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ジュウナナ【じゅうなな】
永遠の象徴。
人類における、その守護者。
――――終録語典
* * *
空が広がっている。
雲海を切り裂き、高速で飛翔する黒の巨大な輸送機。
その飛行音が、機内のアイハの耳に、静かに、薄く、纏わりつくようにして響いている。
小さな窓に映る外の景色が、雲海と、上方にわずかな黒を帯びた青空のみになる。
アイハは、自分が星々の息吹が近くに感じられるほどの高度を飛んでいることを認識する。
――随分と高いところまで来たものだ。
まるで他人事のようにアイハはそう思考していた。
――アイハは、長い銀髪が印象的で、どこか氷刃を思わせるかのような透き通った瞳を持つ少女であった。
彼女は、窓に反射して映る自分の表情に焦点を合わせる。
そこにあるのは、どこか強張った表情。
まるで初めてのような面だ。
そう自分で思えてしまうことに、彼女は苦笑する。
「――――緊張、しているの?」
室内にその問いかけが響く。
それはアイハの向かいに座る少女から放たれたものだ。
柔和な表情がアイハと対象的な、少し赤みの差した長い茶髪の少女、ツグネが微笑む。
……ここは、輸送機にいくつか存在する『待機室』の一つ。
金属で覆われ、最低限のクッションとシートベルトにしか優しさのない無骨な一室である。
「――いや。全然」
ツグネの問いに対しアイハは淡白に応じる。
するとツグネは、ふっと笑い始める。
「嘘。アイハってば、緊張すると口数少なくなるから、バレバレ」
「……そんなことないよ。だって、今回が初めてじゃない。何度も空には出ている」
「私達は、ね。でも、あの子達は違う。だから緊張しているんじゃないの?」
「なんだよ。そこまでわかっているなら、言わないでよ」
「そんな緊張した表情でいられたら、こっちの方が疲れちゃうわ。言いたくもなる」
「どんだけ酷い顔していたのやら」
二人の笑い声が室内で重なり合う。
一度笑顔になったためか、アイハの表情には先程まであった鋭さが少しなくなっていた。
……二人は、黒を基調とした装備――ブレザーとプリーツスカート、タイツ、ロングブーツ――に身を包んでいる。
『学生服』と言うには、そのブレザーの装飾には奇妙な格調の高さがある。
左胸にある天秤を模したエンブレムの刺繍の細やかさは相当なものだ。
また、両膝と両肘、両肩には衣服に張り付くようにしてプロテクターが存在している。
腰回りには『道具』を機能的にしまうための収納がベルトで備え付けられている。
注視すれば、その装備一式が明らかに何らかの戦闘に備えたものであることがわかる。
とはいえ、この『式服』がこの時代における最先端の防護製を誇るものであるまでは、見た目だけでは把握は困難であった。
――輸送機の中に、新たにごぅんごぅんと何かが回転する自己主張の激しい音が響き始める。
そして、それに追随するかのように機内の通路を慌しく走る音もかんかんと鳴り始めた。
やがて、アイハ達が座る待機室の重々しい金属扉が、ごんという鈍い音とともに開かれる。
扉の向こうからは、その重厚さとはまるで見合わない一人の少女が姿を現した。
少女はアイハ達よりも一回り小さい年恰好であり、アイハ達のそれを白くしただけのような装備に身を包んでいた。
よく見ると、プロテクターの類は彼女には存在しない。
少女は緊張した面持ちで一度ぺこりと頭を下げてから、口を開く。
「まもなく境界前です。【飛空礼装】の準備が整いましたので、配置についてください」
「ありがとう。じゃあ、行こっか」
ツグネが立ち上がりながら少女にそう返すと、アイハは名残惜しそうに窓の外を一瞥してから、ツグネに続く。
待機室を出る際、アイハは自分達を呼びに来た下級生の肩に軽く手を乗せて、「ありがとう」と声をかけた。
下級生の少女は、その言葉でぱっ表情を明るくする。
その後、少女は再び深く頭を下げてアイハ達を見送る。
アイハは少女に背を向けながら掌を軽く振ることで応えた。
……アイハとツグネは、最上層から、低い唸り声を上げる機関部を通過して、輸送機の下層部へ降りていく。
彼女たちの歩みに合わせて、ブーツの底と金属の床がぶつかる音が響く。
「――今、何考えているの」
ツグネが問う。
「……足音が面白いってことかな」
わざとらしく大きな足音を立ててアイハが答える。
「結構カンカンうるさいよね」
「うん」
……二人が下層部に近づくにつれて、同じような足音が増えていく。
アイハは、同じ場所に集いつつある足音に、葬送のイメージを重ねていた。
――これから私達は、私達であることを、証明する。
アイハはその呪文めいた言葉を、音として発さずに、頭の中で反芻させる。
それが彼女の習慣であり、そして、習性でもあった。
やがて、アイハ達は輸送機の最下層――彼女達を空に放る場所――に到達する。
そして、時同じくして、アイハ達と同じ式服に身を包む、同年代であろう少女達がその場に集う。
アイハとツグネを含め、8人。
彼女たちが集まった場には、彼女たちの装備よりも更に黒い、墓標を思わせるような長い立体物が置かれている。
その数もまた8つ。
……その場に集った少女達の様子には、些かの差異がある。
ある者は笑みを湛えて、ある者は緊張した面持ちで。
しかし彼女らは一様に、アイハとツグネの二人に視線を送っている。
「――それじゃあ級長。気の利いた一言を」
ツグネにそう言われ、アイハは拳を軽く握り、その瞳に再び鋭いものを宿す。
途端、緊迫した空気が場を包む。
アイハは、一人ひとりと目を合わせるように、ゆっくり視線を巡らせ、頭の中でそれぞれの少女の名前を呟いていく。
やがてその無音の点呼が終わり――
「――――さぁ、殺そう。殺して、殺し尽くそう。いつも通りに、奴らを皆殺しにするんだ」
アイハが口にした歌のようなそれは、静かな自己暗示であり、命令であった。
暴力的な意思を隠す気がない、剥き出しの言葉。
しかし、その場にいた者達にとって何よりも力強く頼もしい言葉であり――
彼女らの意志を統一させるには十分すぎる役目を果たしていた。
「じゃあ、配置について。飛空礼装自体はみんな初めてじゃないでしょ」
ツグネがそう声をかけると、それぞれが点在する漆黒の立体物へと近づく。
そして、全員が立体物に対し同時に右手を翳す。
直後、立体物が不明瞭な音を内側から鳴らし、次にひび割れ――
否。展開され、その表面にあった金属めいた質感が途端に失われる。
そしてそれらが、少女達を包み、その全身を覆ったかと思うと――
漆黒の立体物はまるで外套のような形状に変化し、彼女達の式服に重なるようにして落ち着く。
『黒い羽』とも呼ばれる飛空礼装は、こうして彼女達の身体に完全に馴染んだのだ。
……アイハは、この礼装を気に入っている。
熱くなりすぎて何処かに迸りそうな自分の感情を落ち着かせてくれるような――そんな、冷たい感覚がするからだ。
「――最終確認。各自、目標を視認したらどう動くか、わかっているわね」
全員がツグネの確認に対し頷く。
と、その直後――
彼女らの立つ最下層に、輸送機の駆動音とは別の、鈍い低音が響き始める。
それは、合図のサイレンであった。
少女たちの表情が、瞳の輝きが、鋭利なものへと変わっていく。
しばらくその音が鳴り続け、やがて、最下層の壁面がごぅんと音を立てて大きく口を開き、雲海を覗かせる。
急激に空気が暴れ始める音と共に、空の青も徐々に見え始め――
気圧差で機内が大きく乱される前に既に――
――八対の翼が、大空に放たれていた。
少女達の纏う飛空礼装は、彼女達が空に身を投げた瞬間から、漆黒の鋼翼ともいえる形状に変化している。
不可視の力である【霊脈】を推力とするその翼が、彼女達に空の自由を与え、黒い天使の如く仕立て上げる。
……飛び出す直前までは騒がしかった耳元が、空に放り出され翼を広げた途端に静寂を帯びることを、アイハは毎回不思議に感じていた。
輸送機は彼女達を空に置いてきぼりにした後、すぐさま回頭し加速して、雲の中へ隠れていく。
あの輸送機は役目を終えた。ここからは、自分たちの番だ。
アイハは、向こうから見えていないとわかっていても、雲の向こうに一度だけ感謝の意を込めて手を振ってみせた。
「――ツグネ、ヒズミ。索敵を開始」
アイハが首元のチョーカー型の通信器を起動して指示を出す。
それを受けて、ツグネと、ヒズミと呼ばれた少女の二人が、同時に発声する。
まるで調律をするかのな美しい高音。
だが、明らかに通常の音と違う伝わり方と速度で、歌声が全体に一気に広がっていく。
これが彼女達にとって一般的な索敵の方法であった。
「――3時の方向、約10キロ、ほぼ同高度。【子】およそ60。【親】確認できず。こちらに向かって微速前進中」
ツグネの淡々とした報告。
「修正無し」
同様に索敵をしていたヒズミが、その報告の正確さを保証する。
「陣形を『三叉槍』に。こちらから一気に切り込む」
アイハの号令に対し全員が了解し、蒼空にアイハを三叉の中央とした槍のような陣形が形成される。
そして――
「――全速、前進」
――――その号令と共に、槍は放たれた。
初速から最高速までのタイムラグがほとんどなく、『三叉槍』となった一同はまったく陣形を乱すことなく突き進む。
雲を大きく裂いて、高速に突入したことを示す衝撃波を周囲に広げ、索敵によって補足した目標との距離を躊躇い無く詰めていく。
その勢いは、正に神話の英雄が投擲した槍のそれであった。
やがて、目標との距離が埋まっていき、アイハが前方の巨大な雲の陰に目標の存在を知覚する。
――殺気。
「回避ッ!」
敵からの攻撃を直感したアイハが叫ぶ。
その直後、白い無数の肉の矢が、少女達を貫かんと、彼女らの進行方向から雲を裂いて飛来してくる。
アイハは、陣形の先頭であるが故に最初に自分に飛来してきたその矢群を、身を僅かに翻し最小限の動きで回避する。
だが、弾幕はまだまだ厚い。
次々と迫る次弾に対しアイハは、先の回避で生じた回転の勢いを前進する力に変えて――
――アイハの右手が、真一文字に振るわれる。
否。
振るわれたのは、その手に顕現し、その手に握られた、巨大な黒い片刃の一刀だった。
【霊器】。
それは、アイハの秘めた力の結晶であり、彼女たち固有の武器である。
【霊器】の切っ先が半月を描く。
その太刀筋から、不可視の力の波が迸る。まるで、斬撃がそのまま波となって放たれたかのように。
アイハ達に牙を向く肉の矢は、その波によって一気に薙ぎ払われる。
弾幕が吹き飛び、再び開かれる視界。
「このまま続け!」
アイハは背後をちらと見て誰も負傷していないことを確認し、号令の直後、再び最高速へ突入する。
「ツグネ、援護を!」
「了解」
陣形の殿を努めていたツグネと、彼女の付近にいた二人が停止し、その中でツグネだけが飛空礼装の翼を一段と巨大化させる。
それはまるで空中に自身を安定させるかのようだった。
――直後、ツグネの口から紡がれる戦歌。
それには先の索敵とは違う明確なメロディーが存在している。
勇ましくも神秘的な旋律が戦場に広がっていくと共に、ツグネの五感が歌に変換されていく。
「【霊器】、展開」
歌を唄っているはずなのに、もう一つ口があるかのように音声を発するツグネ。
それと共に、ツグネの眼前の空間がわずかに歪み始める。そこに高密度の霊脈が発生しているのだ。
やがて、その霊脈の渦からじょじょに形を成していく巨大な黒い砲塔。
全長が5メートルをゆうに越えるそれは、ツグネの眼前に形成された霊脈の渦を根元とし、アイハ達の進行方向のその先へと砲口を向けている。
アイハの刀剣型のそれとは全く違う形だが、この無骨な砲塔こそがツグネの【霊器】であった。
「射撃、開始」
――明滅。
ツグネの宣言と共に【霊器】から放たれた光が、前線のアイハ達を一瞬で追い越し、更に前方の雲の中に入り込む。
直後、炸裂して雲を一気に吹き飛ばす。
遅れて響く、砲音らしからぬ甲高い高音。その余韻。
「目標、視認」
ツグネの砲撃によって吹き飛ばされた雲の中から現れたのは、白を基調とした異形の生物達であった。
それぞれの全長は4メートル程。
蜥蜴のような下半身に、熊のような毛深い上半身を持ち、およそ頭らしきものが存在せず、その背から、身体の大きさに比べて異様に長い一対の骨のようなものが飛び出ている。
数は60。
……その姿を視認した瞬間、アイハの瞳の中の氷刃が、闘志と殺意の光を宿す。
彼女は、殲滅すべき敵の名を口にする。
「【陽魔】は、殺す。全て、残さず」
それが、戦場における彼女の、最後の自己暗示であった。
アイハは、【霊器】の柄を強く握り直し、すぅと息を吸う。
「【第一解放】で終わらせろ!」
アイハのその咆哮と共に、少女達が全員、各々の力である【霊器】を顕現させる。
迎え撃つ敵――【陽魔】と呼ばれる異形――の群れは、何の予備動作もなく、まるで見えない糸で意思疎通をしているかの如く、高速で散開しだす。
【陽魔】のその飛行速度は、異形とはいえ生物的な外見や質感から予想されるものとはかけ離れたものであり、本来の空の住人である鳥獣の類よりもはるかに素早い。
【陽魔】に包囲される前に、アイハ達も『三叉槍』の穂先をさらに大きくするかのように陣形を拡大する。
その最中、最前線のアイハに、2体の【陽魔】が急速に迫り――
振るわれる凶腕。殺意。
それは当たれば人肉などたやすく弾け飛ぶほどの速度と強度である。
だが――
その強撃よりもはるかに速く、アイハの【霊器】が振るわれ、一体目の【陽魔】の肉に侵入する。
刃はそのまま内部の骨を断絶しながら斬り進み、胴を切断する。
そして、太刀筋は変わらず、もう一体の【陽魔】の肉に侵入し、再び骨を断絶し、またも胴を切断する。
一呼吸、一太刀で2体の異形を屠るアイハ。
その斬撃のあまりの速度で周囲の大気が震え、切断された2体は、突進してきた勢いのままアイハの後方へと二分割された状態で吹き飛んでいく。
その一瞬の攻防の直後、戦場に新たに閃光が迸る。
その閃光はツグネの砲から放たれたものだ。
戦場がその輝きによって照らされると共に、いくつかの【陽魔】が高密度の霊脈を固めた光弾で貫かれ、爆ぜていく。
何体かのダイヴァーはツグネによる光弾を回避していた。
だが、目標の近くにいた少女が、回避のために動きを乱した【陽魔】にすぐさま追撃し、各自の【霊器】で斬り、あるいは突き、あるいは叩き殺していく。
遠く後方で射撃するツグネの位置を把握した【陽魔】の内、何体かがすぐさま彼女に向けて移動を始め、もう何体かは、背中から生える奇妙な骨から、先ほど先制射撃に使われたものと同じ肉の矢をツグネに向け射出する。
飛来してくる肉の矢を、予めツグネと共に後方で停止していた2人の少女が、手持ちの【霊器】を以て弾き、薙ぎ払う。
あるいは、ツグネ自身が射撃によって撃ち落とす。
ツグネの方に直接向かった【陽魔】も、いくつかはツグネの応射で返り討ちにされ、接近することができた残りも、ツグネを護衛する2人によって打ち倒される。
隙の無い陣形による、一方的な戦いが展開されていた。
だがそうした状況にあっても、ツグネは一切高揚することなく、瞳に静けさを宿しながら、一体ずつ確実に対処していく。
アイハの殺意とはまた別種の冷たさがそこには存在していた。
「――ツグネ、【親】は」
アイハが視線を巡らせ、戦況の好調を確認しながら通信機越しにツグネに問う。
《まだわからない。並行して索敵は続けている》
通信機から響くツグネの声は落ち着いている。
「なら援護は最小でいい。索敵範囲を広げて」
《了解》
――刹那。
通信を終えたばかりのアイハに、一体の【陽魔】が背後から迫る。
【陽魔】は筋肉の隆起しきった巨腕から、刃のような歪な爪を生やし、それを彼女に振るう。が。
その攻撃より数倍速く身を翻すアイハ。
迫る巨腕を逆に【霊器】で斬り飛ばす。
そして、返す刃でその胴に斬りかかり、およそ斬撃らしからぬ破裂音すら発生させる速度で、敵を両断する。
続けざま、斬り飛ばされて自身の後方へと吹き飛んでいこうとする上半身の骸を、アイハは一番近い距離にいた別の【陽魔】めがけて、ボールのように蹴り飛ばす。
文字通り肉の弾丸となった屍体は、アイハの狙い通り別の個体に激突し破裂させる。
アイハはそれを最後まで確認せず、その速度を以てまた別の【陽魔】へと肉薄する。
そして、反撃の暇を与えずに一太刀でまた新たに斬り伏せる。
アイハの一連の動作は、誰が見てもわかる程度には、その戦場において彼女が無敵であることを示していた。
敵味方どちらと比べても比類のない速度を誇るアイハは、縦横無尽に、上下左右関係なく、絶えず動き、一刀で確実に一匹ずつ【陽魔】を屠っていく。
速度もさることながら、凄まじい切れ味の【霊器】と、それを一切の乱れなく巧みに操るアイハの技量が、その一撃必殺を可能にしていた。
単独で暴れまわる彼女に、【陽魔】の注意が集まる。その攻撃の密度も、自然、彼女に集中する。
(――そうだ、来い。もっと来い)
そうしてアイハに目移りした【陽魔】を、ツグネや他の少女達が意識の外から確実に狩る。
アイハという最強の囮がいるからこそ成立する攻撃。
そしてこれこそが、彼女達『藍雪組』の常套戦術であった。
……戦闘が始まって10分ほど経過したが、鬼神の如きアイハの活躍により、少女達はほぼ無傷のまま敵戦力の半数を削ることに成功していた。
しかし、アイハの表情は浮かない。
それどころか、緊張がより増すばかりである。
というのも、この戦いにおいて最重要である第一目標が未だに見つかっていないからだ。
それを対処するまで、この戦いは終わったことにはならない。
アイハは、敵の手数が少なくなってきても絶対にその緊張を緩めようとせず、戦況を細かに確認し続ける。
やがて、残存する敵が両手で数えられるところにまで減り――
《――――警戒!》
唐突に、ツグネの切迫した声が少女達の通信機に響いた。
《1時の方向、速い! もう来る!》
ツグネのらしくない声の荒らげ方と明らかに異常な気配を察知し、全員が粟立つ。
同時に、1時の方向に向けたツグネの射撃が放たれる。
しかし、ツグネは命中の手応えを感じることができなかった。
それどころか、射撃によって生じた光の余韻を、まるで誘導路として辿るかのように、何かが高速で迫ってくる。
アイハのみが何かの接近を明確に直感し――
「防御ッ!」
彼女の叫びが、直後、金属と金属が高速で衝突したような轟音と、短く歪な悲鳴で上書きされる。
全員の視線が、その音の発生源へと集中する。
そして。
「――――リュウナっ!!」
アイハは、事実を認識するよりも先に、名を叫んでいた。
戦場の中央、陣形ではアイハの後ろで彼女の援護を担当していたリュウナが、へし折れた槍の【霊器】を握ったまま、わき腹と飛空礼装を抉られた状態で、頭を下にして落下していく。
流れ出る血が中空に残され、軌跡となる。落下していくリュウナには明らかに意識がない。
突然の状況。その、凄惨なる光景。
呆然――
その中で、アイハとツグネだけが、ほぼ反射的に次の行動に移っていた。
アイハは、落下するリュウナをすぐさま拾いにかかり、ツグネは、そのアイハに迫る何かに向けて、機関銃のように光弾を連射する。
「ツグネを中心に『球形』を取れ! フォロー1!」
アイハの号令が走り、硬直していた残りの面々がようやくはっと正気を取り戻す。
そして、前衛側の3人が別々のルートでツグネのいる戦場後方に向けて一時撤退を始める。
アイハに一番近い位置にいた1人は、アイハをフォローするために彼女のもとへ飛行する。
残る数少ない【陽魔】が二手に別れた少女達を追撃するが、アイハとツグネにそれを気にする余裕はない。
アイハが、ようやく落下するリュウネに追いつき、その身体を掴み、直後――
――【霊器】を躊躇いなく背後に迫る気配に向けて一文字に振るった。
振るおうとした。が。
――――甲高い激突音、火花。
衝撃で揺れ、弾け飛ぶ大気。
……対峙。
アイハの斬撃を受け止めたのは、新たなる異形の存在だった。
蜂のような針を伴った、脚の無い下腹部。
二対の、鎌のような鍵爪を生やす、筋骨隆々とした人間のような上半身。
そして身体の最上部に存在する、恐ろしく巨大な、単眼。
まるで眼球がそのまま頭部となっているかのようであった。
あまりにも不可解すぎるシルエット。
その異形は、翼を持たずして音も無く中空に静止しており、その鉤爪は、アイハの斬撃を受け止めていた。
リュウナを抱えていたがために片手で振るったとはいえ、アイハの一撃が止められるのは、この戦場において極めて異常な光景であった。
明らかにそれまで彼女達が戦っていた【陽魔】と一線を画している。
巨大な単眼と、アイハの両目が、互いの視線を交錯させる。
(――こいつが、【親】だ)
アイハは事実を確認するかのように、頭の中で言語化する。
そして確かに発生した沈黙。
緊迫を示す間。
だがそれは、1秒にも満たない内に、ツグネの砲撃によって崩される。
連射、連射。
雨のように降り注ぐ光弾。
光線。
アイハと【親】の接触を阻むように、ただひたすらに連射される。
だが、出来の悪い合成映像のような、瞬間移動に近い速度で回避運動を繰り返す【親】に、ツグネの砲撃が当たる気配は無い。
《――アイハ。リュウナをミヒロに渡して。その後に、みんなの撤退までの時間を私達で稼ぎましょう。こいつは私達じゃないと無理よ》
ツグネの周囲には、彼女を中心として上下左右をカバーする『球形』の陣形が形成されていた。
その中でツグネは、広範囲を攻撃する炸裂弾のような光弾を放つことで、アイハと【親】の間に距離を稼ぐことに集中する。
炸裂した砲弾の衝撃によって雲が薙ぎ払われ、いくつもの光が明滅する。
だが、景観を変えるほどのツグネの攻撃力を以てしても、あの【親】を捉えることはできない。
アイハは、決断を迫られていた。
……彼女はその腕に抱えているリュウナの様子を改めて観察する。
リュウナは【親】の攻撃を咄嗟に防いだために自身の【霊器】をへし折られていた。
その折られた【霊器】から抉られたリュウナのわき腹に向けて、光の粒子のようなもの――霊脈が変換されたもの――がちりちりと音を立てて集まり始めている。
それによって、リュウナの止血と内臓の修復が始まっていた。
痛みも本来なら極限まで抑えられているはずだが、恐らくはこれほどの重傷をリュウナが経験したことがないのだろう。
痛みではなく、一瞬で重傷を負ったという事実を受けて気絶したことをアイハは読み取った。
「級長!」
アイハをフォローするために追ってきた者――ツグネにミヒロと呼ばれた少女――が、その場に到達し、直後、リュウナの怪我を見て青ざめさせる。
「【霊器】を損傷している。最悪、修復が間に合わない危険性があるから急いだ方がいい。リュウナはミヒロに任せる。ツグネのところまで退いて」
「級長は……?」
ミヒロは、アイハからリュウナを託され、心配そうにアイハに問う。
「私はあいつを殺す」
「でも――」
《――無理よ、アイハ》
ミヒロが何か言うより更に早く、ツグネの鋭い口調が通信機から響く。
《この【親】は明らかに単独で戦うべき相手じゃない。一旦みんなを逃がして、私達が連携した方が確実でしょ》
「逆だ。あの速度は厄介すぎる。私しか対応できない。今、ここで、私だけで確実に殺す。私のならあいつと戦える」
《連携が必要ないって言うの?》
「そうだ。単独ならツグネが無茶をする必要がない」
《そんな、私は――》
「話は終わり。ミヒロ、リュウナを頼んだよ」
アイハはそう言い残して、次の瞬間、躊躇わずツグネの放つ弾幕の方へと飛び込んでいく。
アイハが射線上に入り込むと、ツグネは当然砲撃を止めざるを得なくなる。
「――ミヒロ、急げ!」
アイハの怒号が飛び、慌ててツグネ達のいる後方へと退くミヒロ。
そんな彼女の行く手を阻もうと、残り1体となっていた【子】の【陽魔】がミヒロに迫るも、ツグネにより狙撃され木っ端微塵に吹き飛ぶ。
これで、残る敵は【親】だけ。
弾幕が止み、僅かに砲撃の光が残る中空で、アイハは自身の感覚を限界まで鋭敏にする。
刹那、微かに大気が揺らいだ位置へと、飛翔し――
「――させるかッ!」
放たれるアイハの斬撃。再び鳴り響く激突音。
弾幕が途切れ、ミヒロを追撃しようとした【親】が、アイハの斬撃によって進路を阻まれる。
先と似たような状況。だが今度のアイハの斬撃は、両手を用い、万全の闘気を込められる姿勢から放たれた、全力の一撃だ。
【親】の鍵爪はアイハの斬撃を受け止めることはできず、その軌道を僅かに反らすのみで、振るわれた【霊器】の切っ先は、確実に【親】の上半身を切り裂いていた。
息を吐くことなく、アイハの追撃。
返す刃――
――突如、アイハの視界を埋める無数の腕。
「ッ」
アイハによって切り裂かれた【親】の傷口が内側から切り開かれ、粘液に塗れた人間の腕のような触手が無数に生えてきたのだ。
それらは砲弾のような勢いでアイハに迫り、彼女の両腕を掴み、拘束する。
まずい。そうアイハが直感した、瞬間――
――落下。
【親】が、衝撃を置いてきぼりにする速度で、アイハを拘束したまま下方へ飛行する。
急激な落下とそれに伴う事象は、超常の力を持つアイハであっても、意識を僅かに揺らされるものであった。
アイハはその最中、通信器から発せられるツグネの声が悲痛なものになるのを感じ取っていた。
大気を裂いて、隕石もかくやという勢いで、あっという間に海面が見える位置にまで到達する一匹と一人。
迫る激突。惨状の予感。その、刹那。
「――――調子にのるな」
――炎が、迸る。
怒りの言葉と共に発露された銀色に煌めく炎は――アイハに宿る霊脈が変質して放出されたものだ。
全身から放たれた炎の勢いは、周辺の雲を吹き飛ばし、眼下の海面を大きく歪ませて波を起こすほどに凄まじい。
アイハを絡め取っていた【親】の触腕はその銀炎によって木っ端微塵に焼き払われる。
それどころか、全身に業火を受けた【親】は、流星のようにして大きく後方に吹き飛ばされる。
……だが、吹き飛ばされる中でも未だその単眼はアイハを捉えており、残る鉤爪は彼女に向けられていた。
【親】は、弾丸のように飛ぶ中で、凄まじい身震いによって、その身を焦がす銀炎を払う。
対するアイハは――
煌めく銀の炎を纏い、手で刃をなぞることで自身の【霊器】にもその炎を走らせ。
敵意を向ける【親】を睨み付けながら。
「――【第二解放】、発動。後は任せたよ、ツグネ」
そう言い残して、通信器を切り――
アイハと【親】は、同時に動いた。
【親】はアイハへ、アイハは【親】へ、互いの刃を交えんと飛翔する。
――例えるならその戦いは、流れ星の戯れとでも言うべきだろうか。
既に音速を突破し、空と海を交互に行き来するようにして、【親】とアイハの刃が激突し、火花を散らす。
音だけが遅れて響く戦場。
二つが衝突する瞬間は、目視できない。
空にはただただ銀色の線が、焼きつけられていくのみであった。
【霊器】の散らす火花が、咲き乱れる。
すでに、最初の戦闘空域から大きく離れつつあることを、アイハは気にしない。
目の前の敵、追いかけるべき異形のみを見据え、溢れ出る殺意のまま刃を振るう。
彼女の一刀が、【親】の下腹部を切り裂く。
【親】のすれ違いざまの一撃を【霊器】で防ぐ。
彼女の一刀が、【親】の鉤爪を切り落とす。
【親】の下腹部の針が突き出されるのを、【霊器】で逆に切り落とす。
彼女の一刀が、黒い刃が、眼球を、筋肉を、蜂の腹を――――
――両断。
銀刃の描く半月が今、異形の命を、真っ二つに、完全に刈り取った。
その確かな手ごたえを得て、一瞬。
僅かに一瞬だけアイハの緊張が途切れる。
正に、その瞬間――
両断された巨大な眼球が、果たしてどこにそんなものを隠していたというのか、凄まじい量の肉の矢を切断面から生やし、膨張させ――