吹雪が小さい頃に助けてもらったんだ……と言っていた。それ以降はあまり深く覚えていないがたまに吹雪と遊んだりしながら楽しく過ごしていた。
しかしある時、村が雪崩に巻き込まれて家が埋まり、村の人たちはやむなく別の場所に引っ越した時に吹雪は迷子に。それを探しに行ったら彼も迷子になったようで、そこそこの年月ここで吹雪を待っていたそうだ。
吹雪は頭を抱えてそれを聞いていたが特に何も思い出せなかった。
「うーーん……そんなことがあったようななかったような……」
「あったんだけどね!? とりあえず、どうする? 一応この先に僕の家はあるんだけど……」
「んー……その前に、あなたのお名前を聞きたいな! 何か思い出すかもしれないし」
にこっと、吹雪が藍希の方を向いた。
「あっ、言ってなかったか」
青年は、一瞬ためらったのか一拍開けて、こう続けた。
「僕は藍希。これは吹雪にもらった名前なんだよ?」
「────?」
吹雪はもう止んでいるのに、ざあぁぁっと風が吹いた。
『子供の笑い声が聞こえる。
嬉しそうに今日あったことを喋る少女と、嬉しそうに彼女の話を聞く少年。しかし、二人は何か壁のようなものも隔てて喋っている。その壁は──
鉄格子。』
思い出せていなかった何かを思い出したような気がした時、ぎっ、と吹雪の頭に痛みが走った。吹雪の顎が震える。
「……吹雪?」
さっきの笑顔とは一転、泣き出しそうな表情になった彼女を見かねてか藍希が吹雪に声をかけた。
「──あ」
ぼすっと、音を立てて雪の中に前方向に彼女の体が倒れこんだ。
「えっ、吹雪!? 吹雪! ふぶ……」
彼の吹雪を呼ぶ声は、吹雪の頭の中を通り抜けるばかりで、どうにかなっている彼女の頭は何も反応しない。
不意に、吹雪は目を閉じた。