男の決意
そう言った後のベルナドットの行動は、実に早かった。
群集を押しのけ、人々が囲んでいた親子の元へとどんどん進んで行った。
中にはベルナドットの姿に威圧され、自分から退くものも多くいた。
やがてベルナドットは、子どもが押しつぶされている荷馬車に到着した。
女性はなおも、しきりに助けを乞う声を発し続けていた。
「お願いします。助けてください。私に出来ることなら何でも致します。命だって差し上げます。ですから、せめて、この小さな命だけでもお救い下さい」
聞いていて、同情と哀れみが一気に来るかのような、そんなか細い声だ。
しかし、ベルナドットはそんな女性の言葉に一切触れることさなかった。
ただ、無言で、無表情で
ベルナドットはその荷車にゆっくりと近づき、手をかけた。
「むぐっ……!!」
息を止め、しきりに持ち上げようと踏ん張る巨体。
額には汗が滲み、荷馬車を支える逞しい2本の腕は、小刻みに震えていた。
ベルナドットの懸命な姿を他所に、町の住人は誰ひとりとして動きもしなかった。
ただ見つめるだけ。
大きな男の奮闘を、ただ見つめるだけだ。
だがその姿に、いつしか口元を緩ませる者など誰ひとりとしていなくなった。
圧倒されている
たった1人で抗う、【ブリキの木こり】に
「ぬぐぅぁあっ……!!」
およそ1人では上がる余地のない荷馬車。
しかし、上がるはずのない荷馬車に、わずかな隙間ができた。
「坊や、私の可愛い坊や!今のうちです。早くそこから這ってくるのです!」
その機会を逃さんとして、女性は大きな声で子どもに呼びかけた。
確かにベルナドットの作った隙間は、子ども一人分が辛うじて通れる程だ。
今なら助かる。そう思ったのだ。
だが
「…………」
子どもの意識など、初めから無かった。
自力で脱出は不可能。
中に入り助けに行くことも出来ない。
まさに、打つ手なし。
誰もがそう思った。
しかし
「ふぐっ……!」
ベルナドットは、その太く強靭な右腕を強引に隙間にねじ込んだ。
徐々に体位を変え、自らが荷馬車に【押しつぶされる】体勢へと持ち込んだのだ。
荷馬車に触れている箇所は、すでに内出血を起こしていた。
それどころか、荷馬車が体にくい込む形となっていた。
ベルナドットが人柱となる。
無表情はもはや消え、残るは苦痛に歪むベルナドットの顔が、そこにはあった。
「俺が支えておく。だから、中に入って子どもを助けろ」
力のない声が、女性に向けられた。
女性はベルナドットの言葉に従い、身を低くして荷馬車の下へと潜り込んだ。
途端に、ベルナドットの支えが急に緩んだ。
「きゃあっ!!」
女性の金切り声が聞こえた。
ベルナドットの足が、地に崩れ落ちてしまったのだ。
女性の頭上が、一気に圧迫を強める。
「むぐっ……!!」
ベルナドットは、すぐさま体勢を持ち直すよう努めた。
首を横に反り、負担の掛かる無理な体勢になる。
辛うじて、二人とも圧迫死だけは避けることが出来た。
女性は急いで子どもの手を取り、そのまま外へと引きずり出す。
一体、どれ程長い時間を支えていただろうか。
ベルナドットは二人とも脱出した事を見届けると、崩れ落ちるようにその身を投げ出した。
永遠に感じた出来事は、わずか10分ほどで終結したのだ。
「ありがとうございますっ!ありがとうございますっ!」
ホビットの女性が、地べたに座り込むベルナドットに頭を下げ続けていた。
どうやら子供の方は一時的な気絶だったため、今は女性の腕で寝息をたてていた。
一方のベルナドットは変わらず無表情に、その感謝の言葉を聞き続けている。
「……もういい。いい加減この場から離れたらどうだ」
ぶっきらぼうに、そう言い放った。
だが、女性はなおも食い下がる。
「どうか、どうか、私にお礼をさせて下さい。何でも致します!あなたは恩人です。私達親子の恩人なのですから!」
ベルナドットは理解ができなかった。助けたのは事実だが、それはあくまで【自己満足】のために自分から動いただけ。見返りを求めたわけでも無い相手に、ここまで恩を感じる女性に対して理解に苦しむのだ。
「礼なら、先程から何度も言葉として受け取っている。だから、さっさと行け」
頑ななベルナドットの態度には、流石の女性も引き際だと悟った。
大げさに頭を下げると、息子を抱いて去っていった。
そんなベルナドットに、ボトキンがゆっくりと近く。
「何故見返りを求めなかったんだい?こう言ってはなんだが、あの女性はなかなかの美人じゃないか。手篭めにすることも容易かっただろうにね」
顔は笑顔で、しかし話す内容はかなり下世話なものだ。
「馬鹿を言うな。彼女には彼女なりの人生がある。それを奪うのなら、俺が助けに入った意味がないだろう」
至って平然と、ベルナドットは答えた。
「ふむ。どうやら、あなたは私が思い描いていた以上に【優しい人間】みたいだ」
「何でもいいが、少し手を貸して貰えんか。さっきから、上手く立ち上がれないんだ」
「了解だ」
ボトキンはベルナドットの肩に手をかけ、支える形で2人は立ち上がった。
そして彼等は、ベルナドットの住む山小屋へと引き返すことにしたのだった。
⚫⚫⚫
「さて。具合の方はどんなだい?」
「……最高の気分だ」
ベルナドットはベッドに横たわり、ボトキンは近くの椅子に腰掛けていた。
彼の体はかなり頑丈らしく、見た目の損傷の割には重傷を負ってはいなかった。
ボトキンが口元をニヤケながら口を開いた。
「しかし、他人に興味が無いと思っていたのに、随分と予想に反した行動を取ったものだね」
「俺だって理解出来ていない。何故あの時、あの親子を助けようと思ったのかな」
「……そうかい」
「ただ―不思議な感覚に囚われた」
それは、大変たどたどしい言葉だった。
「あの女性が泣いて助けを求めている周りで、多くの者が見て見ぬ振りをし、挙句には笑う者もいた。そんな彼等を見ていると、胸のあたりがざわついたんだ」
「ざわついた、か」
ボトキンが呟くようにして復唱する。
「分からなかった。あの胸のざわめきが一体何なのか。何かの病気になってしまったのかとも思った。だが、そうこう考えてる内に自然と体が……動いていたんだ」
ボトキンはただただ、ベルナドットの言葉を黙って聞いていた。
「そしてもう一つ分からないことがある。子どもを助けた時、あの女性が俺にしきりに礼を言ってきた時だ。あの時も胸がざわめいた。だが、それは初めのとは違う、心地の良い……ざわめきだったんだ」
ベルナドットは一旦話すことを止め、深く深呼吸をした。
「……なぁ、あんたなら分かるんだろう?この胸のざわめきが一体何なのかが」
その言葉に、ボトキンは静かに答えた。
彼の求める、答えを。
「あなたの感じたものの正体を、私は知っている」
「それは何だ?それは何かの病気なのか?」
「まず初めにあなたが感じたもの、それは【怒り】だ」
「怒り、だと?」
「助けられる命をなぜ助けないのかと、あなたはそんな矛盾に対して怒りを覚えたのさ」
間髪を入れずに、ボトキンは続けて答える。
「そして二つ目に感じたもの、それは【喜び】だ」
「喜び……」
「子どもを助けられた事による安堵と、あなたに向けられた感謝の言葉。その二つに対して、あなたは喜びを感じたんだ」
「俺が怒りを、喜びを、感じた……」
有り得ない、そんなはずは無い。
その思いだけが、ベルナドットの頭を駆け巡った。
「だが、事実だ」
「っ……!」
まるで心を見透かしたように、ボトキンが言い放つ。
「おめでとう。あなたは初めて、人間らしい感情を抱いた。混じりけのない、純粋な感情を」
しばらく、ベルナドットはボトキンから視線を逸らし、窓の外を見つめた。
そして呟いた。
「この世界は、あれ程にも非情な考えに包まれているのか」
【非情】
それは、情を感じてこなかったベルナドットの、世界に対する最大限の【皮肉】だ。
「そうだね。だからこそ変える必要がある」
「どうすれば変えることができるんだ」
「力を持つことさ。例えば武力。例えば財力。だが、それらを凌駕する力が、【権力】さ」
「ならば、その権力はどうすれば手に入れることができるんだ」
「生半可な権力では意味がない。それなら、より強大な権力者となるしかない。つまり、この世界の【王】となる事が手っ取り早い」
「世界の王、か」
ベルナドットはベッドから立ち上がり、ボトキンを見つめながらこう答えた。
「ならば、俺がその王となろう」
冷めた目で、冷めた表情でそう答えた。
しかし、何故だかその言葉は決意に満ちたものにも感じられた。
「ほら。私の思い描いていた通りになった」
ボトキンはそう呟き、最大限の笑顔を、ベルナドットに向けたのだった。
人の温もりを知らないブリキの木こりは、小さく、だが確かに、王となるための1歩を踏み出した。