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第一章 午前2時17分

 最初に落ちたのは、廊下に飾られた家族写真だった。


 午前二時十七分。ミラー家の二階で、壁に掛けられていた銀縁の額が突然床に叩きつけられた。ガラスが砕け、破片が暗い廊下に散らばる。


 エレノア・ミラーは、寝室のベッドから身を起こした。


 隣では夫のトーマスが眠っていた。


「トーマス」


 返事はなかった。


 エレノアは夫の肩を揺すった。彼は呻き声を上げ、枕に顔を埋めた。


「何の音だ?」


「わからない。二階よ」


「何か落ちたんだろう」


 トーマスは再び目を閉じた。


 その直後、階下で何かが割れた。


 今度の音は、食器だった。


 二人は顔を見合わせた。


「泥棒?」


「泥棒が食器棚を叩き壊して回ると思うか?」


「知らないわよ。最近の泥棒の事情なんて」


「警察を呼べ」


 トーマスがベッドから降り、クローゼットの脇に立てかけていたバットを手に取った。


 エレノアは携帯電話を探した。枕元にあるはずだったが、手探りでは見つからない。ようやく画面を点灯させると、着信も通知もなかった。


 廊下から、もう一度音がした。


 今度は、重い家具を床の上で引きずるような音だった。


 ず、ずずっ。


 音は一階から聞こえていた。


「トーマス、やめて。警察を呼びましょう」


「誰かが家にいるんだ。警察が来るまで待っていられるか」


「あなたが殴り倒されるほうが先かもしれないでしょう」


「じゃあ、ここで朝まで祈っているか?」


「少なくとも、バットを持って英雄ごっこをするよりは賢いわ」


 トーマスは不満そうに口を結んだ。


 それでも、彼はドアを開けた。


 二階の廊下は暗かった。窓から差し込む街灯の光が、壁紙の模様をぼんやりと浮かび上がらせている。


 床には写真立ての破片が散らばっていた。


 トーマスはそれを避けながら階段へ向かった。


「警察を呼んでくれ」


 今度はエレノアも反論しなかった。


 携帯電話を握りしめ、緊急通報の番号を押す。


 そのときだった。


 階下から、食器が次々に割れる音が響いた。


 一つではない。


 何枚もの皿が、何者かに床へ投げつけられているようだった。


 トーマスが階段の途中で足を止めた。


「誰かいるのか!」


 返事はなかった。


「警察を呼んだぞ!」


 もちろん、まだ呼んでいなかった。


 彼はバットを握り直し、一段ずつ階段を下りていった。


 エレノアは夫の背中を見つめていた。


 そして、気づいた。


 食器の割れる音が止まっている。


 あまりにも唐突に。


 家全体が、息を潜めたように静かになっていた。


「トーマス?」


 彼女の呼びかけに、返事はなかった。


 彼女は階段へ向かった。


 その途中、廊下の奥にある娘の部屋のドアが開いていることに気づいた。


 ノラの部屋だ。


 普段なら、娘はこの時間に起きていることなどない。翌朝は学校がある。夜更かしを注意するたびに、彼女はもう寝るところだったと言い張るが、少なくとも今夜はそんな言い訳を聞くつもりはなかった。


 エレノアは部屋の前まで行った。


 そのとき、室内から声がした。


「ママ」


 娘の声だった。


 エレノアは足を止めた。


「ノラ?」


 返事はなかった。


 ドアの隙間から、淡い光が漏れていた。


 エレノアは部屋の中を覗き込んだ。


 ノラは部屋の中央に立っていた。


 パジャマ姿で、裸足だった。肩まで伸びた茶色の髪は乱れ、顔は青白い。彼女は部屋の奥にある大きな鏡を見つめていた。


 その鏡は、祖母が亡くなったときに譲り受けたものだった。


 黒い木枠には細かな彫刻が施され、上部には蔦と花を模した装飾がある。古い品だったが、歪みも傷もなく、寝室に置くには少し大きすぎた。


 エレノアは、娘が鏡を怖がっていたことを思い出した。


 理由を聞いても、ノラはいつも答えを濁していた。


「ノラ、何をしているの?」


 娘は振り返らなかった。


 エレノアは鏡に目を向けた。


 そして、息を止めた。


 映っているのは、ノラの姿だけではなかった。


 彼女の背後に、もう一人立っていた。


 人間の形をしているように見えた。背が高く、異様に細い。頭部は暗い影に覆われ、顔の位置には、ぼんやりとした白い輪郭だけがあった。


 それはノラのすぐ後ろに立っていた。


 だが、部屋を見渡しても、そんなものはいない。


 エレノアは振り返った。


 誰もいなかった。


 再び鏡を見る。


 影は消えていた。


「ノラ……」


「ママ、だめ!」


 娘が叫んだ。


 鏡の表面が波打った。


 ガラスが水面のように揺れ、そこに映る部屋の輪郭が歪んでいく。木枠が軋み、壁に固定された鏡全体が、何かに押されるように前方へ傾いた。


 エレノアは後ずさった。


 鏡が倒れる。


 そう思った瞬間、鏡は壁から離れた。


 床に落ちることはなかった。


 空中で静止していた。


 重さのある物体が、何の支えもなく宙に浮いている。


 エレノアは声を出せなかった。


 鏡の中で、影が再び現れた。


 今度は、はっきりと見えた。


 それはノラの肩に手を置いていた。


 現実のノラの肩には、誰の手もなかった。


 鏡の中の影が、ゆっくりと顔を傾けた。


 そして、エレノアを見た。


 鏡の向こうから、声が聞こえた。


「次は、お父さん」


 エレノアは娘をつかみ、部屋の外へ引っ張ろうとした。


 その瞬間、階下で何かが激しくぶつかる音がした。


 トーマスの声が聞こえた。


 短い悲鳴だった。


 エレノアが振り返ったとき、ノラが彼女の腕をつかんだ。


「ママ、あれを見ないで!」


 娘は泣いていた。


 鏡の中では、影が笑っていた。


     *


 トーマス・ミラーは、階段の下で仰向けに倒れていた。


 背中に激痛が走っていた。息を吸うたびに胸が痛む。手にしていたバットは数メートル先に転がっていた。


 彼は歯を食いしばり、上半身を起こそうとした。


「くそ……」


 誰かに押された。


 それだけは確かだった。


 階段を下りていた彼の背中に、突然、両手で突き飛ばされたような衝撃があった。彼は手すりをつかもうとしたが、指は空を切った。


 落下する直前、背後には誰もいなかった。


 階段の上にも、踊り場にも。


 誰も。


 トーマスは床に手をつき、どうにか体を横向きにした。


「エレノア!」


 妻の足音が聞こえた。


「ここだ! 早く!」


 彼女が階段を駆け下りてくる。


 その背後に、ノラがいた。


 娘は階段の上に立ち、こちらを見下ろしていた。


 顔から血の気が引いていた。


 娘の目が、怯えていた。


 突然、リビングの照明が灯った。


 トーマスは振り返った。


 リビングには、誰もいなかった。


 食器棚の扉がすべて開いていた。床には皿やグラスの破片が散らばり、ソファは壁際から部屋の中央まで移動している。


 壁に掛けられた時計が、逆向きに回っていた。


 トーマスは目を細めた。


 秒針が、反時計回りに動いている。


 一周。


 二周。


 そして、突然止まった。


 時計の針が午前二時十七分を指していた。


「エレノア、警察を……」


 言い終える前に、リビングの照明が消えた。


 家中が暗闇に沈んだ。


 エレノアが悲鳴を上げる。


 トーマスは床を這い、妻の声がした方向へ手を伸ばした。


「どこだ? エレノア!」


「ここよ!」


 彼女の手が、彼の手をつかんだ。


 その直後、二人のすぐそばで声がした。


「うるさい」


 女の子の声だった。


 ノラの声に似ていた。


 しかし、もっと低く、もっと冷たい。


 トーマスは体を硬直させた。


「誰だ?」


 返事はなかった。


 代わりに、床に散らばった食器の破片が一斉に震え始めた。


 小さなガラス片が床を滑り、皿の破片がゆっくりと浮き上がる。


 エレノアが夫の手を強く握った。


「トーマス……」


 破片が二人の周囲を旋回した。


 最初はゆっくりと。


 次第に速度を増しながら。


 トーマスは妻を抱き寄せ、頭を覆った。


 ガラス片が壁に突き刺さる。


 一枚の皿が空中を飛び、食器棚に激突して砕け散った。


 そして、突然すべてが止まった。


 破片が床に落ちる。


 照明が点灯する。


 時計は、午前二時十八分を指していた。


 エレノアは震える手で口を覆っていた。


 トーマスは床に座り込んだまま、息を切らしていた。


 階段の上に、ノラが立っていた。


 彼女は泣いていた。


 彼女は父親から目をそらし、廊下の奥にある自分の部屋を見た。


 ドアの向こうに、鏡がある。


 そのことを考えただけで、喉が締めつけられるようだった。


 鏡の中の者は、さっきまで笑っていた。


 そして今も、そこにいる。


 ノラには、それがわかっていた。


     *


 午前二時四十分。


 警察が到着した。


 制服姿の警官が二人、玄関から入り、家の中を確認した。侵入の形跡はなく、窓も施錠されたままだった。壊れた食器や移動した家具について、警官たちは可能な限り合理的な説明を探した。


 夫婦喧嘩。


 酔った侵入者。


 薬物の影響。


 あるいは、家族の誰かが悪ふざけをした可能性。


 トーマスは、警官がノラに質問する様子を見ていた。


 娘はソファに座り、毛布を肩に掛けていた。視線を床に落とし、何を聞かれても、知らないと繰り返している。


「誰かが家の中にいたと思いますか?」


 若い警官が尋ねた。


「いない」


 トーマスは答えた。


「ですが、何かに押されたと」


「そうだ」


「背後を確認しましたか?」


「した」


「誰もいなかった?」


「誰もいなかった」


 警官はメモを取った。


「奥さんは、何か見たと話しています」


「何を?」


「鏡に人影が映っていた、と」


 トーマスは顔をしかめた。


「妻はショックを受けているんだ」


「あなたは何も見なかった?」


「何も」


 嘘だった。


 彼は何かを聞いた。


 暗闇の中で、誰かが「うるさい」と言った。


 娘の声に似ていた。


 だが、あれがノラだったとは思えなかった。


 警官はノラの前にしゃがみ込んだ。


「ノラ、君は何か見た?」


 ノラは毛布を握りしめた。


「いいえ」


「誰かが家に入った?」


「わからない」


「何かが動くのを見た?」


 彼女は答えなかった。


 警官はしばらく待ったが、やがて立ち上がった。


「何か思い出したら、連絡してください」


 警察は、侵入者の痕跡がないことを確認して帰っていった。


 残された家族は、散乱した食器や家具を前に、何も言えずにいた。


 トーマスは階段の手すりをつかみ、ゆっくりと立ち上がった。背中が痛んだ。


「今夜はホテルに行こう」


 彼は言った。


 エレノアが顔を上げた。


「ノラも?」


「ほかに誰がいる?」


 娘は何も言わなかった。


「この家にはいられない。少なくとも、今夜はな」


 エレノアはうなずいた。


 彼女は娘の肩を抱き、立ち上がらせようとした。


 そのとき、ノラが小さくつぶやいた。


「ここを出ても、意味がない」


 トーマスが振り返った。


「何だって?」


 ノラは口を閉じた。


「今、何と言った?」


「⋯⋯」


「ノラ」


 娘は顔を上げた。


 その目には、恐怖があった。


 しかし、それだけではなかった。


 何かを知っている人間の目だった。


 トーマスはそれに気づいた。


「お前、何か隠しているな」


「違う」


「じゃあ、どうしてそんなことを言う?」


 ノラは答えなかった。


 エレノアが夫の腕をつかんだ。


「今はやめて。お願い」


「こいつは何か知っている」


「わかっているわ。でも、今は……」


「今でなければ、いつだ?」


 ノラが立ち上がった。


「パパ、あれは私たちを見つける」


 トーマスの表情が変わった。


「誰が?」


 娘は、ゆっくりと階段の上を見た。


「鏡の中の人」


 沈黙が落ちた。


 トーマスは何か言おうとしたが、言葉が出てこなかった。


 エレノアは娘の手を握った。


 冷たかった。


 まるで、長い間、氷水に浸かっていたかのように。


     *


 午前四時十二分。


 ホテルへ向かう準備はできていたが、エレノアは玄関の前で立ち止まっていた。


 トーマスは車の鍵を探していた。背中の痛みをこらえながら、ジャケットのポケットをひっくり返している。


「どこに置いたんだ……」


「キッチンのカウンターよ」


 エレノアが言った。


 鍵は、確かにそこにあった。


 トーマスはそれをつかみ、玄関へ向かった。


「ノラ、靴を履け」


 娘は二階にいた。


 返事がなかった。


「ノラ!」


「聞こえてる!」


 怒った声が返ってきた。


 トーマスは顔をしかめた。


「こんなときまで反抗するのか」


「やめて、トーマス」


 エレノアが言った。


 彼は妻を見た。


「何だ?」


「あなた、あの子を怖がらせている」


「俺だって怖いんだ」


 その言葉に、エレノアは黙った。


 トーマスは視線をそらした。


「……だからこそ、何が起きているのか知りたい」


 エレノアは、二階を見上げた。


 娘の部屋のドアは閉まっていた。


 あの鏡をどうするべきか、彼女にはわからなかった。捨てればいいのか。壊せばいいのか。それとも、専門家に見てもらうべきなのか。


 だが、警察は何もしてくれなかった。


 侵入者はいない。


 窓も開いていない。


 家具が動き、食器が飛び、夫が階段から突き落とされたというのに、誰もその原因を説明できなかった。


 エレノアはキッチンのカウンターに戻り、携帯電話を手に取った。


 画面には、午前四時十三分と表示されていた。


 彼女は検索欄を開いた。


 最初に入力したのは、ポルターガイストという言葉だった。


 いくつものウェブサイトが表示された。


 超常現象の調査会社。


 霊媒師。


 心霊現象を扱う動画配信者。


 そして、教会の相談窓口。


 エレノアは、その項目を開いた。


 地域の教区が運営する公式サイトだった。悪魔祓いや超常現象についての相談を受け付けている、と書かれている。


 ページの下部には、緊急相談用の電話番号が記載されていた。


 彼女はその番号を見つめた。


 悪魔祓い。


 これまで、そんなものは映画の中の話だと思っていた。


 悪魔が人間に取り憑く。


 神父が祈り、聖水を振りかけ、ラテン語で何かを唱える。


 そんな光景を思い浮かべると、ひどく馬鹿げているように感じられた。


 それでも、今夜の出来事を説明できるものが、ほかに見つからなかった。


 エレノアは電話をかけた。


 数回の呼び出し音のあと、落ち着いた男性の声が聞こえた。


「教区相談窓口です」


「すみません。こんな時間に……」


「どうされましたか?」


 エレノアは、何から話せばいいのかわからなかった。


 家の中で起きたことを説明しようとすると、どれも現実味がなかった。


 食器が飛んだ。


 家具が動いた。


 夫が誰もいない場所から突き飛ばされた。


 鏡の中に、見知らぬ人影が映った。


 そして、娘がその存在を知っている。


 口に出してみると、自分が正気を失っているように聞こえた。


「家の中で、変なことが起きているんです」


 ようやく、そう言った。


「変なこと、ですか」


「家具が勝手に動いたり、食器が飛んだり……夫が階段から落ちました。でも、誰もいないんです。窓も鍵も閉まっていて、警察も来ましたが、何もわかりませんでした」


 電話の向こうで、相手は黙って聞いていた。


「それから、鏡に……」


 エレノアは言葉を切った。


「鏡に何が?」


「人が映っていたんです。でも、振り返っても誰もいなくて……」


 自分の声が震えていることに気づいた。


「娘が、あれは鏡の中にいると言うんです」


 電話の向こうで、紙をめくる音がした。


「娘さんは、おいくつですか?」


「十六です」


「ご家族に、怪我をされた方は?」


「夫が背中を打ちました。今のところ、それ以外は……」


 彼女は言いよどんだ。


 娘の様子を説明するべきなのだろうか。


 ノラは、あの影を恐れていた。


 それは間違いない。


 だが、同時に、何かを隠しているようにも見えた。


 エレノアは、そのことを話さなかった。


「わかりました」


 電話の向こうの男性が言った。


「担当の者に連絡します。超常現象に関する案件を扱っている者です。今夜の状況を、もう少し詳しく確認する必要があります」


「来てくれるんですか?」


「担当者の判断によります。こちらから連絡を取りますので、折り返しのお電話をお待ちください」


 エレノアは、携帯電話を握りしめた。


「お願いします」


 通話が終わった。


 エレノアは椅子に座り、両手で顔を覆った。


 家の中は静かだった。


 あまりにも静かだった。


 彼女は、その静けさが終わるのを待っていた。


 何かがまた動き出すのではないか。


 どこかでガラスが割れるのではないか。


 鏡の中の影が、再び現れるのではないか。


 そう考えるたび、心臓が強く打った。


 二階から、足音がした。


 エレノアは顔を上げた。


 ノラが階段を下りてきた。


 娘は、何も言わずにキッチンの入口に立った。


「誰に電話したの?」


 エレノアは少し迷った。


「教会よ」


 ノラの表情が変わった。


 ほんの一瞬だった。


 だが、エレノアは見逃さなかった。


「どうして?」


「助けてもらうためよ」


「教会に、何ができるの?」


「わからないわ。でも、ほかに方法がないの」


 ノラは唇を噛んだ。


「ノラ、あなたは何を知っているの?」


「何も知らない」


「嘘をつかないで」


 エレノアの声は、自分でも驚くほど強かった。


 ノラは肩を震わせた。


「私だって、どうしたらいいのかわからないの!」


 娘はそう叫ぶと、キッチンから逃げるように出ていった。


 階段を駆け上がる足音が響いた。


 エレノアは、娘を追わなかった。


 教会は、彼女の話を信じたのだろうか。


 とにかく、誰かに来てほしかった。


 この家で起きていることを、誰かに説明してほしかった。


 そして、できることなら、終わらせてほしかった。


 エレノアは天井を見上げた。


 娘の部屋、その向こうに、古い鏡がある。


 彼女は目をそらした。


 今は、考えないほうがいい。


 なぜそう思ったのか、自分でもわからなかった。


 ただ、鏡の中の影が、まだそこにいるような気がした。


 そして、その影は、自分たちが次に何をするのかを、すべて知っているように思えた。

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