6.本当の笑顔が見たくて
今日は常連とも言える家のお祝いの日だ。その家の絹子おばあちゃんの米寿の誕生祝いなのだ。
もちろんサブが料理を頼まれたので、今日もその家のキッチンで朝から仕込みをしている。家庭用のキッチンなので火力を考えた献立にしてあるのだ。ただ唯一の注文は絹子おばあちゃんが好きな「茶碗蒸し」を献立に入れて欲しいという事だった。
その他はこの季節の旬や走りの材料で献立を立てて行く。注意しなければ行けないのは、絹子さんは歯が弱いので、固さや大きさに注意しなければならないという事だった
今日のメインは鰹だ。これも彼女の好物で、今の時期ならタタキにしなくてもそのまま刺し身で食べられる。この方が鰹の濃厚な旨味を味わえる。
身の脂の乗り具合ならば秋の「戻り鰹」の方がタップリと脂が乗っていて旨味も濃い。だが、そのままでは寄生虫の心配もあるし、何より濃厚すぎるので、タタキにして脂を抜いて、氷水に漬けて身を締まらせておかないとならない。これが昔の人の知恵だった。
サブはキッチンに立つと、鰹を下ろして行く。頭を落とし、腸を出す(これを塩辛にしたのが珍味です)と外の固い皮を包丁の先で削いで行く。
それから三枚に下ろし、キツチンペーパーで身を包む。皮を身から削ぐのは刺し身として出す時なのだ。
その他にも今日サブは、絹子おばあちゃんの好物を色々と用意していた。それらは、実際にその時になって、実際に料理を見て喜ぶ絹子おばあちゃんを家族一同見て見たかったのだ。
だからサブは、詳しくは伝えていない。その時の喜びさえ味のうちだと思っているからだ。
その為に、例え少ない人数でもサブは己の持つ力をきちんと出して作るのだ。
季節は春から初夏に移ろうとしていた。サブは前菜(お通し)に露地物の枝豆を選んだ。勿論この時期には高価なものだが、時間を見張らって未だ熱いものを皿に盛った。組み合わせには鮑の煮貝を薄く切って添える。
「あらあら、わたしの好きなものだわ」
絹子おばあちゃんは喜んで枝豆を口にする、真緑色のさやを口に含むとニッコリと微笑んだ。続いて薄く切った鮑も喜んで口にする。
「若いころは、お父さんがね。ボーナスが出た時だけ、鮑を買って来て、お刺身にしてコリコリしたのを食べたけど。この煮貝も味がしみ込んで美味しいわ」
喜んでくれたのを確認すると次の料理に掛かる。次は酢の物だ。今日は沖縄で採れたばかりのもずくを使う。沖縄産は柔らかいのが特長だ。この時期から採れ始めるので、それを使ったのだ。
真夏に佐渡で採れるもずくは逆にコリコリとしていて、また別の味わいがある。今日は絹子おばあちゃんに合わせて柔らかいものを選択したのだ。
続いては、焼き物だが、今日はお祝いなので鯛を焼いて飾ってある。それを妻の幸子が綺麗に身だけを取り分ける。
そして、今日の本命とも言える茶碗蒸しの番になる。蓋を取り、スプーンで中身をすくうと、絹子おばあちゃんは
「この茶碗蒸しというのはね、銀杏と鶏肉が入っているでしょう。銀杏は卵に見立ててあるのよ。そして鶏肉と親子という事なの。そこに海老や蒲鉾、椎茸、そして三つ葉が入っているでしょう。これはね世界を表してるのよ。銀杏と鶏肉が親子で、海老や蒲鉾、椎茸、そして三つ葉などが他人なのよ。全て一緒になって蓋がかぶさって世間、いいえ世界を表してるの。この器の中にはこの世の全てが入っているのよ。だからわたしは好きなの」
家族みんながその言葉をニコニコしながら聴いている。実はもう何回も聴いてる言葉なのだ。絹子おばあちゃんは、茶碗蒸しを食べる時必ずこの事を話すのだ。
だが、それを言う者はいない。皆、息子達やその妻や孫や曾孫もむしろ喜んで聴いている。サブも黙って聴いている。実はこのうんちくはかって雅也が絹子おばあちゃんに言った言葉なのだ。だがそれを知ってるのは今やサブだけになってしまった。雅也の言った言葉が今でも彼女の心に残っている事がサブには嬉しかった。
「サブさん」
不意に絹子おばあちゃんから呼びかけられてサブは顔を上げた。
「はい、なんでしょうか?」
「この茶碗蒸しですが、椎茸が単にスライスしているだけでは無くて、中心から外側に向かって円心状に切ってあるのですね。おかげで、全ての具材がスプーンにちゃんと乗って美味しく食べられます。ありがとう! それにしてもこの茶碗蒸しですがとても滑らかなのですが、何か秘密でもあるのですか?」
サブは、正直驚いた。もう米寿になろうと言う歳なのに抜群の味覚を持っていて、しかもその指摘が鋭い事に……
「はい、ありがとうございます。椎茸を食べる時に普通のスライスだと食べにくい上に切り方で椎茸の美味しさを台無しにしていますので、あのように切りました。そして、卵の部分が滑らかだったのは、普通、茶碗蒸しは強火で十二~三分蒸せば良いのですが、それだと卵はやや固く蒸しあがります。そこで、今日は卵の味をじっくりと楽しめる様に弱い火でじっくりと時間を掛けて蒸しました。喜んで戴けて幸いです」
作りがいがあるとはこう言うものだと思った。
さて、いよいよ鰹の刺し身に移る。サブは冷蔵庫に保存しておいた鰹の柵取りしたのを出すと、柳刃で皮を引き、一口大に切り分けて行く、妻は今日は大根では無く、茗荷竹をスライスしたものを敷いてある。これと鰹の相性が抜群なのだ。
かって江戸っ子が最も愛したと言われる鰹。当時は和辛子を載せて醤油につけて食べていたそうだ。今では考えられない食べ方だが、サブは以前に雅也に言われて試しにそのやり方で食べた事がある。それは古風な味がした。
「これも美味しいわ。わたしの好きなものばかりねえ」
絹子おばあちゃんは、ニコニコしながら御機嫌で食べている。
そんな姿を見る度にサブはこの仕事をやって良かったと思うのだった。
今日も、明日もサブは料理を拵える。それは笑顔を見る為なのかも知れない……