アリス(5)
(…寝よう)
一体どれ位そうして床に座り込んでいたのか。
ようやく動悸が治まり、アリスの心にも落ち着きが戻ってきた。ゆっくりと立ち上がり、カーテンに隠れた窓を見る。
…まだ、あの男はそこにいるのだろうか?
確認したい気持ちが一瞬浮かんで、慌ててアリスは首を振ってその考えを追い出した。それでは元の木阿弥だ。
そこからいなくなっているならいいが…もし、まだこちらを見ていたら。
(……)
想像するだけでも、また先程の恐れに似た感情が襲ってきて、きゅっと胸元を握る。
今日はこのまま、寝てしまおう。
そう心に決め、窓辺を離れる。そのまま窓を背後にしベッドに向かおうとして── アリスの足は止まった。
「……!?」
一瞬、悲鳴が出掛かった。
というのも、部屋の中央の決して広いとは言えない空間に何かがいたのだ。淡く発光するそれは、ゆっくりと大きくなってゆく。
「な、何…なの……?」
再び復活した動悸に言葉が乱れる。ただし、今度は恐怖の為に。
逃げたくとも、出口は光の反対側しかない。結局アリスは身動きもままならないまま、その光の動向を見守る事になった。
やがて光はアリスが見つめる中、一抱えほどにまで大きくなった。ほぼ球形だったそれは、次第に一つの形を取り──。
(…これは……!)
それが何の姿を取ろうとしているのか気付き、アリスの目が見開かれる。もうそこから恐れや怯えは消えていた。
目の前の光は、淡い月光のような光をそのままに、アリスの知る生き物の姿を象っていた。特徴的な長い二つの耳が、ぴくりと動く。
「銀色の…うさぎ……?」
呆然と呟くと、まるでそれを待っていたかのようにそのうさぎが動いた。ぴょこり、ぴょこり、と特徴的な歩き方で見守るアリスの目前にまでやって来る。
丸い、やはり銀色の瞳がじっとアリスの顔を見上げた。吸い込まれるような、邪気のない瞳。
気がつくと屈みこみ、誘われるようにその銀色のうさぎに向かって手を伸ばしていた。現実のものか、確かめずにはいられなかったのだ。
あと僅かでその仄かに光る毛皮に触れると思った、その瞬間。
「あ…っ」
アリスの心を見透かしたかのようなタイミングで、すいっとうさぎがアリスの手から逃げる。そしてそのまま反対側の扉の方へと移動してしまった。
扉の前で一度足を止めて、アリスの方を振り返る── まるで、付いて来いと言うかのように。
「……」
じっと見つめてくる銀色の瞳を、アリスは呆然と見返した。
そんなアリスをしばらく見ていたうさぎは、ふいっとまた扉の方に頭を向けたかと思うと、そのまま扉の方へ駆け出す。
「!」
進む方向には、ジュリアとの共同部屋に通じる扉。けれど今はそこは当然ながら閉じられている。
ぶつかる──!
そんな風に思ったのに、アリスの予想に反してうさぎはぶつかる事なく扉の向こう側へ消えていた。…すり抜けたのだ。
「ま、待って……!」
一瞬見送ってしまったアリスは、反射的に扉に飛びついていた。
もどかしい思いで扉を開くと、すでにそこにうさぎの姿はない。しばらく考えたアリスは、一度部屋に戻るとベッドの上に置いていたショールを羽織ってから、今度は廊下へ続く扉に向かった。
もうとっくに皆寝静まっているのだろう、物音一つ聞こえてこない。
同じくもう寝ていると思われるジュリアを起こさないように気をつけて、そっと扉を開き頭だけを廊下に出す。
右を見る── いない。
次に左を見る── やはりそれらしきものの姿は見えない。
(…夢でも見たの?)
ひやりと流れ込んだ夜の空気に身震いする。春先とは言え、まだ夜は冷え込む。羽織ったショールをかき寄せ、しばしアリスは考えこんだ。
あの銀色のうさぎは、幻覚だったのだろうか?
けれど同時に違う、と否定する自分がいる。あれは絶対に見間違いではないと。
すぐ目の前にいたあの姿、あの瞳。…あんなリアルな見間違いがあるはずがない。滑らかな毛並みすらもはっきりと見て取れたのに。
やがてアリスは決意すると、廊下を進み始めた。進む方角は左。その先には階段がある。── 階下へと続く階段が。
(きっと…あそこにいるんだわ)
歩きながら思う。
あそこ── 裏庭。先程、窓から見ていたあの場所だ。
何故ならあの場所は、春が深まると白い花が一面に咲くのだ。── クローバーの白い花が。
その事を思い出して、知らず顔を顰める。まるで何もかもが仕組まれているような気がした。そうとしか思えない程に、符牒が揃いすぎている。
けれど、アリスは引き返さなかった。ここで引き返したら、何かに負けてしまうような気がして。
+ + +
裏庭へと出る扉を開く時、流石に少し躊躇した。
何しろ、そこにはおそらく先程のうさぎだけでなく、あの不審な男がいるに違いないのだ。
けれどアリスは自分を叱咤した。ほんの先刻、自分は決めたはずだ、と。
(わたしは── 『不思議の国』には行かない)
彼が兄であろうと、その使いであろうと…その事を伝えなければ。自分はこの場所を離れるつもりはないのだと。
心は決まっている。
アリスは一度深呼吸をすると、一息に扉を開けた。
「── こんばんは、アリス」
外へ出てきたアリスにそんな声をかけたのは、予想通り先程窓の外で見た男だった。
その腕に先程の銀色に光るうさぎを抱え、こちらを見るその人物は、二階から見下ろしていた時には気付かなかったが、かなり長身だ。
そして、やはりその顔は兄の面影がある。
ただ、兄と違う点があるとしたら、その髪の色が違う事と、かつての兄にはなかった何処となくシニカルな微笑を浮かべている事だろうか。
「…兄さんなの?」
尋ねた声は、緊張のせいで微かに震えてしまう。
そんなアリスを見つめ、男はおどけたように軽く両肩を竦めた。
「残念ながら違うよ、アリス。私の名はシロウサギ。君を迎えに来たんだ」
「── …『不思議の国』に?」
「そう、『不思議の国』に。少し時間がかかってしまったけれどね」
約束しただろう? と、シロウサギと名乗った男は言った。薄く笑った顔は、やはり何処か兄に似ている気がする。
…確かに、兄とそんな約束を交わした。
まだ、幼い子供の頃。世界が自分と兄だけで成り立っていた頃に──。
けれど。
その顔を真っ直ぐに見つめ、アリスは僅かに躊躇った後、扉を開くまで考えていた自分の考えを口にした。
「わたしは、行かないわ」
口にすると、ふと心が軽くなった。
思った以上に自分が緊張していた事に気付かされる。半ば開き直った気分で、アリスはさらに続けた。
「…わたしは、ここが好きなの。『不思議の国』より、大事な場所なの。ここを失ってまで行きたい場所はない。だから」
「だから…私とは行けない、と?」
「そうよ」
もしかしたら怒るだろうか── そんな風に思ったのに、シロウサギは怒りはしなかった。
「…まあ、十年も待たされたらそうも思いたくなるか」
代わりにくすっと笑い、腕に抱いていた銀色のうさぎを地面に下ろす。そして再び顔を上げた時── その表情は一変していた。
「でも…真実を知りたくはないか?」
「……!」
思わず息を飲む。それ程に彼の表情は真剣そのものだった。
「真実……?」
「『扉』を開いて、その向こう側へ行けば…全てがわかる。こんな場所に十年も一人でいなければならなかったその理由も…君の『兄』が消えてしまった訳も」
「そんなの…知りたくない」
…それは嘘だ。
けれど、ここで同意してしまったら駄目だと思った。せっかくの決意が鈍ってしまう。
しかしシロウサギはアリスのそんな心の動きを見透かしたように、また口元に笑みを浮かべるときっぱりと言い放った。
「嘘つきだな、アリス」
「!」
「知りたくないと…もはや、兄などどうでもいいと思っているなら、そもそも私がこんな風に迎えに来れる訳がないんだよ」
「……? どういう、意味……?」
「つまり、こういう事さ」
シロウサギはその白い手袋に包まれた両手を持ち上げると、そこに視線を落とした。
そして何処か面白がるような口調で、アリスが思いもしなかった事を口にしたのだった。
「何故ならこの姿はね、アリス。君が作り出したものなのさ」