1
――――これは私だけの昔話。
――――誰も覚えていない、秘密の話。
まだ私達がジュウナナになる前のこと。
幼い頃の私達は、画一的だった。
同じ髪型、同じ服、同じ年齢――。
そうして一つ所――戦術院幼修舎――に集められ、私達は、これからに向けての教育を受けていた。
私達は選ばれた存在。
私達は人類の護り手。
私達には無限の戦いが待っている。
眠り、食べ、学び、遊び、それを繰り返す。
その小さなサイクルの中で、私達一人一人は、心の違い、その個性を得ていく。
そしてその個性こそが、私たちの【霊器】の基盤となる。
私たちが同じなのは、本当に最初の、見た目の部分だけ。
心に合わせて、身体も個性を得ていく。
だから私は――――みんなが木漏れ日の下駆けまわったりする中で、一人隅に隠れて耳を澄ませていた。
誰とも喋ろうとせず、ただ一人、座って静かな時間を楽しんでいた。
それが『私』だった。
当時の私にとって、それが唯一の幸福。
私のいる世界の繋がりを全身で感じることが、本当に心地よかったのだ。
そして、私だけがそうなのだと、理解していた。
だから別に寂しくもなんともなかった。
何でそうなってしまったのかは、私にもわからない。
どうでもよい。
私以外の皆は、全員がそれぞれと交流があり仲良くしていたようだが――
私には、関係ない。
静かな音さえ聞ければよい。
そのために一人になることは、むしろ嬉しい。
なのに――――
「――ねぇ、何しているの」
その声の主は、身勝手に私の領域に入り込み、私に問いかけてきたのだ。
その時の私はまだ彼女の名前を知らない。
私は無言を貫いた。
そうすれば誰もかれもみな離れていくからだ。
だからきっとこの子もこのまま離れて――
「みんなと一緒にいないの?」
私は無言を貫いた。
「みんなといるの、嫌なの?」
私は無言を貫いた。
「髪きれいだね」
私は無言を貫いた。
「いつもここにいるよね」
私は無言を貫いた。
「ずっと座ってて疲れない?」
私は無言を貫いた。
「よいしょ」
私は無言を貫きたかった。
「何で隣にくるの」
「あ、喋った」
「近い」
「お話しようよ」
「やだ」
「やだじゃない」
「嫌だ」
「嫌じゃない」
「うるさいのやだ」
「じゃあうるさくなければいいの?」
「みんなうるさい」
「じゃあ、私だけならいいかな」
「意味わかんない」
私はその子に急に手を引かれ、無理やり立たされた。
「行こう!」
「どこに――――」
「みんなのいないところを、探そうよ」
「なんで」
「静かならいいんでしょ」
「そういうわけじゃ――」
「一緒にさがそう」
「……いいの?」
「うん。だって私も気になるもん」
「何が――」
「あなたが聞いていたもの、気になるから」
そんなこと言われたのは、初めてだった。
その瞬間から、世界が知らない音を奏で始めた。
風が私達を撫でた。
私はもつれそうになった。
それでもあの子は走ろうとする。
力強く私の手を握ってくる。
「ね、名前教えてよ」
あの子が、微笑む。
「わたし、の、名前は――――」
――――これは私だけの昔話。
* * *
「――どうしてこんな真似をした?」
戦術院院長は、開口一番にそう言い放った。
そこに、怒りはない。
むしろ、私に対する興味がある……ように思う。
この白髪の老人は、常にこうやって私に問うてくる。
ゆったりと、それでいて不気味に。
まるで値踏みするかのように。
――はっきり言って私は、この老人が苦手だ。
仰々しい白い衣装とか、よくわからない勲章の類とか……
そういうものは関係なく、ただひたすら、腹の底で何を考えているかわからない、深い沼のような瞳が嫌いだ。
「『こんな真似』とは……どのようなものでしょうか?」
疑問文にわかりきった疑問文を返すのは、マナーだ。
このマナーは今、私が作った。
「単独で【親】を倒したそうだな」
深々と椅子に座り直してから、院長が言う。
わかってはいたが、こちらの反抗など全く気にもしていない。
不愉快さや怒りを一切見せないのが、逆に気持ち悪い。
「はい。私一人で【親】を殺しました」
「報告によれば、君はイシガミ・ツグネ副級長の進言を無視し、単独で戦闘。【第二解放】を行ったとまである」
「仰る通りです」
ツグネはこういうところで嘘をつかないから困る。
少しぐらいは誤魔化して欲しいものだ。
「イシガミ・ツグネは、君と二人であればその【親】をもっと確実に倒せたと言っている。何か反論はあるかな」
――まどろっこしい。
「結論から言わせていただきます。私は、自分のみが【第二解放】を行うことで損耗を最小に抑えようと試みました」
「それはイシガミ・ツグネの【第二解放】の使用を留めようとしたということかね」
わかっているなら確認するな。
「はい」
このやり取りは、果たして何回目だろうか。
院長は、私が今回のように一人で【第二解放】を使って事を片付けると、必ず確認をする。
意味のないやりとりをする。
わかりきった問答をする
下手したら一言一句同じ報告をしたことも過去にあったかもしれない。
だが、それでも私は、丁寧に報告しなければならない。
決まりだから、と言ってしまうのが一番手っ取り早い。
面倒くさくない。
とにかく私は、この老人に見つめられるのが、根本的に嫌でたまらない。
だからこそ早く問答が終わるように、同じやりとりを繰り返すのだ。
「……ツグネの戦略は、彼女が【第二解放】を行うことを前提としていました。彼女の【第二解放】は、強力な分、負担が凄まじいです。私一人が【第二解放】を用いたほうが、後に響きません。院長もその点はご存知のはずですが」
「今回、君の【第二解放】が【親】の力を上回る保証がどこにあったのかな」
「そんなものがあれば、ここに呼ばれることなんてないでしょう」
出来うる限り最大の笑顔と反抗心を見せる。
イラついてんだよわかってほしい。
……沈黙。
院長は、別段呆れた様子もなく、手に持っていた報告書にわざとらしくサインをして見せた後に――
「君は貴重な存在だ。今後無茶はしないように」
決まり文句で、その場をしめた。
* * *
院長室を出て、戦術院東分舎へと続く廊下を進む。
窓の外に広がる春先の風景を見ながら歩を進めていくと、誰かが進む先で手を振っている気配を感じ、振り向く。
「アイハ」
ツグネが、廊下の壁にもたれながら、右手をこちらにあげている。
その姿は、私の身を包んでいる無骨な戦闘式服と違い、ブラウスと藍色のタイ、そして丈の長いスカートで構成された院内服であった。
「もう少し報告書には嘘を交えて書いてよ」
精一杯の皮肉を込めて言うと、ツグネはぷっと噴き出す。
「ごめんね。でも私も怒られるのは嫌だから」
「うわぁ、自分勝手だ」
「自分勝手なのは、アイハでしょ。無茶をしたのは事実なんだからね」
「返す言葉もございません」
ツグネと並んで、東分舎の方へと歩き出す。
時刻は昼時、そろそろお腹も空いてくる頃だ。
「私は部屋戻って着替えてご飯食べに行くけど、ツグネはどうする?」
「私もまだよ。アイハと一緒に行くわ」
「ん」
日は高い。春の陽気は、屋内の空気からも十分に感じられる。
さて、今日は何を食べようか。
* * *
私達【ジュウナナ】は、生まれた瞬間からその運命が決定付けられている。
どのようにして判定しているのかは私も未だに知らないが、【ジュウナナ】が【ジュウナナ】たる所以――即ち、【霊脈】を操る力の有無――は、生後すぐに判別される。
その力の存在を確認された者は、物心つく前からここ戦術院に入り、ある程度の特権が許された生活の中で将来の【ジュウナナ】となるために教育を受ける。
そして、約束された時を迎え、その力を完全に覚醒させる。
その覚醒はつまり、この世界で欠落した17歳を迎えることを指す。
――私が正式に【ジュウナナ】として覚醒したのは5年前。
それから私は、5回目の17歳を迎えていた。
私の見た目は、あれから何一つ変化していない。
……東分舎内の寮に存在するツグネと私の共同部屋は、結構広い。
というよりは、広すぎる。
一つの部屋を東西で二つのスペースに分けて使っているのだが、それぞれのベッドと机のみならず、クローゼットや本棚、サイドボードやら姿見やらと、余計ともいえるような家具がそれぞれに揃っている。
それだけではなく、専用のシャワースペースもあったりする(こいつは実はかなりありがたい)。
これも私とツグネが、部隊を指揮する級長と副級長であるからなのだが――正直、私個人としては寝るところと本棚だけで十分である。
もっとも、ツグネの方はそうではないらしい。
彼女は色々な小物や茶器が置いてあったりと、与えられているものを無駄なく有効活用している。
わざわざ戦術院の外で作らせたり取り寄せたりしているらしく、彼女はこういう部分が私と大きく違う。
私は汚れた式服を脱ぎ、結っていた髪を下ろす。
その瞬間、私の中で急激に空腹感が増してくる。
身体は正直とでも言うべきか、戦いから少しでも開放されるとすぐさま騒ぎ立てるのが私の胃袋の厄介なところだ。
シャワーを早々に浴びて、院内服に着替えるころには、開放感もあいまって更に空腹は研ぎ澄まされていた。
「お待たせ」
部屋の外で待たせていたツグネと共に、宿舎から大食堂へと向かう。
戦術院は巨大な本舎を中央とし、東西南北にそれぞれ個々の役割を持つ分舎が存在する。
私達が食事を取る大食堂は本舎の内側の方にあるため、そこに向かうためには構造上本舎内を少し歩くことになる。
宿舎内にも小さな食堂は個々に存在するのだが、大食堂は若干食べられるものが豊富なことが強みだ(だから私達はわざわざ毎回大食堂で食べる)。
問題は、大食堂に向かう道すがら、どうしても本舎内を少し歩かねばならないということにある。
それはつまり、下位層の子――未だ、【ジュウナナ】でない子も含めて――と必然的にすれ違うことになる点を指す。
これの何が問題かと言うと――私の銀髪に関わる。こいつがどうしても悪目立ちをしてしまうのだ。
というのも、この戦術院で銀髪は私一人しかいないことにある。
そしてこの銀色が指し示す意味は、下位層の子達にとって無駄に大きい。
……もっとも、私はこの銀髪と既に4年の付き合いがある。
今更大げさに嫌がったりはしない。
どんな反応をされるかも慣れきっている。
そんなことより、美味しい食事をすることの方がはるかに重要だ。はるかに、重要なのだ。大事なことだ。二回も言う。
……戦術院とは、旧時代――【陽魔】出現以前の時代――の日本国でいう横浜の大廃墟群を一部切り崩し、海岸沿いに新たに建てた巨大な建築物群と、その周辺の土地を指しての名称である。
元日本列島――現在は第一総力決戦による海枯れの影響で大陸と直結している――における現人類の生息圏は、旧神奈川、旧東京にのみ限定されており、その領域を僅かにでも外れれば、そこには命の気配の無い世界……通称『暗黒大陸』が広がっている。
本来は、【陽魔】との戦いで人類が死滅してしまったユーラシア大陸を指して『暗黒大陸』と称していたそうだが、現代では、人類の非生息圏の総称として『暗黒大陸』という言葉が用いられている。
人類が、そうした『暗黒大陸』に囲まれ、物理的な制限を大きくかけられているのに今日まで存続している理由は、旧時代の時点で『最後のエネルギー革命』と称されるタキオン圧縮炉の開発が成功していたことと、【陽魔】によってその総人口が激減し、皮肉にも食糧問題が強制的に排除されたことが特に大きな要因であると言われている。
一応、人類は【陽魔】の力により少しずつ生息圏を拡大し、食料の生産地を効率的に増やしているそうだが、その進みはあまりにも微々たるものであることは否めない。
『暗黒大陸』に息を潜める【陽魔】を殲滅しない限り、いつか行き詰まることは明白だ。
――と、教わったのはいつのことだっただろうか。
歴史の教練は好きだ。しかし、自分の頭の中の出入に関する歴史には、どうも疎い。
ただ私は、この話を思い返すたびに常々感じることがある。
人類が存続できた大きな要因として挙げるべきは、そこではないと。
日々、【陽魔】と接触しているからこそわかることだ。
あいつらは、私達が思っている以上に私達に興味などない。敵意もない。
だから今日まで人類は生存できたのだということを。
……大食堂は、今日も少女達の話し声で賑わっている。
そう言うと華やかに聞こえるかもしれない。「原始、女性は太陽だった」などという言葉もあるそうだし。
使い方がこれであっているかどうかは知らない。
「混んでいるわね。橙や黄の子も来ているみたい」
ツグネが、既に食事をしている子の院内着のタイの色を見て判断する。
「わざわざ来なくても西で食べればいいのに」
戦術院の少女達は、7つの階層(紫・藍・青・赤・橙・黄・緑)に分けられ、それぞれで4つのクラス(風・雪・月・花)を作ることになる。
私の言う『西』とは、この7つの階層の内、正式にはまだ【ジュウナナ】ではない子が集まる赤・橙・黄・緑の4階層の寮がある戦術院西分舎の食堂を指しての俗語だった。
「結局みんな、種類の多さに引かれるのかしらね」
優しげに微笑みながらツグネがつぶやく。
こういう雰囲気からツグネは下階層の子から人気がある。わかる。私もほっとする。
「でも西の宿舎からここまでは、結構あるよね」
「そうね。でも私達も、橙の時のこっちに食べにきたことあるでしょ」
「そうだっけ?」
「そうよ。アイハが『青の人たちのご飯食べてみたい』とか言ってさ。きっとこの子達も、その時のアイハと同じなのよ」
「あー、そんなことあったっけか……」
「覚えてないの?」
「昔のことだし」
「ほんとアイハは、昔のことを忘れちゃうんだから」
「そんなにかなぁ? そんなにかぁ」
「同期の私が覚えていて、それはないんじゃない?」
「はいはい、どうせ私は老けこんでいますよ。銀髪だけに」
わざとらしく髪を持ち上げて振り回す。ぶふっ、と噴き出すツグネ。
鉄板と言うのも憚られるほどにしょっちゅう言っているネタだが、ツグネだけは毎回笑う。
『箸が転がっても笑う年頃』という奴だろうか。使い方が合っているかは知らない。
「――あっ、あの人」
声がどこかで上がった。
直後、視線がこちらに集まる感覚がする。
どうやら、銀髪お披露目大会の時間が始まってしまったようだ。
「はぁ。いつものこととはいえ、なんだかなぁ」
「慣れきっているんでしょ? 口にしないの」
好奇の視線を浴びつつも、早々に調理場と隣接した注文用のカウンターへ向かう。
受付ロボットの挙動は、相変わらず安定している。見習いたいところだ。
私はボリュームのある肉料理を注文した。
肉は美味い。肉は私を裏切らない。私も肉を見習いたい。
ツグネはサラダのみだった。
ツグネはお昼をいつもあまり食べない。
三食を満足に食べることができるのが私達の特権の一つだというのに、彼女はいつも控え目だ。
やがてそんなに間を置かず、カウンターから、たっぷりと濃厚なソースが絡んだ牛肉ときのこと人参のソテーを主菜として、ふわふわのパン、葉野菜多めのサラダ、香りの芳醇な透き通ったスープ、それらが一つのプレートに並んだものが出される。
鼻腔を、ソテーとスープの香りで刺激されて、腹の音が鳴りそうになる。鳴った。
ツグネが「元気ねぇ」とつぶやく。
「常々思うんだけどさ」
私がそう口を開くと、空いた席に目星をつけたツグネが振り向く。
「私達、こういうところは普通の人間で良かったよね」
「どういうこと?」
「ご飯が美味しそうに感じたり、お腹減ったりってのがあること」
「いや、私が言ってるのは――何と比べて普通の人間かって話よ?」
「ん、ほら。昔の本とかでは、私達みたいな……人間兵器っていうの? そういうのがよくモチーフにされていてね。そこでは主人公が『ご飯の味がわからない。悲しい』とかで涙を流すシーンがあるんだよね」
「へぇ。でもそういうのってそれこそ『ご飯の味がわからない。悲しい』みたいな思考を無くすところまでやって『兵器』って言うものじゃないの?」
「そりゃそうだけど――」
ツグネはたまに斜め上の容赦ない思考を見せるときがある。
「私達は、私達の感情がそれぞれの【霊器】の成立に大きくかかわる――だから感情を消すことは絶対にできない。不便に思われてるのかしら」
「まぁ、それで言うと女の子しかジュウナナになれない時点で兵器としては不便なんじゃない」
「言えてるわね。こういうときこそ『悪趣味』って言うべき?」
「私達が物語の存在ならね。現実はそれどころじゃない」
「こういうときアイハなら何て言う?」
「うーん、『事実は小説より奇なり』かな。使い方合っているかわからないけど」
「なるほどね」
そうして私達は空いた席につく。
「――まぁ、アイハの言う通りよね」
「ん? 何だっけ」
「普通の人間で良かったってこと。感情については」
「そうだね」
「物語の存在なら、『普通』はどうなるのかしら」
「物語の存在なら――どうだろうね、やっぱ合理性を欠くんじゃないかな」
「それは、どうして?」
「そうした方が面白いから、かな」
「ふぅん。そういうもの?」
ただの持論である。
「なら私達の物語はどうなるのかしら」
「神のみぞ知るってとこかな。使い方合ってるか知らないけど」
「優しい神様であることを祈りたいわね。祈ったことないけど」
「違いない」
私達は食事に手を付けることにした。
ツグネが気を利かせて比較的端の席を見つけてくれたおかげで、周りからの視線はそこまで気にならない。
私は、牛ヒレを一口大に切って、ソースと改めて絡ませてから口の中に放り込む。
肉の柔らかさが十分に残る焼き加減で、噛んだ途端に肉汁が溢れ、別の部位を煮込んで旨味を抽出したソースと絶妙に絡み合う。
五臓六腑に幸福の電流が走る。思わず声が出てしまいそうだ。
「ほんと、美味しそうに食べるわね」
ツグネが微笑みながら言う。
「美味しいからね実際。やっぱ美味いのは良いことだよ」
お腹が減っているので、必然的に食事のペースが速くなる。
すぐに食べきってしまうのが若干もったいないと思いつつも、我慢ができない。
……実際は、こうして食事なんてしなくても、【ジュウナナ】は大気中に僅かに存在する霊脈を自分の身体に取り込むことで、空腹感を無くし、三ヶ月近くは連続活動ができる。
私ならば1年は問題ないだろう。
ただ、携帯食を含め、食事を取ったほうがエネルギーの補充として手っ取り早いのと、精神的な部分での充足が大きいことに意味があると聞く。
今現在私が感じている幸福を考えれば納得のいく話だ。
「……明日はどこになるかしらね」
ツグネが、サラダをつまみながら呟く。
どこ、とはつまり「どこで戦うか」ということだ。
「南海はしばらくないんじゃないかな。ここ最近は出ずっぱりでようやく【親】も減ったし。私は陸で地上戦がいいよ。空は情報処理が多くて疲れる」
「地上戦、ね……そういえば、紫月組が今、旧西日本に遠征に行っているんじゃなかった?」
紫月組は、戦術院最上位階層の内の一つである。
もしかしたら私達がいたかもしれない場所、でもある。
「あぁ、そういえばそうだったっけ。向こうと時期が被るのは珍しいね」
「あっちでは最近【陽魔】の発生が増えているっていう話……」
ツグネが、妙な所で唐突に言葉を区切る。
どうかしたのだろうかと思った、その瞬間。
「――アイハぁ! ただいまぁ!」
そう後ろから突然叫ばれて、次の瞬間、私の胸が鷲掴みにされる。
そりゃあもう遠慮なく、大胆に。おかげさまでものすごく、こそばゆい。
こんなイタズラをしてくるのは、私の知る限りで一人しかいない。
なので私は、白昼堂々と私の乳を揉んでくる背後の人物の額を、裏拳で容赦なく小突いた。
「痛っ!」
私の胸から手が離される。
「噂をすればなんとやらってやつか。おかえり、カオンさん」
「た、ただいま……」
額を抑えて蹲る黒髪で短髪の女性は、キド・カオン。
戦術院に現存する数少ない私の先輩の一人であり、そして、間も無く【黙霊】を迎える最高位――紫月組級長――の【ジュウナナ】の一人である。
「もー。遠征帰りの先輩を労わるって気はないわけ?」
立ち上がったカオンさんの身長は、この食堂にいる誰よりも高い。
顔立ちも私達より大人びた雰囲気があり、黙っていれば格好いい。
そんな素の容姿で既に目立つというに、今のカオンさんは何故か戦闘式服を着ている。
院内着しかいないこの食堂では、違和感が一層浮き彫りになっていた。
「おっぱい揉む癖を直せばいつだって労わってあげるよ」
私がそう返すと、カオンさんは「えー」と大げさに声を出して動揺を演じる。
見た目に反したこういう馬鹿っぽさが、この人の良い所ではある。
「アイハのおっぱいが揉めないなんて、そんな、あたしの生きがいを奪うつもりかっ」
「別に私のじゃなくて自分のを揉めばいいでしょ」
「お前、つまんないこと言うね。自分のおっぱい揉んで楽しい奴がいるか? 変態さんか?」
「人のおっぱい揉むのも十分変態でしょうに」
「好き合っている者同志なら、許される行為だ!」
「たとえ好き合っていたとしても、カオンさんにはおっぱい揉んでもらいたくはない」
「そんな! ひどい! 当代戦術院の誇るアイハの巨乳がおあずけだなんて!」
「――――二人ともっ! 真っ昼間からいい加減にして! 下品よ!」
かっ、とツグネの一喝が飛ぶ。
それは、食堂にいる全員に刺すような威圧感を与える凄まじいものだった。
正直私もすごく怖い。
ぷるぷると震える手と、殺気のこもった眼差しが、私とカオンさんに向けられている。
この状態のツグネを前にして冗談をかけ合うのは自殺行為に等しいので止めざるを得ない。
見ると周りの好奇の目線も今のツグネによって完全に散らされたようだ。
「……おほん。で、カオンさんはいつ帰ってきたの? っていうか式服なのは何で?」
わざとらしい咳払いを交え、いつもの落ち着きのある声色に戻るツグネ。その切り替えの早さが逆に恐ろしい。
「それは――」
「今ちょうど帰ってきたばかりでお腹減っているから」
カオンさんの背後で、彼女の言葉を阻む独特なトーンの声が響く。
いつも気だるさが残るこの声を発する存在も、私の知る限り一人しかいない。
「ハヅミもいたんだ」
「いました。ただいま」
「おかえり」
カオンさんとはまるで真逆の、小柄でどこか幼い雰囲気が特徴的なモリノ・ハヅミが二人分の食事を持ってそこに立っていた。
いつもならふわりとしたラインを保って肩までぐらいに伸びている艶やかな黒髪が、今日は少しだけよれたり跳ねたりしている。
それに、彼女もカオンさんと同じく戦闘式服のままだった。
「はいこれ、級長の」
ハヅミはそう言ってカオンさんにミートソースのタリアテッレを差し出し、ツグネの隣に腰掛けて、魚料理を主菜としたプレートをテーブルに置く。
自然と、カオンさんも私の隣に座る。
「なるほど、二人共さっき出撃から帰ってきたばっかりってことね」
「実は私達も、カオンさん達より半日早く帰ってきたばかりなんです」
「へえ、微妙にそっちと被っていたんだね」
「いただきマンモス」
会話の流れをぶった切り、お得意の変わった挨拶をしてから、マイペースにムニエルを食べ始めるハヅミ。
こう見えて彼女は私やツグネと同期、つまり同じ【ジュウナナ】の5回生である。
ただし彼女は、私達とは違って階級は一つ上の紫、しかもカオンさんが級長を勤める紫月組の構成員だ。
要は、私やツグネと違いカオンさんを追って紫の階層に上がったということである。
だからハヅミとカオンさんはこうして行動を共にすることが多い。
当然、最高位の階層に位置することから、ハヅミもハヅミで【ジュウナナ】として相応の実力を持つのは、言うまでもない。
「いやぁ、ところで、聞いたよアイハ。また派手に稼いだんだって?」
カオンさんがへらへらと笑いながら言ってくる。
帰ってきたばかりなのにもう知っていることに、私は少しばかり驚いた。まったく耳聡い人だ。
「稼いだとは人聞きが悪い。級長として、最善手を行っただけですよ」
「おかげで副級長含め、全員が報告書に色々書かなきゃいけなくなりましたけどね」
皮肉たっぷりの言葉がツグネから飛んでくる。
その刺々しさでこちらの食べる手が一瞬止まってしまった。
カオンさんはカオンさんで、ツグネの皮肉を引き出しておいて派手に笑い始める。
「はっはっは! 相変わらず女房の方は厳しいねぇ。でもさ、噂で聞いた話じゃあ、今回の【親】は脅威Aだったんでしょ? 事前判定から2階級更新なんてあたしも3回ぐらいしか味わったことないよ。しかもそれを現場で片付けるとかさー」
もうそこまで知っているなんて、さすがに怖いぐらいだ。
「これでスコアではアイハがトップ」
まるでタイミングを計ったかのように、ハヅミがカオンさんの言葉に付け足してくる。
「もういっそ、アイハが紫月の級長やる? ぶっちゃけあたしよりイケると思うけど」
「ダメです」
そう言ってきっぱりと断ったのは、私ではなくツグネだった。
「今回はたまたま上手くいっただけです。アイハはああやって状況が少しでも厳しくなるといつだって率先して無理しようとする。級長が無理してやられたのでは、元も子もないです。そもそもスコアだって【親】の数の話であって、【子】を含めたらカオンさんの方が圧倒的に上じゃないですか。大体、アイハとカオンさんは【霊器】の性質や戦術が違うのだから、単純なスコアで比べたって意味無いですよ」
「と、まぁこんな感じで、ダメということで」
そうやってツグネの意見に同調することで、カオンさんの冗談をやんわりと退ける。
実際、ツグネの言っていることは正しい。
私とカオンさんは、それぞれ戦術的な役割が違う。得手不得手もある。
それを理解しているからこそ、私とカオンさんの両方の立ち位置を尊重し、発言してくれる。
ツグネはいつだって冷静で、そして、優しい。
……それ故にツグネは、私が私の力のため藍の階級で留まらなければならないときに一緒に残ることを選んでくれたのだ。
「お熱いコンビ」
いつの間にか食事を終えていたハヅミが口元をハンカチで拭きながら言う。
「ほんとだよー。あたし達も頑張ろうなー、ハヅミ」
「頑張ります」
二人して親指を立ててサインを交し合う。言葉少なくとも通じ合ってる感じがする。
こうして見れば、この二人だって、私達以上にベストコンビだ。
「ふふっ」
思わず笑みがこぼれる。
……他愛も無い昼食。何故だか懐かしい。
カオンさんと私達同期3人がこうして集まることが多いのは、昔、カオンさんが級長を勤めていた橙花組に私とツグネ、ハヅミがいたからだ。
その後には青風組でも一緒になったことがある。
戦術院の日々に、まだまだわからないことが多かった頃。
そして、【ジュウナナ】になったばかりの頃。
大切な時期に私達はいつだって一緒だった。
その名残なのだ。
「――さて、あたしとハヅミはお風呂にでも入ってこようかね」
ちょうど全員が食べ終えたタイミングで、カオンさんが伸びをしながら言う。
「先に入ってきた方が良かったんじゃないの?」
「それじゃあアイハと会えないっしょ? 食堂にいるって聞いたからすぐ来たの」
「いや、それこそお風呂入ってご飯食べてから会いに来れば良かった話なんじゃ……」
「わかった。正直に言う。一刻も早くアイハのおっ……胸が拝みたかった。それだけ」
言い直す意味があったのか。まぁ、ツグネの鋭い視線がそうさせたのだろう。
「毎度思うけど、別に私じゃなくていいんじゃないの」
「ダメ! アイハのじゃなきゃ絶対ダメ! アイハのは大きくて張りも良い! すごい才能なんだぞ、そのおっぱいは!」
「私はひんそーだし、ツグネは普通だからそうなる」
ハヅミが自分の胸とツグネの胸に手を当てながら言う。あまりにもそれが突然過ぎて、ツグネは怒るタイミングを失っていた。
「大きくても邪魔なだけなんだけどね」
確かに私の胸は、周りと比べて少し、いや結構大きい。
なので礼装を着るときは毎回キツめの下着を選んで、動きに支障が出ないようにしている。
そういう意味で邪魔なのは事実だ。
しかし本音を口にすると、カオンさんが表情で露骨に「わかってない」と語る。
「今後、男に困らないためにはその胸が必要だと何度言えばわかるんだアイハ君!」
「いや、男の人とか言われても実感ないんですけど……」
「そうですよ。【黙霊】の後のことですし」
何故だか顔を赤らめるツグネ。ハヅミは自分の胸に両手を当てて突っ立っている。
「かーっ、これだからこの子達は。機会があったらそこらへんみっちり教えないとね」
「結構です」
「最後までつれない!」
そんな感じで最後まで騒がしくしながら私達は食堂を後にする。
今日はこの後することも特にない。どう休むか考えながらカオンさんと一先ず別れようと思った、その時。
「あ、そうだそうだ」
何かを思い出したカオンさんが、ほんの少しだけ真面目なトーンで口を開く。
「シィラさんがアイハのこと呼んでいたよ。何か頼みごとがあるんだってさ」
「教官が?」
思いがけないことを言われたので、ついつい聞き返してしまった。
シキモリ・シィラ教官とはこの戦術院に多数いる教官の一人で、【霊器】や旧時代の歴史に関しての教務を担当している人物であり、同時に、実戦での戦術考案にも関わる指揮官でもある。
そして、数少ない女性教官の一人でもあった。
紫月組と、それ以外にも3つの級の監督を行っている女性教官はシィラ教官しかいないことから、その特異性が十分に伺える。
私達全員はほとんどの知識を彼女に教え込まれたので、教官の中でも最も付き合いが深い。
特に私やカオンさんは、彼女の影響で旧時代の文化に興味を持ったという点もある。
そうした色々とお互いを知る関係ではあるが、名指しで何かを頼まれたことはあまり覚えがない。
「あたしとハヅミも報告があるから、後で一緒に行こう」
「了解、じゃあツグネと部屋で待ってます。お風呂終わったら呼んでください」
そうして今度こそ私とツグネはカオンさん達と別れる。
その後、二人が来るまで私室でツグネの淹れたお茶を飲み、時間をつぶすことにした。
その時にツグネに、昼飯時の下品なネタについてくどくどと文句を言われたことは、言うまでもない。