アリス(3)
その夜、アリスは夢を見た。
不思議な夢だ。
がらんと広い部屋。中央にベッドがある他は家具らしきものは特にない。そのベッドに自分が眠っている。
上空からその寝顔を見下ろして、アリスは困惑した。
夢の中で眠っている自分を見るなんてどういう事だろう、と。
目が覚めたら夢判断の本でも覗いてみるべきかしら? ── そんな事を考えていると、部屋の奥にあった扉が前触れもなく開いて、そこから二人の人間が姿を現した。
あ、とアリスは目を見開く。
二人の内、一人はアリスの知った顔だったからだ。
黒い髪に黒い目。そして黒尽くめの服装── 『後見人』と名乗ってアリスの前に現れたあの紳士だ。
もう一人は女性のようだった。
髪が短い上にすらりとした体型で、女性らしい華やかな雰囲気がないけれど。
「…いつ、迎えに行くと?」
少し心配そうに『後見人』が口を開いた。
「明日の夜だそうです」
答えた声はやっぱり少し低めの声で、中性的な雰囲気を強めるものだった。
「さて、うまく行くといいが……」
「うまく行きますよ」
「だが、あいつはここ数日動きっぱなしだぞ?」
「…いつもの事でしょう。『忙しい』『時間がない』が口癖になってしまう程多忙なのは、彼の自業自得です」
「だが……」
やはり心配そうな『後見人』に対して、もう一人の人物は淡々と相槌を打つ。毒はないが取り付く島のない言葉に、『後見人』も言葉を濁した。
「…ここまで来たら信じるしかありませんよ」
軽く肩を竦めて、彼女(?)は言った。
「彼を。そして…彼女── アリスを」
+ + +
「…──?」
「あれ、目が覚めたの、アリス」
突然目を見開いたアリスに、今、正に彼女を起こそうとしていたジュリアが驚いたように目を丸くした。
いつもなら、アリスは寝起きがあまり良くない。ルームメイトのジュリアから起こされるまで目を開かない事も多いのだ。
だがジュリアの困惑など気付かず、アリスはむくりと身を起こし、周囲をぐるりと見回した。
「…アリス……?」
理解不能なアリスの行動に、ジュリアが困惑気味の声をかけると、ようやくアリスは肩から力を抜いた。
「夢、か……」
「どうしたのよ、アリス。夢見でも悪かったの?」
「うーん…悪い夢という訳じゃないんだけど……」
どちらかというと、意味不明の夢だった。
しかも妙に現実感があって、目を開いた時、一瞬あの夢に出てきた広い部屋で目覚めたような気さえした。
(…あの手紙のせい?)
『後見人』と…見知らぬ女性が出てきた。
眠っているアリスの横で、理解不明な会話をして──。
(……)
何故か最後の言葉が耳に強く残っている。
『彼を。そして…彼女── アリスを』
(…彼って誰だろう? それに…どうしてわたし?)
『信じる』、という言葉が出たせいだろうか。何故かそれは兄と交わした『約束』を強く思い出させた。
幼かった自分に兄が約束させた事。
何があっても── 彼を信じるという事を。
「アリス? ちょっと…大丈夫?」
「え?」
「やっぱり昨日の手紙、良くない事でも書いてあったんじゃないの? 今、すごく思いつめたような顔してたよ?」
心配を隠さず、少し怒ったような口調のジュリアにアリスは思わず微笑む。何処か張り詰めていた心が解れるのを感じながら。
「な、何」
思いがけなかったアリスの微笑にジュリアがうろたえた顔をする。そこに更に微笑みかけて、アリスは感謝と共に言葉を送った。
「ううん…ジュリアがいてくれて良かった、って思って」
ジュリアはこのクィーンズフィールドに来て出来た最初の友達で、唯一無二の親友だ。少なくとも、アリスにとっては。
彼女がいてくれて、縁のない心細さからどんなに救われた事だろう。
そんな風にいつも思っていたけれど、照れ臭くて今まで口にした事はなかった。だからだろう、ジュリアの反応と言えば、これ以上にない混乱したものだった。
「…! 何、恥ずかしい事言ってるのよ! ほら、元気ならさっさと用意して。朝食に遅れちゃうわ!」
真っ赤な顔で早口にそう言うと、アリスの部屋から逃げるように出て行ってしまう。
アリスはそんな後姿にしばらく笑いの発作が止まらなかった。
+ + +
その日の授業はいつも以上に平穏なものに感じた。
空を見上げれば優しい青。春先の穏やかな空気に、眠気すらも誘われそう。
平和だ、と思う。
この平穏はこれから先も続くのだと無意識に思っていた。でも── 本当はわかっている。
夢のような日々はいつか終わる。いつかこの学校を出て、今度こそ一人で生きてゆかなければならない。
来た当初はひどいホームシックにかかって、毎日泣き暮らしていたのに。
ふと昔を思い出して、アリスは一人苦笑する。
十年── なんて長い時間。そして同時に、なんて短い時間。
兄がいなくなった時、アリスは世界に一人きりだった。でもこの十年で、アリスは兄の代わり以上のものを手に入れたと思う。
それは友達であったり、先生であったり、お気に入りの場所、あるいは今まで学んできた全てのこと。
(…あの手紙の事は、忘れよう)
アリスは静かに決意した。
単なる悪戯だと思うし、本気で取る方がきっと変だと思うけれど。
でも、もし── 本当に兄からの物だとしたら。
(『不思議の国』なんて行けなくてもいい。わたしはここが好きなんだもの)
もしかしたら、あれは謎かけのように見せかけた兄からのメッセージではないかとアリスは思う。
つまり── 『不思議の国』とは、現在兄がいる場所の事で、兄はもう一度自分と暮らさないかと言っているのではないか、と。
…どちらにしても、卒業する時はそう遠くない。その時までここに居たいと思ってどうして悪い事がある?
住所がわからないから返事は出来ない。でもあの文面を信じるのなら、その内、兄の元へ自分を連れてゆく人物が現れるだろう。
あの時の『後見人』のように。
ならば、その時に言えばいい。自分はそちらには行かない、と。
この優しく穏やかな世界を捨てられない。それに一番初めに自分をこの場所に一人置き去りにしたのは兄の方なのだ。
(…もう、わたしは兄さんがいなくても生きてゆけるもの)
もう、兄だけを頼りに生きてきた頃とは違う。
アリスは教師の解説を聞き流しながら、窓の外を流れ行く雲を眺めた。