1.永遠の目標
3月も下旬になろうとしていた。サブこと斉藤三郎は妻の幸子と一緒に、郊外の霊園に来ていた。時期もちょうどお彼岸だった。
ある墓に線香と花を供えて二人で一心に両手を合わせて拝む
「ここには命日とお盆と彼岸ぐらいしか来れなくてすいません。まだ、俺余裕が無くて……」
「大丈夫よ。ちゃんと分かってくれるわよ。それに親方だって向こうじゃ一人じゃ無いんだし。姉さんと一緒だから……」
「うん、それは分かっているんだけどな」
サブはもう一度手を合わせると
「また、来ます」
そう言って妻の幸子と子供三人で霊園を後にした。
彼の職業は「出張料理人」だ。依頼のあった先に出向いて料理を提供する職業だ。依頼者は前任者の清水雅也の高名もあり、唯一の弟子のサブにも依頼は多かった。
この日はお彼岸と言う事もあり、雅也の墓に出向いたのだった。
「次は命日かな。それまでにもっと腕を上げないとな。雅也の弟子の名が泣くよ」
ハンドルを握りながらそう自嘲すると幸子は
「でも、この前だってお客様の評判は良かったじゃ無い」
「それは、お世辞、も入っているんだよ。俺は親方の所までは未だまだだよ」
サブにとって雅也は、憧れの遠い存在であり、究極の目標でもあった。その雅也が亡くなった今、それは彼にとって永遠に手の届かないモノになってしまったのだ。
幸子は実はそれが歯がゆかった。雅也の料理を幸子も食べていて、その素晴らしさは良く判っていたつもりだった。今の夫の作る料理は決して雅也と比べても劣る事は無いと思っていたのだ。だが夫の口から出る言葉は何時も同じだった。
幸子は結婚して暫くは「風の子園」に勤務していたが、妊娠を期に退職して、今では子供を保育園に預けてサブの手伝いをしている。
雅也の時と同じ様に人数が多い時は明美に頼むのは同じだ。
その日は雅也の頃からのお客で、ある大企業の社長宅だった。今日は亡くなった先代の法事なのだ。
サブは前の日から仕込んだ材料と共に妻の幸子を伴って社長宅にやって来た。法事は11時からでお寺から帰って来ると1時近くになる。
その時間を測りながらサブは料理をこしらえて行く。その姿は雅也を知っている者が見たら、きっと思い出すであろう。それぐらい料理に打ち込む姿が似ていた。
11時に明美が姿を表す。そういえば何時かの彼とは上手くやっているのだろうか?
「おはようございます。今日も宜しくお願いします」
「おはようございます。時間通りですね」
「あらいやだ。時間は昔からきちんとしていたわよ」
「そうでしたね」
幸子が車から帰って来て
「ああ、明美さんおはようございます。相変わらず綺麗ですね」
「まあ、さっちゃん。子供が出来てからお世辞が上手くなった!? 外交上手だもんね」
「そんな事無いですよ明美さん」
やはり明美が入るとその場が明るくなるのだった。
12時少し過ぎに喪主から連絡が入る。今法事が終わってこれから出るから1時少し前になると言う事だった。
「時間が若干早くなった。そのつもりで」
サブが二人に指示を出す。それに答えてふたりとも作業を早めるのだった。
やがて、1時少し前に喪主やお客様が帰宅した。サブは予定通り前菜から出し始める。
今日は時期なので、鯛の料理が多い。この春先の鯛は何より味が良いのだ。この時期にこれを使わない手は無い。
昆布締めにして酢の物に、おろして刺し身にする。サブは頭は兜煮にしていて、これは法事とは別に後で喪主に渡すつもりだった。
順調に料理が進んで行く。何事も問題は無いはずだった。今日の焼き物は筍の竹筒焼きだ。
これは旬の筍を竹の筒に入れて味噌焼きにする料理だった。竹の風味が筍に移って誠に香ばしい焼き物だった。
その料理を出して、刺し身に移った時だった。喪主が招待した親類とおぼしきお客が
「今日は法事なのに、鯛なんか出るんだね。鯛と言うのはめでタイと言う通りにお祝いの魚じゃ無いのかね」
一瞬でその場の空気や雰囲気が悪くなる。明美も幸子も「不味い」と言う表情が出てしまった。
以前の明美なら雅也に色々と言われていて、そこから受け答えしていたのだが、サブはそう言う事を言わなかった。料理がすべて、と言う考えだったからだ。
やや重くなったその空気の中でサブが口を利いた。
「確かに、鯛と言う魚は日本では古来、おめでたい魚として珍重されて来ました。古くから食べられていたのですが、武士階級が台頭する鎌倉時代あたりから、鯛はその見栄えのする姿形がますます好まれ、室町時代 になると上等な食材として重用されるようになりました。つまり鯛をおめでたいと歓迎したのは武士だったのです。聞くところによると先代は大変な鯛好きで、しかも明石の出身です。明石と言えば鯛が有名です。これはその明石の鯛なのです。先代を偲んでのことなのです」
サブの言葉にそのお客は何も言えなくなり、喪主もほっとした表情をした。明美も幸子もそれは同じだった。
それからはつつがなく終わり、最後のデザートが出ていた。今日は桜餅と抹茶である。表千家の師範の看板を持っている幸子が抹茶を入れるのだ。こうした事はサブと幸子の二人で考えた事なのだ。
すべてが終わり、来客も帰って片付けをしている。喪主が会計をと言ってきたので、サブは二人に片付けを任せて喪主の所に向かった。
「本当に今日も美味しかったです。雅也さんが亡くなったと訊いた時はどうしようと思ったのですが、サブさんが雅也さんよりお上手になってて私は驚きましたよ。本当に立派になって……それに、今日もあの鯛の話、見事でした。あの煩い親戚を黙らせてしまって、助かりました。雅也さんの時もブツブツ言っていて、私、あの方嫌いなんです。サブさんがあのように言ってくれて助かりました。お礼の意味も含めて余計に包んであります。自信をお持ちなさい。貴方はもう師匠と肩を並べるぐらい成長なさいましたよ」
その言葉を訊いてサブは目頭が熱くなるのを堪えて
「ありがとうございます。これからも精進致しますから、宜しくお願い致します」
そう言って頭を下げた。
帰り道、今日は後部座席に明美も乗っている。近くの駅まで送るのだ。
「俺は、親方に追いついたのかな……」
車中でぽつりとサブがつぶやく。
「なあに? 親方と……そうねえ。料理の腕は並んだかもね」
後ろから明美がそう言って笑い顔をする。幸子も
「うん、料理は並んだかも知れないね」
そう言うので、サブが
「何だ、ふたりとも同じ意見か、料理は、とは? どういう意味だ?」
サブの疑問に二人が同時に
「料理だけじゃ無いって事!」
そう言ったのでお互い笑ってしまった。更に明美が
「追いついたと思ったら、駄目になるよ」
そう言ってくれた
「うん、そうだね。俺は一生親方を追いかけるよ」
赤い夕陽が向こうの街並みに沈もうとしていた。サブは改めて自分に誓うのだった。
『俺は一生修業だ』と……