アリス(8)
「お疲れさま、アリス」
すっかり顔馴染みになった女性スタッフ── いつだったか夢(『夢』の中で夢を見たというのも妙な話だが)に出てきた中性的な容姿の人物── がソファにぐったりと身体を沈めていた彼女に労いの言葉をかけた。
顔を上げると、差し出されるティーカップ。
落ち着くわよと手渡されたハーブティーに、アリスはようやくぎこちないながらも微笑を浮かべる。
「…ありがとう、ミス・セシル」
「どういたしまして」
ミス・セシルはアリスが目覚めた後から、ずっと付きっきりで世話を焼いてくれている。
看護の資格を持ち、同時にカウンセラーでもある彼女の存在は、アリスには大いに救いになった。今では年の離れた姉のような感覚すら抱いている。
「なかなか落ち着かないわね……。最近平和だから報道のネタがないんでしょうけど」
困ったように呟き、ため息をつく。
そしてミス・セシルはすっかりお決まりになった言葉を口にした。
「ったく、こんな時こそ自分が矢面に立つべきだろうに…あの男は……っ」
苛立った口調で言われた言葉に、アリスは苦笑するしかない。
『あの男』とは、アリスを目覚めさせる計画を立てた人物にして、命の恩人(になるのだろう)である人物の事だ。
ミス・セシルは彼の助手をしているらしいが、肝心のその人物は今ここにいない。
「あの…でも、遊んでいる訳じゃないんでしょう?」
仕方なくアリスが彼を庇うように口を開くと、ミス・セシルは『…そうなんだけど』と苦虫を噛み潰したような顔で同意する。
十五年にも渡る『夢』から生還を果たしたアリスにマスコミが殺到したように、その計画を立てて実行し、しかも成功させた彼もまた多忙な日々を送っているらしい。
…そう、『らしい』、だ。
どれも人からの伝聞で、実際の所どんな風に多忙なのかまではアリスにはわからない。
学会や講演会、共同研究だとかで世界中を飛び回っている、と言われてもピンと来ないし、それ以前に──。
「…まだ、帰ってこないんですか?」
「え、先生? …まあね。今、地球の反対側にいるし…でもその内、必ず戻ってくるから」
「そうですか……」
ティーカップを傾けながら、アリスは内心ため息をつく。
(一体、いつになったらちゃんと会ってお礼が言えるんだろう……?)
『こちら側』へ戻ってきた時、ほんの僅かに言葉を交わした人物。あの人が多分、ミス・セシルの言う『先生』なのだと思うのだけれど。
…けれど、次に目を覚ました時にはもう、彼はこの施設からいなくなっていた。
あの時は顔がよくわからなかったので、後でミス・セシルに写真を見せてもらったら、髪と瞳は柔らかな黒だったものの、『夢』の中で会った『シロウサギ』に瓜二つの顔だった。
薄情者なのよ、とはミス・セシルの弁。あいつはちょっと協調性というものがなくて…、とはクロウサギ── 宇佐木氏の弁。
他にもここにいるスタッフから、同様の言葉をたくさん聞いていたけれど、どうしても納得出来ない。
だって、彼はあの時言ってくれた。
── お帰り、アリス。
幻想の『兄』のイメージそのままに、優しい声で。
「そんなに会いたい? 会わない方がいいと思うわよ? もしかして『いい人』だとか思っているのかもしれないけど、本当に嫌な奴なんだから」
「…でも、助けてもらったのにお礼の一つも言わないなんて……。それにそんなに悪い人って感じじゃなかったですよ?」
「騙されてる! 絶対、騙されてるよ! 実の父親の玖郎さんも言ってたでしょ?」
…逆にそこまで言われてしまうと、かえって会ってみたいと思ってしまう。
親切なミス・セシルや、穏やかな人格者の宇佐木氏ですらそこまで言う彼。…一体、実際にはどんな人なのだろう。
『夢』の中のシロウサギは確かに少し意地悪な気もしたし、アリスも終いには怒りをぶつけもしたけれど。
(…本当は優しい人だと思うんだけどなあ……)
どちらにしても完全なリハビリが終わっていない今、自分はここから動けないし、他に行く場所もない。
…焦る必要はないだろう。もう『夢』のように、目覚めたら全てが幻になる訳ではないのだから。ここで待っていれば、今度はちゃんと会えるはず。
── 現実の、彼に。
+ + +
「…なあ、史朗。まだ戻らんのか?」
アリスとミス・セシルが話している頃、宇佐木玖郎氏もまた、画面に向かって話しかけていた。
通話相手は彼の一人息子にして、何の因果かとんでもない知能を抱えて生まれてきた天才学者だ。名前を宇佐木史朗、という。
『…何か問題でも起こったのか?』
画面の向こうの青年は、玖郎に目も向けずに手元の書類を眺めつつ、言葉だけを返してくる。
仮にも父親に対して礼儀知らずも甚だしい態度だが、それはいつもの事だったので玖郎は特に気にも留めなかった。
…そうやっていても、ちゃんと相手の話は聞いているし、理解もしているとわかっているから。
「問題はない。だが…アリスが可哀想だろう。目が覚めてみたら、恩人であるお前はとっとと国外に行ってしまっているわ、訳もわからないのにマスコミに囲まれるわ……」
『仕方ないだろう。こっちの仕事が途中だったんだ』
答えて、ようやく目をこちらに向ける。口元に浮かぶのは、冷め切った微笑。
『目を覚まさせた事でそっちの仕事は終わった。後は本人が努力する問題だろう?』
「しかしだな、」
『第一、会ってどうするんだ。世間話か? …くだらない』
「史朗! …助けるだけ助けて放り出す気なのか!?」
流石にその言い草はあんまりというものだった。思わず眉を吊り上げた玖郎に、史朗は鬱陶しそうにため息をついた。
『…そちらの手は足りているだろう? リハビリに関しても、その後の社会復帰に関しても、十分なスタッフがいるはずだ。なのに何故、俺がいる必要があるんだ』
「そういう問題じゃないだろう!」
『ともかく。あと短く見積もっても一ヶ月は戻れない。これは譲れないからな。それでも時間はいくらあっても足りないんだ』
「…ったく、お前という奴は……。何でそんなに忙しくする必要があるんだ?」
呆れたように漏らす父親に、史朗はおや、と言わんばかりに片眉を持ち上げる。そしてばかにした口調で言い切った。
『決まってる。俺が天才だからだ』
+ + +
現実という『不思議の国』は、毎日アリスに発見と驚きを齎す。
目覚めてから一ヶ月。それはまだ途切れる事はない。
── アリスが彼と再会し、現実の『シロウサギ』のとんでもない口と性格の悪さを知るのは、それから更に一月後のこと──。
こちらもHPでキリ番リクエストをしていた際に書いた作品です。お題は『銀の兎』。
『銀の兎』はその方の運営するサイト名でもあったので、この言葉をどう使おうか少し悩みました。
で、結局「銀の兎」→「銀色の兎」→「月夜の兎」→「うさぎを追いかける」→「アリス」という原型を留めてないほどに連想を重ねてこの話が出来ました。
以前から、一度は「アリス」ネタも書いておきたいなーと思っていたのもありますが。
結果として、この話は非常に私らしい展開(ファンタジーと見せかけて実はSFなのか?的展開)の話になり、正確なジャンルが不明という困ったものになってしまいました……。
後日、献上先の方から「ロマンティックSFでいいと思います」とお言葉を貰って、無事に(?)ジャンル決定となった経緯が。
読んだ方にはわかりますが、原作の『アリス』をイメージする部分は極力避けてあります。
二次創作的なものにはしたくなかったので、主人公の名前と、目を開けるとお姉さんが…というくだりがお兄さん(?)にという位でしょうか(笑)
万人受けする作品ではないかと思いますが、読んだ方が少しでも楽しんでいただけたのなら幸いです。