1
今でも私は思っている。
あの時一緒に死ねばよかったと。
今でも私は思っている。
あなたの足を斬り飛ばしてでもあなたを止めるべきだったと。
今でも私は、思っている。
あの日、あなたが私にくれた言葉。
あれは――――誰よりも優しいあなたが、私にくれた、本当に最初で最後のわがままだったんだと。
今だから私は言える。
昔あなたが私に戦い方を教えてくれたこと。
昔あなたが、私には私の良さがあると言ってくれたこと。
昔あなたが、私を頼りにしていると言ってくれたこと。
昔あなたが、私にだけ涙を見せてくれたこと。
その一つ一つが、今の私を作り上げている。
こんなことを言ったらあなたはきっと怒る。
だって私は、あなた一人のためにみんなを見捨てようとした。
それでも構わないと思った。
けれどあなたは、怒るでもなく、私に謝った。
そしてあなたは――――私を、置き去りにした。
私はあなたの隣に並びたかった。
誰よりも近くで、あなたの見ている世界を見たかった。
あなたがそれを私に望んでいなくても――――構わなかった。
……血まみれの仲間たち。
……春の終わり。
……空にまで聳える白い光。瞬き。
あなたの命が燃えているのが見える。
私は、その輝きを見つめることしかできない。
それがあなたとの約束だから。
「みんなを頼むよ。ごめんね」
それが――あなたとの、約束だから。
きっと私は、思っている。
想い続けている。
この後悔と憎しみの果てにあるのは――――
あなたのいる場所だと、いいな。
* * *
――――もう、5年近く前のことになる。
その日は、雪が降っていた。
曇天からきらきらと輝きながら落ちる雪が、かつての文明の栄華を色濃く残す廃墟を、白く染め上げていく。
100メートルほどで二つに折れた高層ビルも。
龍の身体のようにぐねぐねと都市を走る道路も。
打ち捨てられたままの車の類も。
割れた路地から生える小さな花も。
みな全て、雪に埋もれ、眠りについていた。
私は――
その白銀の世界で、膝をつき。
自分の額から流れ落ちる紅いものが、ぐしゃぐしゃに濡れた地面を赤黒く染めていく様子を見ていた。
ざらざらと身体に纏わりつく恐怖と共に。
……境界をわずかに越えた先。
『暗黒大陸』のほんの玄関口。
【ジュウナナ】になってまだ一年も経たない私を待ち構えていたのは、数匹の【親】によって構成された【陽魔】の軍勢だった。
「境界に迫る【陽魔】を、越境の前に撃退し、境界付近の安全を保持する」という名目で定期的に行われる、ある種の威力偵察の側面も持った中規模出撃。
通称、『遠足』。
そのときの『遠足』は、当時の私が所属する青風組と、藍花組、そして紫雪組の3組による編成で行われた。
私はこの時まだ黒髪で、自分の【霊器】の潜在能力すら、ろくに知らなかった。
当時は既に銃器型の【霊器】使いとしてかなりの評価を得ていたツグネと並ぶのが精一杯だった。
加えて、自身の習性付けに甘い点が多く、端的に言ってしまえば【ジュウナナ】として当時の私は未熟者だった。
それが一つの要因と言えるかもしれない。
今となっては曖昧だ。
とにかく、その日私達は目標地点に到達する前に、凄まじい火力を擁する【親】の軍勢に包囲され、隊を広範囲に分断せざるを得なくなってしまったのだ。
射程距離の短い刀剣型である私は当初陣形の先端部に組み込まれていたが、大量の【子】と戦闘を行う内に主戦場から大きく離脱。
通信機の類もその最中に故障してしまい、完全に孤立してしまったのだ。
「――行かなきゃ」
息が整ってきたのを見計らい、【霊器】を携えたまま立ち上がる。
このままここに一人でいては危ない。
が、脚が震えて覚束ない。
立つことすら満足にできない。
嫌な想像ばかりが頭のなかを駆け巡る。
……ここまでの孤立は、当時の私にとって初めてだった。それ故に、底冷えするほどの恐怖があった。
その恐れの一つは、こんなに震えていて戦えるのかということ。
そして、仲間達がどうなっているかがわからないこと。
遠くから響く戦いの轟音が、鈍色の空に蓋をされた戦場の大気を震えさせ、街を包む雪が、時折走る閃光の余韻をわずかに反射する。
四方からそうした現象が見えるために、主戦場の判別がつきにくい。
明らかに、混戦であった。
早く動かないと、私は役立たずのまま一人で死ぬだけだ。
そして、そのせいで皆も死ぬ。
急げ。そう自らを奮い立たせ、まずは近場の戦場に向かおうと駆け、始め――
――前方のビルの影から、音も無く巨大な何かが現れた。
驚きのあまり、引き笑いのようなものが自分の口から出た。
直後、駈け出したばかりの自らの勢いを地面にぶつけ、滑り、停止させる。
そして、目を見開く。
……それは、10メートルをゆうに越える巨大な黒い異形だった。
一見するとただの黒い球体だが、よく見ると脈打つように全身が微細に振動しており、その表面には無数の人間の口のようなものが張り付いている。
その巨体から想像し難い程に無音で浮遊するそれは、肌に突き刺さるような威圧感からすぐに【親】であることがわかった。
瞬間。
――無数の口が、開かれる。
一つ一つから、粘膜に覆われた卵のような何かが次々と吐き出され、ぼとりぼとりと地面に落ちてくる。
地面に落ちたそれらは、一斉に孵化し、長すぎる人の腕を脚としたような、蜘蛛に近い形状をした【子】が誕生する。
【親】の真下の地面が、そうして無数の【子】で埋め尽くされる。
奇怪な鳴き声が、先ほどまでの静寂を打ち砕いていく。
その光景はあまりにもおぞましく、私の戦意を削ぐのに十分であった。
故に、【子】が想像以上の俊敏さを以て一斉に襲い掛かってきても、反応が間に合わず――
「――させるかッ!」
――背後で凄まじい輝きが迸った。
かと思うと、眩い何かが【子】を一気に貫き、【親】にまでぶつかり、弾け飛ぶ。
爆風。
その衝撃で廃墟群が震え、雪が吹き飛ぶのと同時に、甲高い雷鳴の音が空間を劈くように響いた。
私に襲い掛かった【子】の集団は一瞬で全て消し炭となり、それどころか【親】も不気味な苦悶を上げぶるぶると震えるぐらいにダメージを受けていた。
「――アイハ、無事か!」
状況の激変に呆然とする私の肩を叩いたのは、カオンさんだった。
その右手には、カオンさんの身の丈ぐらいの長さがある穂先の無い槍のようなもの――カオンさんの【霊器】――が握られている。
「カオンさん」
呆然とする私にはそう名前を口にすることしかできなかった。
だがカオンさんはそれを聞いてほっとしたような表情を見せる。
「よしよし、無事で良かったぁ」
にっと笑顔を見せて私の頭をぐしゃぐしゃと撫でて、直後、戦士の目つきに戻り、未だ苦悶する【親】を睨む。
「結構頑丈な奴だな……一度距離を取るよ。動ける?」
「は、はい」
次の瞬間、カオンさんの【霊器】が、蒼く輝く光の穂先を作り出す。
それは、私の【第二解放】によって発生する銀の炎と同じで、カオンさんの霊脈が高密度で生成され変質したものであった。
彼女がそれを振るうと、閃光と共に雷が疾走し、路地を、ビルを、空を、闇を切り裂いて、轟音とともに凄まじい破壊をもたらす。
吹き飛んで蒸発した雪と、雷光を撃ちつけられて発生した爆炎で視界が混迷を極める。
敵の動きは完全に止まった。
私達はそれを確認するのと同時に、その場で一番高い建物へと疾走し始めた。
その最中――――
「――っ」
思わずまた立ち止まりそうになる。
私の視界の端に、私達と同じように礼服を着た少女の残骸が映ったからだ。
「止まるな! 走れ!」
同じものを目にしたカオンさんがそう叫び、私は再び最高速で彼女について行く。
建物の下に到着し、そのまま壁面を駆けて上り、敵を見下ろせる位置にまで達する。
……改めて上から見ると、戦場はかなり広い市街地であることがわかり、旧時代にこの地方の中心となる役割を担っていた場所であろうと予想できるぐらいには、複層的な作りをしていた。
そう思考する中で、ちらつく光景。
破れた戦闘式服。
血の赤。
折れた腕。
抉り出された――
「――一先ずここで様子を見よう。まだ他にも【親】がいるしね。性質もわからないからいちいち相手にしてられない」
そう言ってカオンさんは私の肩を叩く。
私が何を思い出していたか察して言葉をかけたようだ。
……わかっている。そんなことはわかっていた。
落ち着かなければいけない。
気圧されている暇なんていない。
でも、それでも。
私は、自分の手の震えをはっきりと認識していた。
そして、それを抑える術を持ち合わせていなかった。
「……状況を確認するよ」
カオンさんは私にそう言ってから、通信器を起動する。
「青風組級長カオンだ。アイハを拾った。ある程度撒いてから合流する」
《――了解。そちらに大きな【親】がいるようだけど》
「今は大丈夫。一旦引き離した。そっちの損害と残存戦力は?」
《青風・藍花両級に重傷3名。死者はゼロ。撤退進行率は60%。敵には脅威Aの【親】が最低でも3。脅威Cの【親】も多数確認。【子】の数は確実に500を超えているわ》
「おいおい、随分数多いなぁ。話と違う」
《愚痴るのは後にして。それよりアイハが無事なのは良かったけど、マイは?》
マイ。
そうだ、あれは……藍花組の、マイさんだ。
「死亡を確認した」
間を置かずそう答えたカオンさんの表情と声は、落ち着いている。
若干の沈黙が通信機越しに生じる。
《……そう。わかった》
返答する声もまた、落ち着いていた。
「こっちに支援は寄越せそう?」
《撤退させるのに銃器型を割いている。上手くいっても20分はかかるわ》
「わかった。じゃあアイハと協力して何とかする」
《無理はしないで。絶対に》
「勿論」
通信機を切ったカオンさんが、こちらに視線を向ける。
「聞こえていた通りだ。あたし達だけでこの場を切り抜けるしかない。気合、入れなよ」
心臓が、跳ね上がる。
「あ、あの。ツグネは。ハヅミは、大丈夫なんですか?」
「あの2人は後方に回って撤退を支援している。ツグネがアイハを探しにすっ飛びそうだったのを止めてきたんだから、感謝してよね」
私を心配させまいとしてか、不敵な笑みを見せてくれるカオンさん。
と。
その瞬間、私達のいる場所に急に影が差す。
ぞわりと悪寒が走った、瞬間――
私とカオンさんは同時に建物から飛び降りた。
その直後、巨大な何かが、ほんの一瞬まで私達のいた場所に落下し、建物を縦に貫き、地響きと共に地面まで降り立つ。
轟音。
そして、倒壊。
飛び降りた私達は、霊脈を全身から放出した勢いで落下の勢いを殺して着地し、遅れて落ちてくる瓦礫を【霊器】で薙ぎ払う。
「アイハっ、無事か!」
「大丈夫です!」
――人外の放つ咆哮が、戦場を揺らす。
瓦礫から現れたそれは、全身が赤い鱗で包まれた狼のような、巨大な四足の異形だった。
びしびしと肌に刺さってくるような重圧。間違いなくこいつも【親】だ。
そして、現れたのはこいつだけではなかった。
気づけば、私とカオンさんを包囲するようにして、新手の異形がどんどんと密集しつつある。
その中にもまた、別の【親】が紛れ込んでいる。
「ここらへんの奴らが全部来やがったか……」
先にカオンさんによって雷を打ち込まれた【親】も、再び無数の【子】を連れてこちらに近づいてくる。
迫り来る異形の、無数の鳴き声。
それが不快な不協和音となって、私の冷静さを削ってくる。
たった十数秒で、状況は絶望的なものへと変化してしまった。
「――アイハ、動けるなら一点突破するよ。走れる?」
「え」
間抜けな声が漏れた。
……だって、こんなにも震えが、止まらない。
走れるわけがない。
情けない。
今までにない死の危機に瀕して、意識が身体から引き剥がされている。
たった二人でこれだけの数を相手にする?
できるわけがない。
そう全身が叫んでいた。
悲鳴をあげていた。
ちらつく死。無残な最期。末路。
吐き気。
だけど私は、【ジュウナナ】は、ここで戦わないわけにはいかない。
逃げるわけにはいかない。でなければ、私がここにいる意味が無い。
そう自分に教えこんできた。歩んできた。だから。
だから私は、すぐさま返事をしようとして――
「――あぁ、やっぱいいわ」
カオンさんが、突然そう言って私の言葉を遮った。
「ごめん。最初からこうするべきだった」
……一瞬、見放されたのかと思った。
だが、そうではなかった。
カオンさんは、どこか申し訳無さそうに、それでも、笑顔を見せながら――
――その全身に、空間を歪ませるほどの霊脈を纏ってみせた。
とてつもない重圧が、周囲を包む。
味方が放っているものだとわかっているのに、思わず眩暈を起こし倒れてしまいそうになるほどの力の奔流。
そんな中、カオンさんの髪が、毛先からわずかに銀色に染まり始める。
……間違いなかった。
カオンさんが【第二解放】を発動したのだ。
びしり、びしり。
とんでもない量の霊脈が渦巻くことによって生じる歪な音が、異形の奇っ怪な咆哮を上書きしていく。
「一歩も、動かないでね」
カオンさんが私にそう言ってから、自身の【霊器】を強く握る。
その瞬間、先刻私の前に現れたときに放ったものとは比べ物にならない程の光が生じ、直後凝縮され――槍の穂先として形を成す。
曇天の薄暗さを吹き飛ばすほどの、圧倒的な霊脈の光。
蒼い雷鳴が極限まで収束されたそれは、まるで、色違いの太陽のような眩さであった。
カオンさんはその槍を、振り上げ、異形の群れに向けて縦に振り下ろし――
――――直後、カオンさんの目の前が、消滅した。
文字通り、消滅した。
彼女の前に広がる廃墟群が、敵が、一瞬で消し飛び、吹き飛んだ。
さっきまで目の前でプレッシャーを放っていた【親】はもうすでに跡形もなく。
それどころか、ぽっかりと、球形に空間が刳り貫かれたかのように、【親】のいた場所ごと全てが真っ白に吹き飛んだ。
雪すらも異物とするかのような白。
圧倒的な破壊の後の純白。
私どころか、【陽魔】ですら、何が起きたのか理解できていないようだった。
それほどまでにあっさりと、瞬間的に、圧倒的な破壊が行われてしまった。
そして、遅れて響く、低い、大地のうめき声のような轟音。
それによって地面が揺れ、都市が揺れ、遠く彼方まで震えた。
ようやくそれで私は、カオンさんが攻撃したことをはっきりと認識した。
カオンさんは、振り切った槍をそのまま更に振り上げ――
――返す刃。
再び蒸発する街。敵。
そして、響く大地の呻き。
地図を容易に書き換えるほどの、あまりにも大きすぎる力。
瞬きよりも早く世界を壊していく、唯一無二の力。
次々と光に飲み込まれ、一瞬で灰となって消滅していく【陽魔】。
その一方的な光景を前にして私は――――
ただただ、畏怖の念を抱いていた。
……最強の【霊器】を操る【ジュウナナ】。
それが、私の先輩であるキド・カオンを端的に示す一文であった。
近接武器の形状を取りつつも、凄まじい射程距離を誇る特異な性能。
【第一解放】で既に他の【ジュウナナ】の【第二解放】に匹敵する圧倒的な出力。
そして【第二解放】発動時の、霊脈そのものを破壊力に転化し、任意の空間を消滅させる能力。
私は、この日初めてカオンさんの【第二解放】を目の当たりにし、理解したのだ。
この人が本気になれば、絶対に負けない。
キド・カオンは、万物を滅ぼす力そのものなのだと。
……白に真白を重ねて作り出された、草の根一つ無い死の空間。
その中心でカオンさんは、槍を地面に立て、全てを終えたことを確認し、ふぅと一息吐く。
――そして、右手に握られていた【霊器】が消え、彼女の身体がぐらりと揺れた。
このままでは倒れる。
そう直感した瞬間、私はカオンさんの元へ走り、地面に崩れ落ちる寸での所で彼女の身体を受け止めた。
そして、気づく。
その身体が凄まじい熱を放つと共に、絶えず微細に震えていることを。
「っ、ごめ……」
何かを言いかけて、カオンさんが激しく吐血した。
大量の血が、私の礼服と、地面にぶつけられる。
「カオンさん!」
何度も咳き込み、血を吐き続ける。
口だけでなく、目や耳、鼻からも血が流れ出ている。
「……汚して、ごめんね」
弱々しい声が、私の内側を抉ってくる。
カオンさんは、絶大な力の代償――俗に【第二解放】の副作用と呼ばれるもの――によって、全身に異常を来たしていた。
「喋らないで下さい。今、制御剤を……」
「あー……いいよ、大丈夫。すぐ、なんとかなるから。これ、最初だけだから……」
「でも」
「制御剤は、っ……中毒性、あるしね……あんまり好きじゃないんだよ……」
だからといってこんな、どうして。
「ちょっと休めば、動けるからさ。それにほら、もう、喋れはするし……近場の敵は皆殺しにしたし……長時間、使ったわけじゃあないしね」
汗だくで血まみれになり、顔を青くしながらも、いつもの笑顔を見せるカオンさん。
その震える右手が、私の頬を撫でる。
「だからまぁ、ここは、格好良いお姉ちゃんを褒めるってことで、泣かないで、ね?」
そう言われて気づいた。
自分が悔しくて、不甲斐なくて、情けなくて、怒りで、涙を流していたことを。
――私がすぐ立ち上がれなかったから。
――私がすぐ返事をしなかったから。
――私が弱いから、カオンさんに無理をさせた。
嫌だ。こんなのもう二度と嫌だ。
私は、もっと強くなりたい。
もっと戦えるようになりたい。
誰も苦しませないために、誰も殺させないために、私が、【陽魔】を殺したい。
もっと、強く。強く。沢山、殺したい。
「――私、強くなります」
だからそう口にした。
「強くなります」
もう一度、呪うように。誓うように。
そのときは、そう言うのが精一杯だった。
「強く、なります」
何度も何度も。憎むように、そして、変えるように、繰り返す。
「……期待、しているよ」
カオンさんはそう言って、優しく微笑んでくれた。
……雪が止み始めていた。