アリス(7)
…変な夢を見た。
今まで現実だと思っていたものこそが、全部『夢』だったという悪夢。
けれどその夢から覚めたと思ったら、また別の夢の中だった。
何処もかしこも真っ白な世界を、一人で彷徨う、そんな夢。上も下もない場所で、時折誰かの声や何かよくわからない音が聞こえてくる以外は、無音の空間。
夢の中で夢を見るなんて、話には聞いた事があったけれど、よもや自分が体験するとは思わなかった。
…多分、夢だとわかっているから落ち着いていられたのだろう。もし現実にこんな何もない場所に一人でいたら、きっとその内、気が狂ってしまうと思う。
しばらくその場に立ち尽くしていたものの、何の変化も訪れなかったので、取り合えず前に向かって歩き出す。
方向がわからないので、どの方角へ進んでも構わない気もしたけれど、わざわざ背後に向かって歩く気も、それ以外の方向に向かう気も起こらなかった。立ち止まるのも面倒で、惰性のように歩く。
どんなに歩いても周囲の情景は変わりなかったが、やがて聞こえてくる声や音は時が過ぎるにつれ、不明瞭だったものがはっきりと聞こえるようになってきた。
言っている事や、聞こえてくる音(何かの機械音のようだ)の正体は依然としてわからないのだが、それはアリスの不安をいくらか和らげる作用を持っていた。
その内、周囲にも少しずつ色が混じり出し、声と音は更にクリアなものへと変わっていく。すると自然に足取りも軽くなった。
(…変な夢)
恐怖はないし、気持ちは落ち着いているけれど、変化はあまりにもゆっくりで流石のアリスも退屈になってきた。
現実と違い、いくら歩いても疲れる事はないが、その分限界がない。このままひたすら歩き続ける事を考えると、流石に嫌気が差してきた。
(いい加減に、目が覚めないかしら)
そう思うがそれで目が覚めれば世話はない。諦めてまた足を踏み出した、その時。
『…先…生! …のパターンに……が!』
聞こえてくる声に変化が現れた。先程までとは違う、何処か緊迫した雰囲気。何事だろうかと思っていると、不意に手に温もりが生じた。
(…?)
ふと視線を向けたそこに、特別変化はない。
けれどやはり感じる。まるで誰かが触れているような──。
「…── シロウサギ?」
呟いたその言葉は、無意識のものだった。しかしその瞬間、周囲は劇的に変化した。
まず目に入ったのは、白い天井。
薄暗い視界に、それがぼんやりと浮かび上がって見える。
周囲からは複数の人の気配がした。慌しく立ち動いているのが伝わって来る。
幾度か瞬きをして、それからようやくすぐ側に誰かがいる事に気付いた。思うように動かない首を動かして目をそちらに向けると、自分を見下ろす目と合った。
薄暗い上に逆光でよく顔がわからない。けれども、『悪夢』の中で出会ったシロウサギではない事だけは確かだった。
シロウサギはその名の示すような白い髪をしていたけれど、見下ろしているその人物の髪は暗い色をしていたからだ。
「……?」
誰、と尋ねようとして、口から零れたのは掠れた吐息だけだった。
思い通りに動かない身体に困惑するアリスに、見下ろしていたその人は静かな、けれども優しい声でこう言った。
「…お帰り、アリス」
確かにそう聞こえた。
夢から覚めただけなのに、何故そんな事を言われるのだろうと思ったものの、不思議とその言葉から受け取ったのは今までに感じた事のない安堵感だった。
ふと、また睡魔に襲われる。再び閉じようとする目蓋を必死に開けていようと努力するけれど、それも無駄だった。
そのままアリスはまた意識を手放していた…今度は、夢も見ずに。
+ + +
── 目を開くと。
すぐそこに、かつて自分の前に『後見人』として現れた紳士── 近くで見ると、あの時より幾らか年を経ていたけれど── が、心配そうな顔でアリスを見下ろしていた。
その背後には真っ白な天井と壁。少し肌寒い室内は、アリスと彼以外にいないようだった。
「目が覚めたかい、アリス?」
穏やかな声にアリスは反射的に頷き── そしてようやく周囲と自分の状態に意識が向いた。
重い四肢。上体を起こそうとして叶わず、仕方なく首だけを巡らせて周りを見た。
「…ここは?」
唇から漏れた疑問の声は、やはり驚く程掠れていた。
「ここは医療施設の一種だよ。…君はずっと、夢の世界にいたんだ」
「夢……?」
『後見人』の説明に首を傾げる。
まだ頭の中が朦朧としていて、そんな事を言われても何処から何処までが夢だったのかわからない。
あの白い空間を漂っていた辺りから?
それとも、夜のクローバーの庭でシロウサギに会った辺りから?
あるいは── 考えたくはないけれど、アリスが今まで現実と受け止めていた全ての時間が?
…困惑と混乱に支配され、もはや返す言葉も紡げないアリスに、彼は労わるような声音で言った。
「…── ようこそ、アリス。現実という名の不思議の国へ」
+ + +
それからは、本当に『不思議の国』に迷い込んだような怒涛の日々だった。
今まで生きてきた世界とはまったく異なる、ハイサイエンス・ハイテクノロジーが溢れる世界。そこはあまりにもアリスの許容範囲を超えていて、かえって混乱は少なかった。
最初から『そういうもの』だと思うようにして、何がどうなったらそうなるのかは考えない。
…そうでもしなければ、きっとアリスは数日で元の夢の世界へ帰っていた事だろう。
長い期間動かす事のなかった為、歩く事もままならない身体のリハビリを言われるままにこなしながら、アリスは少しずつ『本当の自分』の事を知って行った。
物心つくかつかないかの頃に起こった大規模な事故で、家族を全てを失ってしまったこと。
その事故の数少ない生存者だったものの、その時のショックの為か、奇跡的に身体的な外傷がほとんどなかったにも関わらず、意識が戻らないままだったこと。
身寄りもなく、かといって放置も出来ず── 扱いに困っていた所に持ち上がった一つの実験計画。その被検体になる事でその後の保障が得られたこと。
その際に後見人となったのが例の紳士── 宇佐木玖郎氏。クロウ=ウサギで『クロウサギ』なのだと、後で教えられた。
実験内容は植物状態にある人間に特殊な『夢』を見せる事で覚醒へと導くというもので、その『夢』がいかなるものだったかは、直接体験したアリスに説明は不要だった。
── 実に、十五年がかりの計画。
それだけその実験は困難を極めたという事なのだろう。
その中でも問題になったのが、十五年もの年月で成長してゆく身体に対し、時が止まったままの精神をどうやって身体と同様に成長させて行くか、だった。
目覚めた時、十七歳の身体に二歳の子供の精神では、確実に混乱が予想される。
そこで取られた苦肉の策があの、クイーンズフィールドだった。
『夢』と暗示── その両方を駆使して、精神も身体に合わせて成長させる。その具体的なイメージが『学校』となり、『寮』となり、『教師』となった。
…アリスが七歳の時から過ごしたあの学び舎も、ルームメイトのジュリアも、他のクラスメイトや教えを受けた先生たちまでもが、本当に全て現実のものではなかったのだ。
この事実にはアリスも相当のショックを受け、打ちのめされた。
あれ程に愛し、心を寄せた数々が夢── 外部からの情報を元に自分の想像力が作り出した存在だったなど、信じたくなかった。信じられなかった。現実を前にしても。
…けれど。
そんな哀しみに浸る暇はアリスにはなかった。
というのも── アリスが補助を必要としながらも歩けるようになり、事実を概要的ながらも理解し始めた頃、実験の成功を聞きつけて、世界中のマスコミが彼女の元へ詰め掛けたのだから──。