アリス(6)
「…わたしが……? どういう事?」
シロウサギの言葉はあまりにも想像を超えていて、アリスはまるで壊れたロボットのように、ぎこちなく同じような言葉を繰り返す事しか出来なかった。
「わたしが作り出したって…一体、何故そんな事──」
動揺を隠さないアリスを、シロウサギは余裕の笑みで見つめている。まるで反応を楽しんでいるように見えて不快な気持ちになったけれど、それでも答えを待つしかない。
やがて彼は再び口を開いたものの、そこから飛び出したのは、アリスが期待した答えそのものではなかった。
「…二通目の手紙を、受け取っただろう?」
「え、ええ」
いきなり何を言い出すのだろう。そう思いながらも、つい先程燃やした手紙の事を思い出す。
最後に幾度も読み返したから、その文面はまだはっきりと覚えていた。
「そこに書いてあった事は覚えているかな?」
まるでアリスの心の中を見透かしたようにシロウサギは尋ねる。否定するのもばからしくて頷くと、彼の笑みは深まった。
「シロウサギ── あなたについて扉を開けろ、って書いてあったわ」
「その前にまだあっただろう?」
「…ええ。お茶会の準備が整ったって事と、それから……」
答えながら、アリスはそう言えば一つ、わからないままだった事を思い出した。
「…クロウサギに渡された鍵を持っているか、って。でも…わたしはそんなもの持っていないわ。クロウサギがあの後見人だとしても、あの時、わたしは何も受け取らなかったもの。ここには…それこそ身一つで来たようなものよ?」
「何を言っているんだい、アリス。そのクロウサギの『鍵』を、君はちゃんと持っているじゃないか」
「…え?」
予想外の言葉に目を丸くする。シロウサギは面白そうな顔で腕組みすると、視線を空に向けた。
その先にあるのは── 今や天頂を通り過ぎて、東へと傾き始めた満月。
「…『鍵』が、本当に鍵そのものの形をしていると思っていたのかい?」
「鍵そのものじゃないって…事なの?」
「その通り。クロウサギは君にちゃんと『鍵』を渡しているよ。そして君はそれをちゃんと今まで持っていた。だから…二通目の手紙は無事に君の元へと届き、そして私が君を迎えに来る事が出来たという訳だ」
それで種明かしは済んだとばかりに、シロウサギはアリスを流し見る。けれどアリスはまだ理解出来ずにいた。
『鍵』の形をしていない鍵── けれど他に、彼に渡された物は本当に何もないのだ。
いきなりやって来て、アリス一人を車に乗せて、そして──。
「……まさか」
ふと閃いた。同時に先程までシロウサギが見上げていた満月を見る。
あの時、確かに後見人からは何も受け取っていない── 形のある『物』は。でも、別の何かは確かに受け取った。その事を思い出したのだ。
「──『満月。クローバーの庭。銀のうさぎ』」
それはまさに、今アリスの目の前に広がる光景。
空から光を投げかける満月と、春になったら一面に白い花を咲かせるクローバーの庭。そこを今は自由に飛び跳ねている…銀色のうさぎ。
それは単なる符牒なのだと思っていた。あり得ない事が起こる為の。けれど、実際にはその言葉自体が『鍵』だったとしたら──?
「…一種の、キーワードだったというの?」
確認を取ると、シロウサギは片眉を器用に持ち上げる事で返事に変えた。
肯定なのか否定なのかよくわからないが、おそらくそれが正解なのだろう。だが、そうであるなら同時に疑問も浮かぶ。
「その言葉を覚えているって、どうしてわかったの? それと二通目の手紙がどう関係するの。あの後見人は、わたしがここにいるって知ってるはずでしょう?」
先程のシロウサギの言い様では、まるでその言葉を忘れていたら兄からの手紙すらも届かなかったかのようだった。
それとも── 兄はあの後見人を名乗った男とは、連絡を取り合ったりしなかったのだろうか。
そんな疑問に囚われて、最初の疑念を忘れていたアリスに、シロウサギは不意打ちのように言い放った。
「最初に言っただろう。この世界自体が、アリス…君が作り出したものだと。つまり…このクイーンズフィールドという場所は架空の場所なんだ」
「…嘘……」
「嘘じゃないさ。架空の場所である以上、そこに手紙を出したくても出せる訳がない。現実には何処にも存在しない場所なんだから。けれど、その内アリス宛に手紙を出す必要が出るとわかっていた」
「何でそんな事がわかるの!」
半ば悲鳴のようなアリスの反論に、シロウサギは何処か同情的な目をしてみせた。けれど否定はしてくれず、そのまま言葉を重ねる。
…アリスのまったく理解出来ない── 理解したくない、言葉を。
「…だから『鍵』を渡したんだ。『不思議の国』とこの架空の世界の接点となる場を作る為に。この世界では創造主であるアリス、君が当然ながら主導権を握っている。『不思議の国』の方から…たとえば手紙を出すとしても、アリスに受け取る意志がなければ届かない」
そして同時に、アリスが『不思議の国』が実在すると信じている事も必須条件だった、と彼は続けた。
その為に『鍵』は明確な物をイメージさせるものではなく、何処か呪文めいた、それだけでは意味を成さないような単語の組み合わせにしたのだ、とも。
…年端も行かない子供だからこそ、その意味を繰り返し考える事で、その言葉を心に刻むだろうと考えて。
そして時が満ちた時、そのイメージからこの世界と『不思議の国』の接点を作り出す。関連性のない言葉からアリスの心は、見事に一つの空間を造り出した──。
「当時はこんなにも待たせるつもりがなかったから、そこまで深刻には考えてなかったんだがね。ところが事態が変わって、予定よりも大幅に迎えを寄越す時期が遅くなってしまった。…正直、アリスが『鍵』の事を覚えているのか自信はなかったよ。けれど、こうして私は迎えに来れた。それはアリス、君が心の底で『不思議の国』が実在する事を信じていたからだ」
「……」
もはや、アリスに反論の言葉もない。いくら作り話でも、ここまで理解に苦しむ話はないだろう。
生まれて十七年生きてきたこの世界が作りもの── それも自分が造り出したものだなんて、どうして信じられる?
いくらなんでも、知らないものを無から生み出せる程の想像力は持ち合わせていない。確かに同じ年の女の子よりは、少し精神的に幼いかもしれないと心密かに思ったりはしたけれど。
「…兄さんは……」
混乱の中、やがてアリスの口から言葉が零れ落ちた。
「アリス?」
「じゃあ、『兄さん』も…本当は作り物だったって、言うの……?」
幼い頃の拠り所だった存在。優しくて、賢い── たった一人の自慢の兄。
…それすらも、彼は想像の産物だと言うのだろうか。
「信じられないわ。だって、覚えているのよ。一緒に遊んだわ、寝る前にお話を読んでくれたわ。庭で遊んで転んだ時は、慰めてくれた。…それすらも、わたしが造り出したって言うの!?」
言いながら感情が高ぶるのを感じる。こんなに腹を立てた事は、きっと生まれて初めてだ。
「何処にその証拠があるの!? あなたに何の権利があって、そんな勝手な事を言うの!?」
…全ての思い出を否定された事が、自分でも驚く程悔しかった。
「…見せてみなさいよ、本当に『不思議の国』があると言うなら…そこに連れて行ってみせなさいよ! …この世界が嘘だという、その証拠を見せて。でなければ、そんな事信じられない……!!」
感情の赴くままに叩きつけた言葉に、シロウサギは少し呆気に取られた顔を見せた。
もうその顔に、兄の面影は見つからない。何故、最初に似ていると思ったのかすらわからない。
それは面識のない、見知らぬ男の顔だった。
シロウサギは顔を真っ赤にして、今にも泣き出しそうな…それでも怒りを隠さないアリスをまじまじと見つめ── やはりアリスの予想を超える行動を取った。
「!?」
「…なら、そうする事にしよう」
あ、と思った時には彼の手が魔法のようにアリスの手首を掴んでいる。
いつの間にか足元にいた銀色のうさぎに目を向けると、アリスに聞こえない小声で何かを呟いた。
「な、何を…!?」
「では、お連れしましょう…アリス。ご希望通り、『不思議の国』へ」
至近距離でそんな事を囁かれたと思った瞬間。
足元のうさぎからまばゆい光が放たれ、世界は瞬く間に真っ白に染まっていった。
月も、クローバーの庭も。
背後にあるはずの宿舎も、春先の肌寒い夜の景色が遠ざかる。
ただ、手首を掴むシロウサギの手の温もりと感触だけは随分とリアルで。
「…ちゃんと、ついておいで」
それが認識出来た最後の言葉。
── ふと気付くとアリスは意識を手放していた。