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アリス  作者: 宗像竜子
4/8

アリス(4)

 その夜──。

 皆が寝静まる真夜中を待って、アリスは兄からの手紙を二通とも燃やした。兄と決別する為の、儀式のような気持ちで。

 燃やす前に数度読み直す。

 もしかしたら…兄との関わりはこれで最後になってしまうかもしれない、と思いながら。

 勝手にいなくなってしまって、その事はアリスをとても傷つけたけれど。

 でも…やっぱりどうしても憎めはしなかった。幼い頃のままではないけれど、それでも兄の存在はアリスの心の中にしっかりと根付いている。

 きっと、どんなひどい目に遭わされても、自分は兄を心の底からは嫌いにはなれないだろう── そんな気さえした。

 食堂からこっそりと持ってきた皿の上で、最初の手紙に火をつける。古かったそれは、あっという間に灰になった。

 次に二通目。こちらは最初のものよりは時間が少しだけ長かったけれど、やっぱり同じように灰になる。

(…本当は、会えるものなら一度くらい、顔を見たかったけど)

 いきなり消えたり、いきなり変な手紙を寄越したり。正直怒っていいのか、それとも喜ぶべきなのかわからない。

 でもアリスは覚えている。兄と共に暮らした、幼い時間。確かに自分は幸せだった事を。

 十年前に何があって、どうして自分を一人にしてしまったのか、尋ねてみたいと思った。でも同時に、その答えを聞くのも怖い。

 相反する気持ちの中で揺れ動く自分の気持ちを落ち着かせようと、アリスは窓辺に行き、窓を開けた。

 すうっと、冷たい夜風が入って来る。同時に薫る、緑の匂い。思わず目を細めたアリスは、何気なく空を見上げて一瞬目を見開いた。


 ── 満月。


 脳裏に瞬間的に浮かんだ言葉を追い出すように頭を何度か振ると、月から目を反らし、代わりに夜の闇に沈んだ庭に目を向けた。

 もう忘れるのだと心に決めたばかりだ。たかが月を見ただけで── 暗示的な満月だからと言って── 心を揺らしてどうする?

 だが、そう思うアリスの心を見透かしたように、視線を向けた夜の庭にもまた、いつもとは違うものが存在した。

(…── !?)

 ぎょっと目を見開いたのは、それが確かに人影であるとわかったからだ。

 深夜という事もあって、部屋の明かりはつけていない。その上、アリスとジュリアに与えられている部屋は二階にあり、庭からアリスの様子がわかるはずがない。

 …そう思うのに。

 反射的にカーテンの影に身を隠し、アリスはそろそろと庭にいる人影を観察した。

 光源のない庭に立つ人影からは、当然ながら顔や表情が読めない。それでもその背格好から、男性である事と比較的長身である事だけは窺い知れた。

(何…一体、誰?)

 心臓が早鐘のようだ。だが、それは恐怖からと言うよりも、むしろ単なる驚きからのものだった。

 …夜の庭に立つ不審な人影。しかもここは女子寮で、明らかに怪しいとしか言いようがないと言うのに。

(何をしているの?)

 怖いもの見たさで、そろそろとアリスは開いた窓から階下を見下ろす。

 人影は動かない。彫像のようにそこに立ち尽くしたまま── まるで、そこにいる事が目的であるかのように。

(…どうしよう)

 しばらく眺めていたアリスは、やがて困惑と共にそんな感想を抱いた。

 春先とはいえまだ冷える。窓を開けたままで寝ると風邪をひきそうだし、何より窓の外に不審人物がいるのにあまりにも無用心な気もする。

 だが、今閉めれば確実に向こうにアリスが起きている事がわかるだろう。

 何しろ、アリスの部屋の窓は開ける時はそんなに音を立てないのに、閉める時は何故か少し軋んだ音を立てるのだから。

(……)

 しばらく考え込み、どうしたものかと考えたアリスは、やがて一つの結論に辿り着いた。

(…そうよ。別に見つかってもいいじゃない。こちらが起きているとわかったからって、ここは二階だし、入って来る訳じゃないわ。逆に起きていると気付かせたら、向こうが逃げるかもしれない!)

 よし、と覚悟を決めると、アリスは行動に出た。窓枠に手をかけ、わざと音を立ててそれを下ろす。

 ── 裏庭にいる男が、物音に気付いて顔をこちらに向けた。

(……!)

 地上と二階、しかも夜の闇の中だというのに、確かに目が合った。その途端、アリスの心臓は今まで以上に活発に動き始める。

 男は窓際から動く事の出来ないアリスをじっと見上げている。微かに月光で浮かび上がる顔。その顔をアリスも目を反らす事が出来ないままに見つめた。

(まさか)

 …十年経っている。

 自分の中の記憶も、随分色褪せ朧げになってしまっている。なのに──。 

(…兄さん?)

 月明かりの下、夜の庭から見上げる顔は、十年前に自分の前から姿を消した兄の面影があるような気がした。

 気のせいかもしれない。けれど、直感的に感じたそれを否定するだけのものを、アリスは持ち合わせていなかった。

(迎えに、来たの?)

 そんなはずはないと思いながらも、アリスはその可能性を考えずにはいられなかった。

 思い出すのは先程燃やした、二通目の手紙。そこには何と書いてあっただろう。


『シロウサギが君を迎えに来る。

 彼について扉を開けてごらん、アリス』


 本当にその言葉通りに誰かが来るとしても、兄以外だと思っていた。

 …もちろん、庭にいる怪しげな人物が、その『迎え』であるかは確かではない。それはアリスにもわかっている。

 こんな夜更けにやって来る必要性が何処にある? アリスが寝ている可能性もあるだろうし、寝ていなくても夜中に窓の外を見るなんて事はそう滅多にある事ではない。

 そう、思うのに。

(…駄目)

 アリスは必死に自分に言い聞かせた。

 男はまだこちらを見上げている。まるで── アリスに初めから用があったかのように。

(気にしちゃ駄目よ、アリス。あの人が兄さんのはずがない、もし兄さんなら…堂々と昼間に姿を見せるはずだわ)

 血の繋がった父兄なのだ、こそこそと人目を避けて会いに来るなんておかしい。あれは違う。ただの不審人物だ。そうに決まっている。

「…──ッ!」

 精神力を総動員して、アリスは男から目を反らした。そしてカーテンを一気に閉めて男の姿を視界から追い出すと、そのまま脱力したかのようにへなへなと床に座り込む。

 ひやり、と冷えた床の感触にようやく現実感が戻ってきた。

(…これで、いいのよ。わたしは、何も…誰も見なかった。見なかったのよ)

 心の中で繰り返し── それでもなかなか動悸は治まらなかった。いかに自分が動揺したのか、自分の身体が何よりも雄弁に物語る。

 アリスは知らず、苦笑を口元に浮かべていた。

(何だか、お化けか何かを見た後みたい)

 でも心情的には近いものがあった。

 十年前にふいに姿を消した兄の存在は、一切の繋がりのなかった時間によって希薄になってしまっている。

 表情や仕草、癖── そうしたものすら、明確な形ではアリスの中には残っていない。

 だからこそ、庭に立つ男の顔にその面影を見つけて、必要以上に心が反応してしまったのだろう。心の奥底にあった、再会する事への恐れが目覚めるのと共に。

 …そう。アリスは兄との再会を無意識に恐れていた。もう一度会いたいという気持ちに嘘はないけれど。誰よりも大好きだったというのも本当だけど。

(…だって、怖いもの)

 真実を知るのが、怖い。

 兄が姿を消したその理由を知るのが、怖い。

 兄がいなくなったのは、もしかしたら自分に嫌気が差したからかもしれないのだ。

 ── アリスが七歳の時、兄は十七歳。

 アリスの目には大人に映ったけれど、当時の兄と同じ年になった今ならわかる。兄もまた、心の支えを必要とする子供だったであろう事が。

 自分ならきっと出来ないと思うのだ。自分の事すらもままならないのに、更に手のかかる幼い子供の世話を見るなんて。

 だから…怖い。

 兄の口から、そうだと言われる事が。自分が兄にとって、全てを放棄したい程に『お荷物』だったと知る事が──。

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