灯台の上で
高校3年生の最後の夏休み。
高校1年の時に同じクラスだった子から、突然、電話がかかってきた。
「もしもし、久しぶり。元気にしてる?」
気持ちを静めて、僕は平然を装う。
「元気にしてるよ。ひよこは?」
「やめてよ、そのあだ名。もう古いって」
彼女のむくれている顔が想像できた。そのくらい彼女の顔を覚えていた。
彼女の名前は、豊田 日奈子。豊田 日奈子
名前と背の低いことから、周囲からよく「ひよこ」と呼ばれていた。
どこか幼い顔立ちも、そう呼ばれる要因だと思う。
小柄ながらもバスケ部に入っていた。運動神経は抜群。ショートカットのよく似合う女の子だった。
彼女は、僕がひそかに憧れていた子だった。高校の入学式から。
ずっと片想いだ。
「元気にしてたよ。いきなり電話してごめんね」
そして、電話越しでも伝わるやわらかな声。
あぁ、そう言えば、彼女は、誰もが聞きほれるくらい歌が上手だった。合唱コンクールでソロパートに抜擢されるくらい。
「今日、夏祭りがあるんだけど、知ってた?」
「あー、すっかり忘れてた」
日奈子に言われるまで全く気付かなかった。
部屋に飾ってあるカレンダーに目をやった。8月12日。今日は地元の夏祭りだった。久しく行っていないせいか、そこまで気にしていなかった。行くとしても、きっと悲しいことに一人だろう。
「一緒に行かない?」
「いつも一緒にいる友達は?」
「課題が終わってないから無理だって言われた。みんな、課題を後回しにしすぎだよ~」
それは、僕も同じ扱いだろ。
「高崎くんは夏休みの課題なんて終わってるよね?それに、暇でしょ?」
終わっていることが前提のような口調だった。
僕は、反抗するみたいに「当たり前」と答えた。
「じゃあ、行けるね!」
「えっ、いや、あの・・・」
いや、本当はまだ残ってるんだけど・・・!それに、僕は、行くとは言ってないよ!
正直、君と二人で行ったところで僕はどうしたらいいんだ?
「あのさ、そういうのは別の人と言った方がいいと」
「じゃあ、近くの森岡中学校に18時!遅れないでよね」
「ちょっと、待っ・・・!」
彼女は僕の気持ちなんてお構いなしだ。一方的に電話を切られた。
彼女は、嵐のようにいきなり来たかと思えば、僕の心から平常心を搔っ攫っていった。僕の穏やかな夏休みごと。
彼女は、一体何がしたいのだろうか。
日奈子と会うのは気まずいと思う反面、会いたいという気持ちは抑えられそうになかった。
携帯電話をベッドの上に放り投げ、1人で頭を抱えて葛藤する。だめだ、頭の整理が追いつかない。
そのままベッドの上に身を投げ、枕に顔を埋めた。
ずいぶん前だけど、中学の記憶をたどると、少しずつ蘇る。ゆっくりゆっくりアイスが溶けるみたいに。気がついた時には、溶け切ってるかのように。
日奈子という存在は、クラスの中では学級委員長のような立ち位置だったと思う。
面倒見のいいやつだった。困っている人を放ってはおけないような子だった。
だから、みんなが見ていないところで頑張りすぎてしまうところがあった。
そんな彼女を意識し始めたのは、灯台の上で歌う姿を見てしまったからだ。
夕日に照らされた横顔がとてもきれいで、一生懸命に歌う彼女がかっこいいと思った。
僕たちの住む町は、ちょうど海に面している。
家から自転車で10分くらい。海から比較的近いところに住んでいる。その海辺には、今はもう使われなくなった白い煉瓦造りの灯台がある。
その日は、丁度、生徒会の仕事が残っていて、書記の僕は当然居残りになった。雑用を任されることも多いし、周りの人たちより仕事ができる訳でもない。なんとなく入った生徒会は、僕にとって少し居心地が悪かった。
その帰り道に、僕は自転車で海に行った。
久しく行っていなかったが、小さい頃はよく家族でここまで来ていた。
近くの駐輪所に自転車を止めた。海岸沿いをしばらく歩いて、そのまま腰を下ろした。誰もいない静けさの中で海のさざ波の音だけが聞こえた。
遠くを見ていると、気持ちが落ち着き、もやもやしていた感情を忘れることができる。
海の中に日が沈んでいく。夕日の光が海面に反射して、とてもきれいだ。
かすかに声が聞こえた。誰かが歌っているような声だった。
どこかで聞いたことがある声だなって思った。
しかも、知っている歌だった。
海辺から少し離れた灯台の方から聞こえてくる。
僕の足は、歌に惹きつけられるように灯台に向かって歩いていた。
入口の扉は開いていた。目の前には、どこまでも続いているかのような螺旋階段。
古びた手すりを伝いながら、細い階段を上る。長い長い階段を上ると、少し広い部屋にたどり着いた。
次に目の前に現れたのは、白いはしごだった。
さっきの歌声の持ち主は、きっとこの先にいる。
普段の僕には、こんなことできない。
でも、聞き覚えのある声だからこそ勇気が持てたのかもしれない。
全く知らない人の声だったら、きっとここまで来なかったと思う。
しかも、この曲って・・・。
息を飲んで、はしごを上る。灯台の頂上に着くと、いきなり冷たい空気に当てられ、我慢できずにくしゃみをする。
「えっ?」
驚いたような声がした。女の子が振り返る。
制服の上から紺色のコートを着たショートカットの女の子・・・。
あれ、もしかして。
「えっ、高崎君!?なんでここにいるの?」
「あれ、ひよこさん?いや、その・・・、声が聞こえて、って、」
びっくりしたのと急に強い風が吹いたことで体が後ろに傾き、倒れそうになる。
落ちる・・・!
「あっ、危ない!」
彼女が咄嗟に手を差し出し、僕を引き上げるようにして引っ張る。
「セーフ!」
「本当に危なかった・・・。ありがとう」
彼女が手を差し出さなければ、確実にはしごを踏み外していた。怪我だけで済めばいいけれど、その先のことは嫌なことしか思いつかないので考えないことにした。
彼女は片手で耳からイヤホンを外し、首にかける。
「あと、わたし、日奈子だからね」
「うん、知ってるよ。みんなが良くそう呼んでいるのを聞くから、咄嗟に言っちゃったんだ」
僕が階段を登り切ったのを確認すると、彼女は、くすっと笑いながら僕の手を離す。
「高崎君は、どうしてここにいるのかな」
「それは、僕の方が聞きたい言葉だけど。
僕は、ただ知っている歌が聞こえたから興味本位で来ちゃっただけだよ」
「そっか。聞こえちゃってたか。
ここ、いい場所だと思ってたんだけどな。誰にも知られていない秘密基地みたいで」
「豊田さんって、意外と子どもっぽいことを考えるんだね」
「興味本位で冒険しちゃう高崎くんも子どもだと思うな」
はにかんだ笑顔がずるいと思った。
「今の、合唱コンクールの曲?」
「そうそう」
「ソロパートだもんね」
「ね、嫌になっちゃうよ。そんな上手い訳でもないのにさ。みんな、やりたくないだけで私を推したんじゃないの」と、仕方がなさそうに笑いながら言う。
重役のソロパートは、クラスから推薦という形で豊田さんになった。
「そうかな。僕は、上手だなって思ったから手を挙げただけだよ」
「そう、ありがとう」
それでも、苦笑いの彼女はやっぱり自信なさげに遠くを見つめた。
見つめている先にあるのは、沈みかけた夕日。
「ねぇ、もう一度歌ってよ」
「えっ?」
「聞きたいんだ。ね、もったいぶらずにさ」
そう僕が笑いながら言うと、豊田さんは少し恥ずかしそうにした。「はあ~・・・」とちょっとため息をついて微笑んだ。
「君、今だけ、透明人間になってくれる?」
「もちろん」
「明日になったら、記憶喪失になってくれる?」
「きっと」
そういうと、僕たちは込み上げてくる笑いを我慢できずに笑い合った。
「全く、しょうがないなぁ」
彼女は、コートからスマートフォンを取り出すと、何か操作し始めた。イヤホンのコードを外し、「・・・よし」と小さな声で意気込んだ。
彼女が地面にスマートフォンを置くと、音楽が流れはじめた。
くるっと僕に背を向けて、海の方に向かって彼女は歌い始める。
僕たちが歌う『星の子』という曲だ。
小さな星が落ちてくるような、きらきらした音色は、僕の数少ない言葉では表現できない。
心地よい歌声が、秋のひんやりとした空気の中で響く。
彼女の後ろ姿がかっこよくて、思わず見つめてしまう。夕日のせいなのか何なのか、やけに眩しかった。
歌い終わると、安心したかのようにほっとした顔をした。その途端、はっと我に返ったように「うわー、恥ずかしすぎるね」と言って、しゃがみこんでしまった。
「私、本当は自信ないの。みんなの前では、頑張らなくちゃって思って、頑張れるんだけどね。わたしなんかでいいの?っていつも不安なんだ。日に日に本番が近づくのも怖いんだ。
・・・なんてね。ほんと、考えていたってどうしょうもないのにね。やるっきゃないよね」
そう言って、笑いに持っていこうとする。
そんな彼女は見て、今までそんな素振り見せずに堂々とやってたけれど、本当は不安だったんだと知った。
みんなの期待に応えようと一生懸命頑張っているのに、誰もそのことに気づいていないのかもしれないと思うと何とも言えない気持ちになった。
「僕は、やっぱりきれいだなって思うよ。選ばれた理由がわかるから」
僕がそう声をかけると「・・・ありがと」、と少しぶっきらぼうな彼女の声が聞こえた。
寒さと恥ずかしさで耳が真っ赤になってしまっているところを見ていたら、しっかり者の豊田さんが可愛らしく思えてしまった。
でも、どうしても膝に顔を埋めたまま顔を上げてくれない。
どうしたらいいのか、と迷った僕は、自分の首に巻き付けてあったマフラーを彼女の頭の上からかぶせた。
「豊田さんは、そのままでいいと思うよ。大丈夫。こんなただのクラスメイトに言われても何の信憑性もないかもしれないけど、自信持って」
「ただのクラスメイトに言ってもらえた方が信じられそう」
豊田さんは、マフラーからひょこっと頭を出して、にこっとした。あぁ、いつもの豊田さんだ。
ほっとして、自然を笑みがこぼれた。
「さてと、日も沈んだところだし、そろそろ帰ろうか」
「そうだね」
「高崎君、さっきみたいに転ばないようにね。今度は、私まで道連れになっちゃう」
「その時はよろしくね」
「え~、いやだよ」
僕たちは他愛もない話をしながら、自転車置き場まで向かった。
「じゃっ、また明日」
「うん、また明日。気をつけて帰ってね」
「ありがとう。じゃあね~」
手を振りながらやさしく笑った豊田さんを見送ると、僕も家路についた。
自分の部屋に入り、鞄を下ろした瞬間に思い出した。
あ、そういえば、豊田さんにマフラー貸したままだったな。まあ、いいか。明日も会うはずだし。
そう思い、僕は、明日も変わらずに彼女の歌が聞けると思っていた。
でも、それもまたクラスのみんなと同じように彼女に過度な期待をかけてしまっていたことに僕は気づいていなかった。
翌日の朝の会で先生から告げられたのは、豊田さんが声を出せなくなってしまったこと、二週間後の合唱コンクールまでに治るかわからないことだった。
声が出なくなってしまった原因は、失声症という突然声が出なくなってしまう病気のようだった。
担任が説明し終わる前に、クラスのみんなは落ち着きがなくなったようにざわざわとし始めた。
「ねぇ、どうする?今更、できる人なんていないよ」
「ソロパートって女子だっただろ」
「そうだけど・・・」
「あー、どうして今なんだろう。仕方がないってわかってるのにさ・・・」
誰も責めることができない苛立ちや本番まで残り僅かしかない時間への焦り。
豊田さん、大丈夫かな・・・。
スマートフォンから小さな通知音がした。
あっ、マナーモードにするの忘れてた。そう思って、画面を開く。
豊田さんからメールが届いていた。
『マフラー、返すの忘れてた。ごめん、また今度、返すね』
僕はなんて返したらいいのかわからず、『大丈夫。また、今度でいいよ』と返信した。
今、ここで彼女に彼女自身の話を振るのは酷だと思った。
僕にはそこまでの勇気は出なかった。
かと言って、放っておけるほどの自信もなかった。
昨日の不安そう豊田さんの表情を思い出すと、胸が締め付けられた。
この日は、授業の内容なんてほとんど入ってこなくて、放課後になると急いで昨日彼女と会った場所へ向かった。
会えるはずないとわかっていた。
そんな簡単で、タイミングのいい話なんてないって。
息切れしながら、灯台の上まで駆け上がって行った。でも、そこに彼女の姿はなかった。
「ははっ、そりゃ、会えないって・・・」
冷たい横風が、僕の乾いた笑いを攫っていく。
もし、豊田さんに会えたとして自分はなんて言いたかったんだろうか。彼女の気持ちを聞けると思った?助けられるなんて思った?この自意識過剰。
たった一度の彼女の弱い部分を見ただけ。それだけなのに、頭から離れないんだ。
それが、なんとも思っていない子なら、また違っていたのかもしれない。
ため息をついて僕が帰ろうとした時。不意に、背中を誰かに引っ張られたような気がした。
驚いた僕は、振り返る。
「えっ、嘘・・・」
そこには、彼女がいた。
見慣れない私服を着ていて、いつも整った髪型には少し寝ぐせっぽい跡がついていて。
顔を隠すかのようにぐるぐるにマフラーを巻いていた。
「と、よたさん・・・?なんで?えっ、いつの間にいたの?」
質問攻めの僕に、豊田さんは苦笑いをして、困ったかのような顔をする。
豊田さんは、視線をそらして、迷った顔をした。
羽織った紺色のコートのポケットからスマートフォンを取り出した。
片手で僕の服をつかんだまま、操作をし始める。
何をしているんだろう、と考えていると、豊田さんがパッと画面を見せてきた。
『声が出なくなった』
スマートフォンの画面と彼女の唇をきゅっと結んで困った表情を見て分かった。
あぁ、先生が言っていたことが本当だったって。
「・・・そっか」
僕もなんて反応したらよいのかわからなかった。きっと、彼女の方が困っているのに。
「病院には行った?」
『行ったよ。いつ治るかわかんないって』
「そう・・・なんだ」
『みんなに謝らなくちゃいけない』
「どうして?声が出なくなったから?」
彼女は小さく頷いた。
声が出なくなったのは、彼女がそうしたくて起きたことではない。故意じゃない。
「違うでしょ。豊田さんのせいって訳じゃ・・・」
僕の目を見て、首を振る。〈ちがう〉と彼女の口元が動いた。
『何がいけなかったのかわからない。でも、みんなに迷惑をかけた。』
そうだった。彼女は人一倍、責任感を感じてしまう子だったんだ。
部活でも、クラスの行事も、彼女は部長でもクラス長でもないのに、気づいたらまとめ役になっていて。気づいたら、仕事はちゃんと最後までこなしていて。
そうやって、みんなが気づいていないうちに責任感という重い鎖で縛られていた。
彼女は、また、困ったように微笑んだ。黒い瞳が揺れた。彼女がいきなりしゃがみ込んだ。
「大丈夫?」
僕が声をかけても反応しない。彼女が小さな手で抱きしめたスマートフォンに書き込まれていたのは、
『わたしは、私のことがいちばんわからない』
その言葉が、僕の胸に刺さった。