8.母の残したノート
その日、サブはある高校の調理実習室に立っていた。
何故か、それは数日前に遡る……
「頼むよサブくん。この通りだ」
サブを前にした初老の男性は頭を下げている。
「高橋先生、無理ですよ。俺なんかが高校の教壇に立つなんて無理ですよ。第一中学しか出ていないんですよ。そんな者が人に教えるなんて……」
「いや、だから、君の技をウチの生徒に見せてやりたいんだよ。ウチの科は卒業すると調理師免許が貰える。だから卒業後に料理の世界に入る者も居るんだ。そう言う志を持った生徒に一流の技を見せてやりたいんだよ。勿論ただとは言わない。ちゃんとお礼はするから」
サブは乗り気では無かった。自分の技が劣るとは思っていなかったが、人前で見せるものでは無いからだ。
だが、目の前の人間はサブが中学時代に教わった恩師だったのだ。
「ワシだって、理事長から相談された時は驚いたさ、まさか自分の教え子が理事長のお気に入りの板前になっているとは思っても見なかった。まあ、そこで今回の事を頼まれてのだがな……一度きりだ。その模様は記録して毎年見せるから、今年の一度だけその技を見せてくれんか」
恩師にそこまで言われてはサブに断る事は出来なかった。
「仕方無い、一度だけですよ」
「ああ、恩にきるよ」
そうして、サブが高校生、それも女子高生の前で実技を披露するのが決まったのだった。
実際に学校に来てみると、意外と設備の整った調理実習室だった。
「どうだね、中々大した設備だろう。「食物科の調理コース四十人が後で並ぶのだよ。勿論教師がちゃんと付く。君は教師が言うのでその通りに実演してくれれば良いんだ。簡単だろう!」
教室の前には普通の教室みたいに黒板があり、その下には調理台がある。左右にはそれぞれガス台とシンクがついている。ガス台の下はストーブとなっている。ちなみにストーブとはオーブンの事だ。
天井には左右二台のカメラが備わっていて、これでサブの技を録画するらしい。何回も録画されるのは嫌なので、失敗しないでくれとサブは思うのだった。
生徒側から見ると、黒板の前の天井には左右二台のモニターが備わっていて、後ろで教師の手際を良く見られなかった者でモニターで確認が出来た。
「よく出来ているでしょう」
思わぬ声に振り返ると中年の女性が佇んでいた。ひと目で教師だと判るオーラを放っていた。
「あ、本日実演をさせて戴きます、斉藤三郎です」
「申し遅れました。本日の授業を受け持つ相田美鈴です」
相田と名乗った女性は一礼をすると高橋先生と並んで教室の前の方に並んで立つと
「今日は、大根のかつらむき、厚焼き玉子、それと魚の三枚卸しを行って貰います。生徒も楽しみにしています」
「おろす魚は何ですか」
サブの疑問に相田先生は
「鯵なんですよ。ぜいごがあるから特徴あると思いまして」
鯵と言う魚は尾の両側に骨の様なギザギザの固い部分がある。そこを最初に削ぎ落とすのだ。
やがて授業の時間となったサブは調理実習準備室で着替えを済ませていた。そして授業が始まると、相田先生に紹介された。
「今日は、一流の調理師さんがどのくらいの腕なのか実際に実演して貰います。そこで今日は若き名人と言われている斉藤三郎さんに来て戴いています」
そう言って生徒の前で紹介された。
「斉藤です。本日は宜しくお願い致します」
そう言って頭を下げた。頭を上げると目の前には制服の上に白衣を着て三角巾を被った女子高生が40人座ってニコニコいていた。そして一斉に
「宜しくお願い致します!」
と元気な声を張り上げた。サブは、目の前の光景を見渡すと
「これだけ揃うと荘厳だな」と心で思うのだった。
相田先生が授業を進めて行く。まず初めに日本料理の刺し身に使う妻をサブが作る事になった。サブは大根を包丁の長さに切り落とすと立てた大根に包丁を当ててかつらむきを始めた。
「このかつらむきは均一の薄さに剥かなければなりません。後で剥いたものをまな板の上に乗せてみます。昔はそれでまな板の木目が均一に綺麗に見えなければ失格でした。今のまな板はプラスチックに変わっていますが、今日は特別に私が檜のまな板を持ってきました」
サブはそう言うと剥いた大根のかつらむきを檜のまな板の上に敷く様に引いて、生徒達に見せた。
「凄~い! 木目が透けて見える!」
すかさず相田先生が
「良く見て下さい。木目の全てが透き通って見えているでしょう。白くなって見えてない場所がありませんね。これが一流の仕事です」
サブはそれは別に一流とかではなく、それが当たり前だと思ったが言わないでおいた。
次にやったのが、鯵の三枚おろしだった。これも何の問題も無く終わった。最後は厚焼き玉子だ。
サブは相田先生に分量の目安を黒板に書いて貰う。
卵 8個 出汁(だし汁180cc、白ザラメ20g、上白糖40g、味醂15cc、醤油15cc、酒5cc、塩少々)
「まず、小鍋に出汁を入れるのですが、本当は昆布とかつお節で出汁を採って欲しいのですが、家庭等では出汁パックやインスタントの出汁でも構いません。その中に砂糖、味醂、酒、塩、醤油を入れてひと煮立ちさせます。これを冷まして、割った卵と混ぜてかき回します」
サブは言いながら作業をする。左手にボールを持ってやや傾けて右手に持った菜箸で軽くかき混ぜて行く。
「あまりかき混ぜてしまうと腰が無くなりますからほどほどで良いです」
そう言って、今度は熱した卵焼き鍋に油を敷いてからお玉に卵液を入れて流し込む。
「鍋が温まって、箸先で卵液を落としたとき“ジュ”っと音がして、一瞬で液が固まるまで絶対に卵は入れませんよ
流した卵液がプクプク膨らんできたら、箸先でつつき、均一に火が通るようにします。白身が半熟に固まりかけたら、奥から手前に箸でつかみながら巻いていきます」
言葉で言った通りに実際にやって見せるが、最後の部分は生徒には手首を返して卵の生地を折りたたむ感じに見える。
「本当はこの時は箸で摘むのでは無く、箸は添えるだけで、手首で返せる様になるまで練習してください」
実際に見ていると鮮やかに舞う様な感じに見えるのだ。
「次に卵を奥に再び滑らせて移し、手前にさっと油を引きなおします。そして同じ様に卵液を流し込みますが、この時箸で前の記事を若干持ち上げて卵液を生地の下に流し込みます。そして同じ事を繰り返します。この時、半熟ぐらいで折りたたんだ方が焼き上がりが良くなります」
何回か繰り返して美味しそうな玉子焼きが出来上がった。
サブはそれを何本か焼いて、生徒に試食して貰った。
「美味しい~!」 黄色い歓声が教室にこだました。これでサブの仕事は終了だ。サブはやれやれと思い授業が終わった後で片付けていた。その時に先程の生徒の一人が戻って来たのだ。
「なんだろう? 何かあったのかな?」
サブはそのくらいしか思っていなかった。その生徒はサブの目の前まで来ると
「斉藤先生! 先程の厚焼き玉子ですが、あのレシピは先生のオリジナルですか、それとも誰かに教わったのですか?」
意外な質問だった。今までで、レシピを教えてくれ、と言う注文はあったが、こんな質問は初めてだった。
「どういう事かな? 良かったら訳を教えてくれないかな?」
サブは優しく言うとその生徒は
「実は、先ほど食べた厚焼き玉子は私の亡くなった母の味とそっくりだったものですから。勿論今日の方が見かけは綺麗なのですが、何となく味が同じに感じたのです」
その生徒の言葉にサブは「この娘は抜群の味覚を持っているのだな」と思いながらも
「たまたま同じように感じただけでは無いかな」
そう言ったのだ。ほとんどの場合はそうだからだ。基本的には卵と出汁と砂糖で作られる料理だから、同じ味に近くなる。むしろ焼き方や卵のかき混ぜ方で食感が変わる事が多かったからだ。だが、その生徒は
「違うんです! 母が作ってくれた玉子焼きも実はある板前さんから教わったのです。私、今日は厚焼き玉子を作って貰えると言うので、比べようと思い母がノートに書いて貰ったと言うレシピをノートごと持ってきたのです」
生徒はそう言って持って来ていたバインダーから古ぼけて色が変わった一冊のB5のノートを出した。そして、それをめくって行く「ここです!」
生徒が開いたページには、先ほど相田先生に言って書いて貰ったレシピと同じ分量が書かれてあった。
「こ、この字は……」
サブにとってその癖のある字は懐かしいものだった。
「お母さんはどうしてこれを……」
「はい、亡くなる前に訊いたのですが、ある方の法事に呼ばれて、そこで食べた玉子焼きがとても美味しかったので、板前さんに書いて貰ったそうです。その板前さんはノートごとくれたそうです。「他にも色々と落書きしてあるけど」って……
そう云われてサブはそれよりも前のページを見ると、その他にも色々な料理のレシピが書かれてあった。それらはサブにとっても馴染み深い料理ばかりだった。
「これは、私の師匠が書いたものに間違いありません。恐らく私が弟子入りする前の事なのだと思います……」
それを訊き生徒はほっとした様に
「それを訊いて安心しました……わたし、間違ってしまったかと思ったのですが、こんな不思議な事ってあるのですね……」
「あなたは、この他の料理は食べた事がありますか?」
サブの問に生徒は恥ずかしげに
「母も幾つかは作ってくれましたが、本当の味かどうか判りません。私も少しずつ作っている処です」
「そうですか……良かったら今度いらっしゃい。本物を作ってあげるから……」
そう言ってサブは自分の名刺を渡した。
「ありがとうございます。調理師の免許を取ったら必ず報告に伺います!」
「待ってるよ」
サブはそう言うのだった。